【2-7】一歩前進
キサラギが脱衣場から出ると、空は暗く未だに雨が降り続いている。
目覚めてから二日ぐらい経つが、ずっと雨が降っている気がした。
「(梅雨だから雨続きになるのも仕方ないよな)」
屋敷の目の前に広がる湖を縁側から見つめながら、キサラギは雨音に耳を澄ませる。
一体どういう技術で作られたのか知らないが、
昨日、好奇心でカイルが湖の底を観察していたが、魚がいたとはしゃいでいたような。
キサラギはそれを思い出して水面を見下ろすが、底が暗くて見えなかった。
「(時間もあるのか?)」
カイルの時と比べて明らかに暗いのもあるが……。
じっと目を凝らして眺めていると、「キサラギ?」とレンが声を掛ける。
「何かあった?」
「いや……昨日カイルが魚いたって言ってたの思い出して」
「魚? ああ、もしかして鯉の事?」
そう言って、レンは手に持っていた小袋からひとつまみの餌を水面に落とすと、大きな魚影がいくつも近づき姿を現す。
最初はいいのだが、次第に我先にと水飛沫をあげながら争う光景にキサラギは呆然としてしまう。
ちなみに鯉は黒いのもいれば、紅白もいたりと様々な種類がいた。
「昔、寂しいからって当時の桜宮当主が飼い始めたらしいんだけど、今は大家族になっちゃってね」
餌を追加しながら、レンはしゃがみ込むと鯉を見つめる。
落ち着いたのか、少しずつ鯉は水の中へと戻っていく。
「昔はよく落ちて大騒ぎしたなぁ」
「柵とかないしな」
退いていく鯉を見つめていると、「ごめんね」とレンに謝られた。
最初は何の事かは分からず「何がだ」とキサラギが聞くと、「ライ兄様の事」とレンが言った。
「何でお前が謝るんだ」
「だって、そんな事があったって知らなくて……その、知らない間に、傷つけてたかもって」
申し訳なさそうに言うレンに、キサラギはため息をついて「そんなの気にしてねえよ」と言う。
「気にしてねえけど……」
「?」
「いや、なんでもない」
腕を組んで、キサラギは柱に寄りかかる。
言いかけてやめたキサラギをレンは言葉を待つように見つめていると、「レン様」とウォレスが歩いてくる。
アユが呼んでいることを伝えると、レンは「分かった」と言って、キサラギに手を振ってその場を去った。
ウォレスはキサラギを見ると、「話の途中だったか?」と言うが、キサラギは首を横に振る。
「そうか」
「ああ」
「……キサラギ」
「なんだ?」
「何故ライオネルを殺さなかったんだ」
ウォレスの問いにキサラギは眉を顰める。そして、「お前に関係ないだろ」と言った。
だがウォレスは納得がいってないようで、狐の面の奥からじっと見つめてくる。
無言の睨み合いが続いた後、ウォレスは小さな声で「すまない」と謝ってくる。
「だが、気になったんだ。何故、仇にしていた人間の前であんなに冷静になれる?」
「……」
キサラギはウォレスから目を逸らすと、「それはこっちが知りてえよ」と呟く。
勝負をして、ようやっと踏ん切りがついた。ただそれだけで、ライオネルとの仲はこれからも複雑な関係である事には変わりない。まさに腐れ縁みたいなものだろう。
本音をいうと、もしライオネルが絵に描いたような極悪非道の者だったならば命を奪っていたかもしれない。けれども彼は違っていた。
「アイツは……良いやつだって。嫌でも分かってしまった。さっきの勝負も周囲を気遣っていたし、蘭夏でも手を出さなかった」
「だからできなかった。それが、悔しくて仕方ない」キサラギは静かに、だが辛そうにそう言った。
もし、あんな出会い方をしていなければ。ライオネルがヴェルダではなく、桜宮に早く来ていれば。……ライオネルが村を壊滅させる前に、止められていたら。
なんて、タラレバなことは特にここ数日はずっとキサラギは考えていた。しかし同時に前に進む事を考えている自分もいた。
だいぶ傷が塞がった右手をさすりながら、顔を上げる。
「真実がある以上、立ち止まっているわけにはいかないんだ。こんな吐き気のするような出会いをさせた奴らをぶっ倒す。今からはそう、考えていく」
「……そうか」
