【魔女の世界――繰り返す死と過去の世界で】

【魔女の世界――繰り返す死と過去の世界で】

「……二人ともどうしたの、その顔。何があったの?」

 二人が店に戻ってくるなり、椅子に座っていた要が目を見開いてそう聞いてきた。

「別になんでもないわ」

「そうですよ。なんでもないです」

 顔に殴られたような跡を浮かばせている二人は、順番にそう答えた。咲子のほうがぼこぼこにされているが、小夜はポニーテールに結んでいた髪がうなじのあたりまで短くなっている。なんでもないと言われても、明らかに何かあったとしか思えないのだが。

 小夜のスーツはところどころが破け、ぼろぼろになっている。咲子はずっと着ていた黒いセーラー服から紫の半袖シャツと黄色いスカートに変わっている。着替えてきたのだろう。

「ほら、さっさと帰りますよ」

「え? ど、どういうこと?」

 小夜が要に言うが、要は突然のことだらけで状況がさっぱり理解できていない。

「賭けは? というか、今の時間……」

「賭けは終わったわ。あなたの出番は、もうないわよ」

 と、いつの間にかカウンターの内側に移動した咲子が、コーヒーポットを火にかけながら言った。

「帰る前に、一杯どう?」

「あ、じゃあお願いします。咲子さん。私は砂糖とミルクを入れないでください」

「はいはい。かなめくんは?」

「え?」

 小夜は当たり前のように要の向かいの椅子に座っている。咲子から急に話を振られ、要は戸惑う。

「砂糖とミルク、どうするの?」

「ぼ、僕もいらないかな……」

「そう。時間がかかるから、大人しく待っててね」

 そう言うと咲子は、慣れた手つきでマグカップを用意し始めた。コーヒーの粉の匂いが、店内に漂う。

「……それで、その顔はどうしたの? すごく痛そうだけど……」

 向かいに座った小夜に、要が聞いた。

「顔よりも手が痛いです。指がうまく動きません。多分、どこかしらの神経を痛めてます」

「手?」

 要は小夜の手に目をやった。彼女の両手のこう……関節部分の皮膚は裂け、乾いた血が張り付いている。指の何本かは爪もげ、爪の下にある肉が真っ赤に染まっている。見ているこっちが顔をしかめたくなるほど痛々いたいたしい傷だ。

「うわ、すっごく痛そう……」

「だから、すごく痛いんですってば」

 傷を見て顔をしかめる要に、小夜は言い返した。カウンターでは咲子が三人分のコーヒーを準備している。

「ひとまずそのままじゃだめでしょ。応急手当てぐらいならできるからさ……やってあげる」

 そう促され、小夜は素直に両手をテーブルの上に出した。

「……素直に手当てさせてくれるんだね。信用してくれないのかと思った」

「こういうところでいちいち疑っていても、きりがありませんから」

 と、小夜は言った。

「その代わり変なことをしようとしたら、容赦ようしゃなく鼻の骨を折りますからね」

「わあ怖い」

 要は腰に巻いているポーチから、消毒液や手当て用の包帯やらを取り出しながら笑った。

「消毒液と包帯ぐらいしかないんだけど……我慢してね」

 と言って、要は慣れた手つきでガーゼに消毒液をしみこませていく。

「まずは消毒だね。ちょっとしみるよ」

「ちょっとってどれくらいですか。痛すぎると反射的に殴ってしまうかもしれません」

「それは、できれば我慢してほしいところかなあ」

 要はガーゼを手に持ったまま苦笑した。

「まだ手のかわけてるだけでしょ? お腹を撃たれたり頭の中をぐちゃぐちゃかき回されるよりかは、全然痛くないと思うけど」

「それはあなただけでしょう? 普通の人はそんな怪我しませんよ」

「あれ、僕のことまだ普通の人間だと思ってたの?」

 小夜の右手の傷に消毒液をしみこませたガーゼを当てながら、要はさらりと言った。そんな要を見ながら小夜は何か言い返そうと思ったが、言葉が出なかったので仕方なく黙る。傷に消毒液がしみる痛みに、小夜は軽く顔をしかめる。

