防音室にこもっている藍斗に声をかける杏哉

 タオルを片手に持った杏哉は防音室のドアをガチャリと開けた。その瞬間、最近よく聞く音楽が流れ始めた。藍斗がその音楽に合わせて踊っている。黒い半袖シャツを着て、汗を垂らしながら、軽やかに体を動かしている。藍斗は自分の世界に入り込んでいて、部屋の扉が開いたことには気づいていないようだ。

 杏哉は防音室の中に入ると、扉を閉めて、大きな声で藍斗を呼んだ。

「藍斗!! ご飯! お風呂!」

 藍斗はピタリと動きを止めて、息を切らしながら迷惑そうに横目で杏哉のことを見た。

「もう夜ご飯できるから、お風呂入って。あとこれ」

 そう言って杏哉は手に持っていたタオルを藍斗の顔に向かって投げつけた。藍斗は杏哉の行動を予測していたようで、難なくキャッチした。

「汗拭いてからこの部屋出てね」

「なんで毎回顔面に投げつけて来るんだよ。無駄なのに」藍斗は汗をぬぐいながら言った。

 杏哉は「気にしないでいいよ」とだけ言うと、部屋の隅に置いてある大きい水筒とゼリー飲料のゴミ二つを回収した。

「よく一日中踊ってられるよね」

「それしかやることないからな」

 藍斗が一日中防音室に居ることはよくある。普段はめんどくさがってソファの上から動かないのに、ダンスのためにはよく動くのだ。

「動画撮ったの?」

「撮ってねぇ」

「今月はさっき踊ってた曲アップするの?」

「ああ、インスト作っとけ」

「もうあるよ」

 藍斗は動画投稿サイトに月に一回ダンスの動画を『リーフ』という名前で投稿している。圧倒的なダンスの上手さと、ついつい見入ってしまうほどの華があり、さらに自分で歌った音源を使用していて、チャンネル登録者は六十万人を超える。パーカーのフードとマスクで顔を隠している上に、月一の動画投稿以外はSNSでの発信はしていないにもかかわらず、チャンネル登録者数は増え続けている。だが、人気が出ようが出まいが藍斗にとってはどうでもいい事なので、チャンネル登録者数になんてこれっぽちも興味関心が無い。

「うわ、お前も歌うつもりかよ」

 藍斗は嫌そうに顔をしかめた。

 杏哉も藍斗と同じように動画を投稿しているが、藍斗のように動画投稿がメインではなく、配信がメインだ。週に三日くらいの配信と月一くらいで歌動画を上げている。耳触りのいいテノールの声と、圧倒的な歌のうまさが人気で、『リョク』という名のチャンネルの登録者は百万人を超える。杏哉も登録者を増やしたくてやっているわけではないが、稼げるだけ稼ごうということで、活動の頻度が高くなっている。防音室には結構いい値段のする配信機材や録音機材がそろっている。

「匂わせみたいになっちゃうね」杏哉はにこにこしながら言った。

「誰もそんなこと思わねぇよ。今の時期、この曲使ってる奴なんて大量にいるわ」

「でも、オレとお前のはインスト同じだよね」

「そんなんで誰が気づくんだよ。くだらね。風呂入ってくるわ」

 藍斗は杏哉に投げつけると防音室を出て行った。もちろん杏哉はタオルをしっかりと躱した。

 






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