大学の入学式の朝

「藍斗、準備できた?」

 杏哉の問いかけに藍斗は舌打ちで返した。すべてを悟った杏哉は噴き出した。

「ふっ、やっぱりネクタイ結べないんじゃん。素直に言えばいいのに」

 今日は大学の入学式。藍斗と杏哉は寝室でスーツに着替えていた。初めて自分で結ぶネクタイに藍斗は苦戦していた。一方、杏哉のほうは苦戦することなく、スムーズにキレイにネクタイを結び終えていた。

 藍斗は横目できれいな結び目のネクタイを見た。

「羨ましいでしょ。結んであげようか?」

 沈黙の後、藍斗は杏哉に自分のネクタイを差し出した。

「素直だね」

 声からニヤニヤとしているのが伝わってきて、藍斗は絶対に杏哉の顔を視界に入れないことに決めた。絶対にムカつく顔をしている。杏哉は藍斗からネクタイを受け取ると、藍斗の後ろに回った。

 藍斗が苦戦していたのが嘘のようにあっという間にネクタイが結ばれた。

「できたよ。お前、ほんと不器用だよな」

「……うるせぇ」

「声ちっちゃ」杏哉はからかうように言った。

「いつまで後ろに立ってるんだよ。近い早くどけ」

 杏哉は藍斗から少し距離を取った。

「せっかく結んでやったのに、感謝したらどう?」

「は? するわけないだろ。確かにお前は、俺のネクタイを結んだ。でもな、その、俺を馬鹿にした表情してるやつに、感謝の気持ちなんて湧いてこねぇよ」

「今顔見えてないじゃん」

「見えてなくとも、声でわかるわ。外面はいいくせに、俺に対する態度クソだよな」

 杏哉はほぼすべての人に優しく接するため、たいていの人に好印象を持たれている。相手がどれだけうっとうしくても、嫌な態度を取られても、相手にどれだけマイナスな感情を抱いても、表に出すことをしない。

「だって、お前に愛想よく接する必要ないでしょ」

「確かに。お前に優しくされたら気持ちわりぃしな。つーか、俺に嫌味言うときでさえ、笑顔のままだよな、お前」

「だって、お前のことが心底嫌いだって表情に出してるところを、万が一にも他の人間に見られたら、オレの誰にでも優しいやつっていうイメージが崩れるじゃん」

「ここ家だし」

「家でも気を付けてないと、外でお前に会った瞬間に態度に出ちゃうかもしれないでしょ」

「お前の作り笑いのおかげで、オレの苛立ちは倍増してるよ」

「それは良かった」杏哉は藍斗以外に向けるような優しい笑みを浮かべた。

 藍斗は舌打ちをすると、杏哉の横を素通りして、何も持たずに玄関に向かった。

 杏哉はサイドテーブルに置きっぱなしの藍斗のスマホを回収し、二人分のカバンを持ってから、玄関に向かった。

 杏哉は藍斗にスマホを差し出した。

「スマホ、忘れてる。お前、日程も何も知らないんだから、それないと困るでしょ」

 藍斗はスマホを受け取ると、ポケットに突っ込んだ。

「あと、鞄」

 そう言って杏哉はカバンを一つ差し出した。

「えぇ、いるか? 今日は入学式だろ」

「いや、入学式の後、ガイダンスが学部ごとにあるから、そこで配布物あるよ」

「まじか。俺、場所わかんねぇ」

 藍斗は差し出された鞄を受け取りながらそう言った。

「だと思った。後でスマホに送っておくからちゃんと見といて。オレと学部違うから、場所違うんだよね。連れてけないからひとりで行けるよな」杏哉はまるで子供に言い聞かせるような口調で言った。

 藍斗は楽そうだからという理由で文学部を選び、杏哉は父親の会社を将来次ぐことを考えて経営学部を選んだ。

「行けるわ。どうせ、大学行きゃ教えてくれる人いるだろ」

「ちゃんと人と話せる?」杏哉はまるで小さな子供に問いかけるような口調で問いかけた。

 藍斗は大きく舌打ちすると、「うっざ」と吐き捨てた。

「はやく行くぞ」

 外に出ようとする藍斗を、何かを思い出したように杏哉は引き留めた。

「鍵、鞄の内ポケットに入ってるからなくさないでね。エントランスと部屋の鍵一緒だからね。ピッてかざせば開くから」

「それくらいわかってる」


 二人は入学式の会場へと向かった。






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