「これ、殴った時の怪我だね。ついに、むしゃくしゃして人でも殴ったの?」

「失礼な。私がそんな人間に見えますか」

「見え……ないこともないけどね」

 消毒した右手の怪我に包帯を巻く要を、小夜は無言で睨む。要は小夜の両手に視線を向けているため気づかない。

「はい、次は左手ね。うーん、こっちもひどいね。痛そうだ」

 要は同じようにガーゼに消毒液をしみこませる。慣れた手つきで、傷を消毒していく。

「……慣れてるんですね」

 ふと傷の手当てをする要を見ていた小夜が、そう聞いた。

「まあね。自分でやってたからね」

 要は、消毒を終えた小夜の傷に包帯を巻きながらそう返す。

「僕の場合は殴るほうじゃなくって殴られるほうだったんだけどね。それでできた傷をね、いつもこうやって自分で手当てしてたんだ。殴られた青あざや腫れなんかは、家に帰るまでにはどうにもできなかったんだけど」

 要は言い、小夜の左手にも包帯を巻き終える。

「はい、終わり。一応表面の手当はしたけど、骨も痛めてるかもしれないからお医者さんに見せたほうがいいよ。今日は診療所に先生がいるかも」

「ありがとうございます。ずいぶん楽になりました。診療所っていうのは、確か居住棟にある所ですよね」

「うん、そうだよ。毎月の土日と祝日と……あとは健康診断とかの日しか開いてないんだ。あとで、開いてるかどうか受付に聞いてみたらいいよ。ま、アカリ君がいるから、みんな怪我しても先生の所に行かないんだけどね」

「アカリ君って……あの、ちょっと口が悪い……」

「そうそう。性格も口も悪い男の子」

 答えにくそうに小夜が言うと、要はあっさりとアカリのことをそう紹介した。

「僕はそのアカリ君と専属契約みたいなのをしてて、クレジットカードを渡してるんだよ。好きな時に好きな額を使っていいから、僕が怪我したら治してねっていう内容で」

「そ、そうだったんですか……」

 教えられたことに小夜の顔が少々引きつる。あの子、私の全財産の三百万を情報料として取っておいて、自由に使えるクレジットカードを持っていたのか。カードの限度額がいくらまでかは知らないが、それなら別に、私からお金を取ってもあまり意味はなかったのでは。小夜はあの少年のことを頭に浮かべて、そう思った。

「どうしたの? なんか暗い顔してるけど」

「……別になんでもありません。本当に今さらですが、少し後悔しているというか」

「ふうん。そうなんだ。頼れる時は東條さんを頼ったほうがいいよ。アカリ君はお金取るから」

「そうですね。心にきざんでおきます……」

 と、そんな小夜の前に、コトリとコーヒーの入ったマグカップが置かれた。

「仲が良いのはいいことよ。あなたたち、いつの間に仲良くなったのかしら」

 咲子は言いながら、同じくコーヒーの入ったマグカップを要の前に置く。

「はい、かなめくん。忘れる前に渡しておくわ」

 と、要の前に咲子が何かを置いた。

 それは青色のUSBメモリである。要がこの世界に来ることになった理由だ。そしてそこから全てが始まり、数時間前に全てが終了した。最終的に賭けを終わらせたのが小夜だということを、要はまだ知らない。

「……」

 要は置かれたそれと、咲子の顔を交互に見る。まだ何かする気かと、要は疑っているのだ。

「そんなに睨んでも、もう何もしないわよ。あなたには強いパートナーがいるでしょう? 私も、これ以上顔をぼこぼこにされたくないわ」

 そう言うと咲子は背を向け、カウンターの椅子に腰を下ろした。

「……」

 要はしばしの間咲子を見つめていたが、何もしてこないと判断したのだろう。置かれたそれに手を伸ばし、ポーチを開けて中にしまった。

「そういえば要君。あなた、咲子さんとの賭けが終わらないと、ここから出られないんじゃないですか?」

 と、小夜が聞いた。咲子が出してくれたコーヒーのマグカップを、包帯まみれの両手で抱えるようにして掴んでいる。

「それは大丈夫だよ。咲子さんが負けたらこのメモリを渡すっていう条件で賭けが始まったからね。一度受けちゃった勝負でも、勝ち負けが決まらなくても、そういう条件をたしたら終わるんだ。ゆるいというか、いい加減というか……ちょっと適当なんだよね。僕らのそういうところは」

