【魔女の世界――本当の覚悟】③
「あら。小夜ちゃんじゃない」
アパートの階段を上りきったところで、咲子は303号室の横に座っていた小夜に声をかけた。
「どうしてここにいるの?」
「……彼に置いていかれたからです」
壁に背中を預けて座っていた小夜は、立ち上がりながら正直に答えた。そう、と咲子は言葉を返す。短くなった小夜の髪にも、特に何の反応もない。
「あなたこそ、どうしてこんな所にいるんですか?」
「私はちょっと散歩に来ただけよ」
「違います。あなたはどうして、こんな世界にずっといるんですか?」
まっすぐな小夜の目が、咲子を見る。
咲子は数秒の
「……さあね。なぜかしら」
そう答えた。
そんな咲子に、小夜は言う。
「あなたが言った賭けの本当の意味が分かりました。この世界がどういう場所かも、ようやく分かりました」
「そう」
「私でも分かるということは、元からここにいるあなたが、そのことを分からないわけがないんですよ。そうでしょう? 咲子さん」
「……どうかしらね」
咲子は長い髪を掻き上げながら、そう返した。そんな咲子を見つめ、小夜は言葉を続ける。
「ここは四十年前の世界だと彼が言っていました。誰が何をやっても奇跡を願っても、どうにもならない過去の世界だと。私も、ようやくそれがどういうことか分かりました」
「そう」
咲子はいまいち真面目に返答しない。小夜の言葉を聞き流している。
「ここがどういう場所か、あなたは分かっていたはずです。それなのにずっとここにいる」
「そうかもしれないわね。それで結局、何が言いたいの? ここがどういう場所か分かったところで、もう今日は終わるわ。残念ね」
「今日が終わってもあなたはまた、死んで過去に戻るんでしょう?」
「ええ、そうよ。そしてまた同じことを繰り返すの。あなたたちにも飽きてきたから、あなたが来る前にでも戻ろうかしら」
「そうやって繰り返し続けるつもりですか。ずっとここで」
「ええ、そうよ」
咲子は言った。そんな彼女に、小夜が言葉を投げる。
「あなたいい加減、現実を見たらどうですか。ここはもうとっくに終わった世界です。ここにいても、何も変わりはしませんよ」
「……っ!」
その一言に咲子は、右手で小夜の左頬を
「あなたに……あなたに何が分かるのよ……!」
はあはあと肩で呼吸をしながら、咲子が怒りに顔を歪める。
「……分かりませんよ。私はあなたじゃありませんから。
ここはもう過ぎてしまった過去の世界なんですよ。誰が何をやったって、絶対に戻ってこないんですよ。あなた、私にそう言ったじゃないですか」
そう言うと小夜は同じように、右手で咲子の左頬を打ち返した。二度目の乾いた音が響き渡る。咲子は一瞬何をされたのか分からず、呆然と腫れた左頬を触る。
殴り返されたのだと理解すると、咲子は腫れた頬に手を添えたまま小夜をきっ、と睨みつける。
そして今度は右手に拳を作り、小夜の腫れた左頬に叩きつけた。
「……」
小夜の鼻から血が垂れる。小夜はスーツの袖で鼻血をぬぐいながら、右手で拳を作る。そして同じように、固めた拳を咲子の顔面に叩きつけた。
鼻血を吹き出しながら、咲子が後ろによろける。彼女の拳はまるで
「……この!」
咲子も拳を握り、小夜の顔面に叩きつける。しかし小夜も同じように、鼻血を吹き出しながら固めた拳を咲子の顔面へ叩き込んでいく。
小夜が踏み込み、拳を振りかぶる。何かが来ると気がついた時には、上からの衝撃をくらっていた。
脳が揺らされ、視界が回る。その時咲子の頭の中に、いつかの記憶がフラッシュバックした。
ある日のこと。エプロン姿の咲子は、あの喫茶店の真ん中にへたり込んでいた。
カウンターの椅子にはエプロンを脱いだ秋仁が座り、外を眺めている。彼の前には、二人分のコーヒーカップが置かれている。
外は夕方。客たちの波が引き、店が落ち着いた時間だった。
「綺麗な夕日だね、咲ちゃん」
と、秋仁が言う。誰もいない窓の外に向かって。
「今日もお客さんがいっぱい来てくれたね」