キサラギの決意ともとれる言葉に、ウォレスは「強いな」という。
強くなんかない。強がりだ。言葉にはしなかったが、キサラギは思った。
「羨ましいよ。その強さが。俺はまだ、その仇ですら見つけていないのに」
「(……仇?)」
離れようとするウォレスに、キサラギはふと呼び止める。
「そういえばお前。前に
「……ああ」
「それは、レンを探していたからか?」
ウォレスはしばらく考えた後、「それもあるな」と言って去っていった。
※※※
「……」
ピクリ。とマシロは何かを察して手を止める。
梅雨に入っても相変わらずこの場所は雨がよく降るが、今日は珍しく陽の光が木々の隙間から差し込んでいた。
湯呑みを台の上に置き、風通しをよくする為に戸を全開にしていたのだが、外から何かがやってくる気配がして縁側に向かうと大きな影が通り過ぎていった。
「あれは……蒼龍か」
少しして、森の奥から空色の髪をした子どもが歩いてくる。
ここに来るのは何ヶ月ぶりだろうか。久々に話し相手が来た事で、マシロは笑みを浮かべて茶菓子の準備をする。
「マシロ様〜」
「よく来たな蒼龍」
「ささ、入れ」と蒼龍を屋敷の中に招く。蒼龍は嬉々として入ってきた。
蒼龍……。彼は四神の一人であり、今は
四神は彼含めて後三人いるが、全員訳あって子どもの姿をしていた。
ちなみにマシロはまた違う理由で子どもの姿なのだが。
「所で突然じゃったが、何かあったのか?」
「まあ……紅様からちょっと」
蒼龍の目の前に緑茶の入った湯呑みを置くと、蒼龍は小さく頭を下げて湯呑みを手にする。
紅様というのは聖園守神の名前である。
側に座ると、蒼龍の表情を見て笑みを消した。どうやらあまり良い話ではなさそうだ。
「
「ふむ……そうか」
八年前というのはつまり『
少なくとも今の魔鏡領域に関する案件といえば、その件含めてヴェルダぐらいしかないのだが、マシロはふと別件について気になっていたことがあった。
「そういえば、魔鏡守神の件はどうなった?」
「え、魔鏡守神様ですか……? それは……」
首を傾げる蒼龍に、「やはりうまくいってないようじゃな」とため息を吐く。
そもそも魔鏡守神がきちんとしていれば、過去に起きたあの大きな二つの戦争も、ヴェルダが好き勝手やっている問題も大した事がなかっただろうに。
「魔鏡守神が姿を消してからかなりの時が経つ。それでも、領域としての加護は続いておるから存在はまだしているんじゃろう。……だが」
「どうも気になる」マシロの言葉に、蒼龍は静かに聞いていた。
蒼龍自身はそこまで気にはしていなかったが、同じ四神の仲間の中に、他の神の命令で探りを入れている者がいた事を思い出し、帰ったら一度聞いてみようと思った。
「とにかく今は魔鏡領域内での動きを警戒しなくては、ですね」
「……そうじゃな」
マシロは頷き、木の皿に入っている煎餅を一枚取り出すと口にする。
口の中で噛み砕けば甘じょっぱい味が広がる。蒼龍も煎餅を食べ始める中、何となくキサラギの事が心配になってくる。
「……今日は、キサラギさん居ないんですね?」
「あやつは少し前に魔鏡領域に旅に出た」
「え、そうなんですか」
「ああ」
変な事に巻き込まれていなければいいが。マシロがそう思ってしまうのは、傷ついたキサラギを拾ってからずっと見守ってきたからというのもあるだろうが……。
「(あやつは、本当はこの世の者じゃない。だったら、早く元の世に帰してあげたいのじゃがのう)」
それはそれで寂しいという気持ちもなくはないのだが、こんな危ない世界に居させるよりは、生まれた世で生きた方が『幸せ』ではないのか。
幸福を司る神として、保護者として、そうしたほうが良いのはマシロも分かっている。
けれども、ただ帰すだけでは彼の為にならない。彼には本当の名を思い出してもらわないと。その為には……。
「(あのマコトという娘に任せるしかないのかのう)」
そんな事を思いつつ、マシロは緑茶を啜る。その祈りはマシロの知らない所で叶えられようとしていた。
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