「仕方ないわ。あの神様は気まぐれだもの」

 要がそう言うと、カウンターの椅子に座っている咲子がそう付け加えた。

「……当たり前のことを聞くんですけど、二人はその、神様……とやらに会ったことがあるんですよね」

「まあね」

「ええ。そうね」

「どんな人だったんですか? 私じゃ『神様』なんてとても想像がつきませんが」

 小夜は純粋じゅんすいに思った疑問を二人に投げかける。一度「死」を経験し、動く死人として今ここに生きている二人は、こう答えた。

「会わないほうがいいよ。あんな神様」

「そうよ。会わないほうがいいわ。どんな気まぐれを起こすか分からないもの」

 と、二人は口々に似たようなことを言い、それぞれマグカップを傾ける。小夜はそういうものなのかと思い、それ以上は聞かなかった。そしてしばし、三人の間に会話はなくなった。


「ご馳走様でした」

 要がコーヒーを飲み終わったタイミングで、小夜が席を立つ。

「……ご馳走様」

 要も椅子から腰を浮かせながら言った。出された飲み物に毒を入れられている可能性も考えたが、小夜があまりにもごくごく飲むのでそれはないと判断したのだ。念のため対価を集中させてがいがないことも確認したうえで、要は大人しく出されたコーヒーを飲み干した。

 さすがに出された物を一口も飲まないまま出て行くというのはあまりにも失礼だ。それぐらいの礼儀と心は要にもそなわっている。

 要は近くに立てかけてあった散弾銃を肩に引っ掛け、さっそく表の出入り口へ向かう。咲子も、二人を見送るために席を立つ。

「楽しかったわ。よかったら、また来てね」

 そう言った咲子は、レジ台の前で立ち止まる。

 要が店の扉を開けると、その先に広がるのは蛍光けいこうとうで照らされた白い壁と白い床。無機むきしつな隔離棟の廊下だった。その光景を見て改めて、変な光景だと小夜は思う。ここへ来る時は隔離棟の303号室からだったのに、今度はこの店の中から廊下へ戻るなんて。

 要が店から廊下に出る。振り返り、小夜に言う。

「小夜ちゃん。早くしないと閉じ込められちゃうよ」

 小夜の横にいる咲子も、いたずらっぽく笑いながら付け加える。

「そうよ。ずっとここに閉じ込めちゃうわよ」

 小夜は廊下にいる要と、横にいる咲子を順番に見た。そして首だけを後ろに向け、店を見回す。レトロ調ちょうの小さな喫茶店。テーブルが三つ並び、それぞれ四つずつ椅子が置かれている。それと、カウンター席が四つ。たった二十席しかない小さな喫茶店。

 小夜は店から顔を戻し、要に言った。

「大丈夫ですよ。私はもう、ここから出る方法を知っていますから。ね、咲子さん」

「そうね。ここから出る方法は、誰にでも分かることだものね」

 と、咲子も言った。要だけが顔に「?」を浮かばせている。

「……あのさ、二人とも本当に何があったの? いつの間に仲良くなったの?」

「何もないですよ。言うほどのことじゃありません」

「そうよ。なんでもないわ。気になるなら小夜ちゃんの頭の中でも覗けばいいじゃない。あなた得意でしょう? そういうの」

 咲子が皮肉ひにくっぽく言ってくる。要は憮然ぶぜんとした表情を浮かべながらも、あとでそうするかと思った。

 小夜も要に続き、隔離棟の廊下に出る。

「私はここまでよ。その先に行くと、廊下じゃなくて店の外に出てしまうの」

 その声に振り返った小夜は、自分の足元を見た。そこにはちょうど、店の中と廊下の境目さかいめのような線があった。なるほど。この線がこの店とこちらの世界を繋ぐ境界になっているのだろう。

 その場所が見えるのにそこへ行けないとは、何ともひどい対価だろうか。小夜はそう思う。

 そう思ったが、口にはしなかった。それが彼女の願いに見合った対価だからだ。その対価を消すかどうかは彼女が決めること。あの世界から出るかどうかも、彼女が決めること。彼女に「ひどい対価ですね」と言うことは、今ここに生きている彼女をあわれむということだ。

 彼女は他人から哀れまれる理由も、同情されるいわれもない。彼女は一度目の人生で願ったものと引き換えに相応の対価を背負い、こうして二度目の人生を生きることを選んでここにいるのだから。