と、秋仁は一人で言っている。店の真ん中にへたり込んでいる咲子には、目もくれない。
咲子はうつむき、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「……ねえ神様、もういいでしょう? これがあなたの気まぐれだって言うの? それとも、自分で死を選んだ私への
返事などは返ってこない。咲子はさらに涙を流し、姿を現さない神に向かって語りかける。
「それならどうして、あの時に私だけ生き残らせたのよ。どうして一緒に死なせてくれなかったのよ。あんな気まぐれを起こすぐらいなら、あのまま私も見捨ててくれたってよかったじゃない。ねえ、どうしてよ。どうして……」
待てども返事など返ってこない。咲子はしゃくりあげ、静かに泣き始める。
「咲ちゃん。いつもありがとう。大好きだよ」
秋仁は誰もいない左側の椅子に向かって、そう笑いかけた。
その笑顔は、その言葉は……「今」ここにいる私に向けられたものじゃない。そのことに、咲子は肩を震えさせる。
分かっている。彼は死んでしまったのだから。そして今ここにいる自分は、彼と一緒に逝けなかったのだから。だから自分はここにいる。一人で死なせてしまった、彼を求めて。
「ねえ、どうしてよ。どうして私だけ……」
咲子は涙を流し、しゃくりあげる。神からの答えなどは返ってこない。激しく肩を震わせて泣き続ける咲子に、秋仁は視線すら向けない。
この出来事は彼女がこの世界に来て、一度目のことだった。
まるで別人だと、口元をぬぐいながら咲子は思う。数メートル先にいる小夜も、鼻の下をぬぐっている。打ち合いからたった数分で二人の髪はぼさぼさになり、服もぼろぼろになっている。
咲子は、鼻から息を吸おうとしてむせた。鼻の奥が鉄の匂いにまみれていた。殴られた頬はじんじんと痛んで、顔の骨にまで痛みが広がっていた。
咲子は肩で息をしながら、数メートル先にいる小夜を見つめる。彼女はどうしてこんなにも別人のようになったのか、咲子は考える。
数時間前彼女を見た時には、今までと同じく、どこか迷いのある優柔不断な目をしていた。だが、今はまるで違う。彼女の目には、はっきりと強い意思が浮かんでいる。
その理由は、なんだ? この世界がどういう場所か分かったと言っていた。まさか、それだけのことで? それだけのことで、彼女はこんなにも変わったというのか。
まさか、たったそれだけのことで。
そこまで考えた時、再び拳を構えた小夜が踏み込んで距離を詰めてきた。咲子もあわてて、取って付けたように拳を構える。
だが遅い。全体重を乗せた小夜の拳は
骨の奥まで響く激痛と共に、咲子はまた、違う過去がよみがえってくるのを感じた。
何度目かの、一九八一年。ある日のこと。
時刻はまもなく、朝と呼ばれる時間帯になりかけている。青色のワンピースを着た咲子は自宅である303号室の寝室で、仰向けに眠る一人の男性の上に馬乗りになっていた。
「……」
咲子は、荒い息をついていた。両手で握った包丁を振り上げ、その刃先を、眠る男性……加賀秋仁の心臓へと向けていた。
「これで終わる。これで……」
肩を大きく上下させながら呟く。
咲子は両手で握った包丁の刃先を、服の上から秋仁の心臓へゆっくりと振り下ろす。刃先が服につくギリギリで止め、またゆっくりと腕を振り上げる。突き刺す場所を確認するように、その動作を何度も繰り返す。
「これで、終わる。これで……」
咲子はもう一度、呟いた。
「たったこれだけで。これで。これだけで……」
たったこれだけで、あの神との賭けが終わる。そして、この世界から出られる。
もう何十回も、この人が死ぬ六月十五日を繰り返し続けなくてもよくなる。この人の最期の言葉を聞かなくてよくなる。この人の死に顔を見なくてよくなる。一度あった過去を繰り返し続けなくてよくなる。たったこれだけで。そう、たったこれだけで。
「はあ、は……」
咲子は荒い息をつく。両手で持つ包丁の
「これは偽物なの。偽物なのよ……」
咲子は眠る秋仁の顔を見つめながら、自分に言い聞かせる。秋仁は穏やかに寝息を立てている。彼が起きるまであと数分。
