ゼリーのごみが落ちてるんだけど

 午後三時。杏哉が買い物から帰ると、床に、ゼリー飲料のゴミがひとつ落ちていた。それを視界に入れると、杏哉はため息をついた。キッチンの床に荷物を置くと、藍斗に近づいて声を掛けた。

「藍斗、ポイ捨て禁止」

「んー」

 藍斗は聞いてるのか聞いてないのかわからない返事をした。ソファの上で、背もたれの方を向いて丸まってるので、表情はうかがえない。

「おーい、聞こえてる?」

「うん」

「あいとー、起きてる? 今日、夜ご飯食べる?」

「んー」

 藍斗からは、ぼんやりとした返事しか返ってこない。肯定なのか否定なのか悩んでるのかさっぱりわからない答え。だが、ユキマサは何かを心得たように、藍斗のそばに屈んだ。

「ああ、虚無状態ってやつね」

 藍斗がわずかに首を動かしたのを杏哉は見逃さなかった。

 藍斗は不定期で虚無状態に陥る。空っぽになって、何もかもが面倒臭くなり、思考停止する。月に二回なるときもあれば、半年近くならないこともあって、いつそうなるかは藍斗本人にもわからない。突然訪れるのだ。そういう日は、学校を休んで布団に閉じこもっていた。親には話していないので、体調が悪いということにしていた。杏哉と恋人になってからは、休日であれば、杏哉の家に行って、泊めてもらっていた。親には心配かけたくないが、杏哉になら迷惑かけたって罪悪感が一ミリもない。それに、身の回りの世話をすべてしてくれるから非常に楽なのだ。

「久しぶりだね。えっと、まあ、ゼリー食べたし、夜ご飯はいっか。明日食べればいいし。ねえ、お風呂、オレが全部やるから、動いてよ。午前中大学だったし、外出た服のまま、お風呂にも入らず、ベッドで寝られるの嫌なんだけど。かといってソファに寝かせておいて風邪ひかれたら困るから、いい、あとで、ちゃんと動いてよ」

 藍斗は特に反応しなかった。

「嫌がっても無駄だからね。引っ張ってくから。あと、一人で絶対に行動しないで。まあ、動かないだろうけど、絶対に、外に出ないでね。前、フラッと飛び降りそうになってたから、マジで、やめてね。オレが今までお前の世話をしてやった意味がなくなるから」

 藍斗は微かに頷いた。藍斗は以前、杏哉の家で、急に動き出したと思ったら、窓から身を乗り出していたことがある。杏哉はすぐに引き戻したが、それ以降、虚無な藍斗を目の届かない場所に置いておくのが怖くなった。

「まだお風呂入るには早いけど、いっか。ねえ、藍斗、お風呂入るよ。早いけど、外でないからいいよね。ほら、立って」

 杏哉は藍斗の腕を引いて、無理やり立ち上がらせた。藍斗はぼんやりとどこかを見つめ、今にも倒れそうなほど不安定に見える。腕を引っ張ってもいいのだが、時間がかかりそうだったので、杏哉は藍斗を持ち上げた。俗にいうお姫様抱っこってやつだ。慣れた手つきで抱き上げると、杏哉は藍斗を脱衣所まで運んだ。慣れたように体を洗って服を着せて、ベッドに運んだ。たとえ、藍斗を運ぶという肉体労働があっても、こういう日の藍斗はされるがままだから、口答えをしてくる普段の藍斗よりも、世話をするのが断然楽だと感じている。寝室の扉を開けたまま、杏哉は自分の夕食を済ませ、寝室で藍斗の横に寝っ転がりながらパソコンで大学の課題を終わらせた。そして、杏哉はいつもよりも早い時間に眠りについた。ダブルベッドを選んで正解だったと思いながら。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る