「次に来る時は可愛い服なんかを持ってきてくれると嬉しいわ。流行はやりの服とか、ファッション雑誌でもいいわよ」

「持ってくるのはいいんですけど、ちゃんとその分のお金くれますか?」

「はいはい。ちゃんとあげるわよ」

「じゃあ持ってきます。ちゃんとその分のお金くださいよ」

「はいはい、用意しておくわ」

 咲子があきれながら言う。会話が一区切りすると、小夜が切り出した。

「そうだ。ずっと気になっていたことがありまして。聞いてもいいですか」

「なに?」

 小夜は真顔で尋ねる。

「どうしてずっとセーラー服を着ていたんですか? もしかして学生がくせいだったんですか? それにしては格好が合っていないような気がしますが……」

 会話を聞いていた要が噴き出し、口元を押さえて肩を震わせている。笑いをこらえているのだ。

「……」

 一つ、小さくため息をついて咲子は答えた。

「格好が合っていなかったのはほうっておいて。別に理由なんてないわよ。可愛いから着ていただけよ」

「過去をなつかしむ、とかではなくて?」

 図星ずぼしをつかれ、咲子は一瞬固まる。

「……まぁ、それも、あったかもしれないわね」

「ということは……今は学生さんじゃないんですね」

「そうよ。学生だったのなんて、もう十年以上も前だわ」

「十年前ってことは……」

「私が死んだのは二十九歳よ」

「うわ。それで『魔女っ子サキちゃん』とか言ってたんですか」

 小夜はまたもや真顔で言った。要がもう一度噴き出す。

「……それも放っておいてちょうだい」

 咲子は額を手で押さえながら、ため息のように返した。

「まったく、変な人を連れて来たものね。かなめくん」

 そう言われるが、要には何のことか分からない。

「もう、あなたと話していると頭が痛くなるわ。ほら、これあげるからさっさと帰ってちょうだい」

 咲子は小さなマッチ箱を小夜に渡す。

「貰ってもいいんですか?」

「死んで過去に戻ったら、お店の中の物も元通りになるの。だから、あげるわ」

「では遠慮なく頂きます。ありがとうございます」

 小夜はそれを受け取り、上着のポケットに入れた。

「それじゃ、また」

 挨拶をすると、小夜は廊下を左へと歩いて行く。要も「またね」と小さく手を振り、二人はあっさりと去って行った。


 一人になった咲子は扉を閉め、店の中に戻る。二人が使ったマグカップをトレーに置き、洗い場に持っていく。

 蛇口をひねって水を出し、かちゃかちゃとマグカップを洗っていく。店の中に目をやると、二人がいなくなった静寂せいじゃくが店内にただよっている。客がいなくなったこの場所は、いつもより広く感じる。