「これだけで、終わるんだから……」
そうだ。この偽物を殺すだけで終わる。そうすれば本当に、こんな偽物ではなく本当に、地獄にいる彼に会えるかもしれない。こんな偽物の世界ではなく、本物の彼に会えるかもしれない。自分が望んでいた、地獄に行けるかもしれない。
「秋仁さんは死んだ。死んだのよ。だからここにいるのは偽物なの。本物のあの人はもう、死んでしまったんだから。だからこれは、偽物なのよ……!」
咲子はもう一度自分に言い聞かせる。これは偽物だと、彼は死んだと心の中で言い続ける。
思い出したくもない、彼の青白くなった死に顔を頭に浮かべる。心が引き裂かれるように悲しくなるが、これを乗り越えたら本物に会えると、涙が出そうになるのを必死にこらえる。
「ここにいるのは本物じゃない。ここはもう終わった過去なのよ。たったこれだけで終わるの。たったこれだけで……」
咲子は徐々に、腕を上へと振り上げていく。眠る彼の心臓に、しっかりと狙いをつける。
「これでっ……!」
咲子は包丁を振り下ろした。その時。
「……ん」
と、秋仁が目を覚ました。振り下ろした刃先が、彼の心臓……数センチ上でびたりと止まる。
「……あれ。おはよう、咲ちゃん。今日も起きるの早いね」
秋仁は自分の左側……そこに敷いている布団に向かって、そう言った。その布団には、誰もいない。
秋仁は、なぜ自分の上に咲子が乗っているのかも、彼女がなぜ包丁を持っているのかも、何も聞かない。
当然だ。ここはすでに過ぎ去った過去の世界。その日その時になかった会話や行動は、彼は一切行わない。
そのことを、咲子は知っている。ゆえにこの「おはよう」も、今ここにいる自分に向けられているものではないことを、咲子は知っている。
「……」
咲子は秋仁の上でしばし呆然とし、それからゆっくりと、秋仁の上から
咲子は床に手をつき、うつむいて静かに肩を震わせ始める。
目の前で泣き始めた咲子に対しても、秋仁は眠そうに目をこすっているだけで何も言わない。当時の咲子は、そんな行動をしていなかったからだ。当時になかったことに対しての行動を、この偽物は行わない。
そのことも、咲子は知っている。うつむく彼女の目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。秋仁は大きなあくびをするだけ。その行動が、当時していた行動だからだ。
彼にいくら話しかけても体を揺さぶっても、返ってくるのは当時に話した言葉やその時にした行動だけ。「彼」はここにいるのに、ここにはいない。咲子はそれを、もう知っている。
いくら手を伸ばそうが、決して届かない。目の前にいるのは、過去を繰り返すただの偽物。そう、頭では分かっている。
頭では分かっていても、この偽物には体温がある。たとえ同じ会話をなぞっているだけだとしても、自分には彼との思い出がある。そしてこの偽物は笑いかけてもくれる。「おかえり」と言ってくれる。「大好きだよ」と言ってくれる。たとえそれらが、かつてあった会話や行動をなぞっているとしても。この偽物は今、自分の目の前に生きているのだ。
カーテンの隙間から入ってきた朝日が、二人のいる部屋を照らし始める。また、「今日」が始まる。
咲子はうつむいてひたすら涙を流し、秋仁はそんな彼女に見向きもせず、起き上がって丁寧に布団を畳み始めた。
「……こんなことをしても、何の意味もないわよ」
何度目かのぶつかり合いが止まった時、息を切らせながら咲子が聞いた。
「そうかも、しれません……」
同じく息を切らせながら、小夜は答える。
「けれど、ここで逃げたら自分は終わる、そう思ったんです。だから私はここにいる」
咲子をまっすぐに見つめ、小夜はまた、拳を構える。
距離を詰めた小夜が咲子の胸ぐらを掴み、そのまま頭突きを食らわせる。
「あう……!」
咲子が悲鳴を漏らし、切れた額から血を流す。無論小夜も無事ではない。衝撃で自分の脳も揺れるが、小夜はそのまま二撃目を叩きこむ。ふらつく咲子の体を離し、その場に放り捨てる。