「……」

 だが、いつもよりは寂しくない。その理由がなぜかは、分かっている。咲子は、ふふ、と一人、静かに笑った。

「それが愛なのですか」

 と、声が聞こえた。顔を向けるといつの間にか正面の席に、いつぞやの透明な髪の女の子が座っていた。

「さあね。どうかしら」

 咲子は手を伸ばして、自分が使ったマグカップを取りながら言った。それも丁寧に洗っていく。

 洗い物を終え、蛇口を閉める。洗った物をさかさにし、かごに並べる。

「あなたはたされているように見えるのですけれど。それが愛なのですか。分からないのですけれど」

 女の子は表情一つ変えずに聞いてくる。

「さあね。どうかしら。私が満たされているのは、どうしてかしらね」

 咲子は手を拭きながら、窓の外を眺める。

 そして思い返す。ここがまだ店になる前の時のことを。壁紙もテーブルもないこの場所で、彼と一緒にこの店の名前を決めた時のことを。


「秋仁さん、ここがいいわ。ここに決めましょう! ここなら路面電車の駅も近いし、大きな通りがすぐそばにあるわ。きっとお客さんがいっぱい来てくれるわよ」

 壁紙もなく、床板しかない小さな空間で咲子がはしゃぐ。着ているワンピースが、彼女の動きに合わせてふわりと舞い上がる。

「……うん、そうだね。中も綺麗だし、そんなに広すぎることもない。僕らにはちょうどいいかもしれないね」

「そうでしょう? 私、ここが気に入ったわ。ここに決めない?」

「そうだね。ここにしようか」

 裏口を開けて外を見ていた秋仁が、咲子に顔を向けて言った。彼の手には、他の空き店舗の図面ずめん間取まどりを書いた紙がある。

「どうでしょうか。この店舗は小さいですが、近くに大通りや商店街があります。テーブルや椅子などを置く場合、収容できる人数は少なくなりますが……」

 スーツ姿の不動産屋が、二人に尋ねる。その男に、秋仁は言った。

「気に入りました。ここに決めようと思います」

 秋仁が咲子に目配めくばせする。目が合った咲子も、同意するように頷いた。

「ありがとうございます。ではさっそく、書類のほうをご準備させていただきますので、一度我々の店舗に戻って……」

 不動産屋の男が、そう言いながら表の出入り口から出て行こうとする。

「あ、すいません。もう少し見てもいいですか?」

 と、秋仁が言った。不動産屋の男は足を止めて振り向く。

「ちょっと二人で見たいんです。すぐに行きますので」

「分かりました……。表にいますので、何かご不明なことがあれば呼んでください」

 そう言うと不動産屋は、外に出て行った。

「必要な物はテーブルと椅子と、カウンターと……お店の名前も考えなきゃね」

 秋仁が、ここの図面の紙を見ながら言う。

「そうね。この広さだと、テーブルは三つぐらいしか置けないんじゃないかしら」

 咲子は周りを見渡しながら言った。

「あとカウンターを置くなら……かなり狭くなるかもしれないわね」

「それぐらいのほうがいいよ。僕には、これぐらいで十分すぎるよ」

 図面から顔を上げた秋仁が、外を見る。

 窓の外に見えるのは、咲子が働く大型百貨店。人がぎゅうぎゅう詰めになった路面電車。ひっきりなしに走る自動車と、道を歩く大勢の人間たち。

 咲子も、そんな景色を窓から眺める。

「実はね、お店の名前は前から考えていたの」

 と、外を見ながら咲子は言った。

「どんな名前?」

 秋仁が聞き返す。咲子は、考えていたこの店の名前を答えた。

「この名前にはね、こんな意味を込めたの。

 いつでも、いつまでも、幸せな時間を過ごしてもらえるようにって。ほら、砂時計ってひっくり返しても時間をはかれるでしょう? だから、私たちのお店でいつでも幸せな時間を繰り返してほしいの。ここにくればどんなに苦しいことも忘れて、幸せの中にいてもらえるようにって」

「素敵だね。うん、それにしようか。それがいい」

 秋仁は笑って頷いた。

「素敵な店にしようね。このお店の中でずっと、幸せな時間を繰り返してもらえるように」

 秋仁は笑いかけた。向けられたその笑顔に、咲子は大きな幸せを感じる。この人とずっと一緒にいたいと、心の底からそう思う。

 そして向けられた彼のその笑顔を、彼の横でずっと見ていたいと思ったのだ。


 カウンターの内側に座った咲子は、肘をついて外を眺める。

「……私が満たされているように見えるのは、あれが理由かもね」

 と、咲子は人差し指で窓の外を指さした。女の子は無表情のまま首を後ろに向け、さされた先を見る。咲子の指の先には、止まった路面電車や動かない車たち。誰一人としていない大通りが広がっている。

 それがどういう意味か分からず、女の子は首を傾げた。咲子は差している指を引っ込め、窓の外を眺める。

 そこに広がるのは、在りし日の過去たち。どんな奇跡を願っても、誰が何をしようとしても戻ってこない、過ぎ去った光景。当時そこになかったものはなく、当時その時にしなかった会話や行動は、ここにはない。ここにあるのは自分が彼と生きてきてから、「死」を迎えた時代だけ。昭和五十六年、一九八一年の世界だけ。

 だがここには、彼と過ごした思い出がある。彼と交わした会話の記憶がある。だから自分はここにいる。だから自分は、ここにこうして生きている。それだけで、もういいのだ。

 そんな世界を、朝日が照らし始める。六月十五日が終わり、六月十六日が始まる。

 咲子は、明るくなり始めた空を見ながら思う。そういえば、こうしてじっくり朝日を見たことはなかったかもしれない、と。こうしてじっくりこの世界を見たことは、なかったかもしれない。いつもはすぐに「死んで」いたから。

「いい朝ね」

 咲子は、昇ってくる朝日を見つめて言った。

 また、「今日」が始まる。一九八一年の、六月十六日が始まる。彼と一緒に死ねず、自分だけが生き残った日が始まる。何度目か分からない、「今日」が始まる。

 朝が来て夜が来て、また同じ日に戻る。その繰り返し。彼がいない世界など、自分はいらないと言ったのだから。だからこうして、自分は今この世界にいる。

 彼が死ぬ日を見て、そのあとを追いかける。その繰り返し。自分がこの世界から出る選択をしない限り、この世界はずっと続いていく。

 太陽が顔を覗かせる。それを見つめる咲子の顔は、もはや死んだ感情を浮かべた無機むきしつなものではない。何かがれたような、人間味にんげんみの戻った明るい表情だった。

 空っぽの街が朝日の色に染まり始める。その光景を見て、咲子は思う。

 こういう朝も、悪くない。

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