その時ズキリと、右手に痛みが走った。小夜は思わず顔をしかめる。構えている右手は関節部分の皮膚がずたずたに
まともに打てるのはあと十発もないだろう。何の防具も付けていない小夜の拳も限界が近づいていた。それでも小夜は、痛む拳を固く握りこむ。
「……」
起き上がった咲子は、スカートのポケットに手を入れて中をまさぐる。しかしそこには何も入っていない。反対側も同じだった。あのナイフを抜かなかったことが、あの店から包丁を持ってこなかったことが、ここで
このアパートの他の部屋は施錠されている。行けるのは303号室だけ。あそこに行けば包丁がある。それを使って自分の命を終わらせれば、次の世界に行ける。
「またそうやって逃げる気ですか」
咲子がやろうとしたことを見抜いたように、小夜が言った。
「……逃げたことなんて、ないわよ」
と、咲子は言い返す。乾いた額の血を、服の袖でぬぐう。
「そう言うのなら、今ここにいる私を殺してみてくださいよ。逃げないんでしょう?」
「そんなことをしなくても、あなたたちは勝手に死ぬわ。私は四十回以上も見てきたもの」
「そういうことじゃないでしょう? よく見てくださいよ」
「そういうことでしょう? 放っておいてもあなたたちは勝手に死ぬわ。いつ死ぬか、誰に殺されるか、その違いだけ。それ以外は同じことよ」
「そんなことを言っているから、あなたはずっとここから出ないんですよ」
「……あなたに何が分かるのよ。死んだこともないくせに」
咲子は、小夜を睨みつける。
「ええ、そうですよ。私はあなたや彼みたいに死んだこともありません。けれど、ここがどういう場所かは知っています。こんな所にいても何も変わらないことぐらいは、私でも分かりましたよ」
「……」
「ここにずっといたって何も進みませんよ。それでもここにいたいのなら、今すぐ負けを認めて私たちをここから出してください」
「ふ、ふふ……」
咲子は、腫れあがった顔で小さく笑った。
「私たち? ……いいの? 彼、とんでもない『
「はい。私はそんな彼を、信じると決めましたから」
小夜は強く頷き、そう答えた。
小夜は拳を握り、踏み出す。同時、咲子ははじかれたように駆けだした。303号室のドアノブを掴んで扉を開ける。
「!」
目に入ったのは、一人の男性が倒れている姿。こちらに頭を向け、男性はうつぶせになっている。その頭の周りに広がっているのは、鉄の匂いのする赤い液体。
「この光景は、初めてですか?」
後ろから声がした。急いで首だけを振り向かせる。腫れた右目の視界に何かがかすめた。そう思った次の瞬間には、玄関の床に叩きつけられていた。右の頬が痛み、その痛みと床の冷たさに、殴りつけられて床に倒れたのだと理解する。
うつ伏せになった咲子をひっくり返し、小夜は
雨のように降り注ぐ攻撃の中で、咲子は一つの記憶が浮かんでくるのを感じていた。それは今まで記憶の底に
「……うそ」
それは二度目の一九八一年、五月十日。この世界に来て、一番初めの日のこと。彼がまた同じような
咲子は『1981年(昭和56年)』と印字されている新聞から顔を上げ、壁にかかっているカレンダーに目をやる。それはやはり『5月』のページを表していた。
「……」
それだけで、理解した。ここがどういう場所か。ここに、自分が求めていたものはないのだと。
「……そう。ここは、過去なのね……」
と、咲子は呟いた。
「そう……」
咲子は自分で言ったことに対し、自分でそう返した。他に何の音も返ってこない。玄関の扉が勝手に開いて勝手に閉まり、ひとりでに鍵穴が回って部屋が施錠される。鍵の閉まる音が、部屋の中に響き渡る。
「……」
ここは彼がいる地獄ではない。ここに、自分の命を賭けてまで会いたかった彼はいない。会いたかった人物がいない
ここにいればあと
「だったら、もう……」
その先は言わなかった。彼女の言葉に、
そして一度見た光景の日々が過ぎ、神との賭けが始まる。咲子はこの時思った感情に
ああ、そうか。細い呼吸をしながら、咲子は思う。
小夜からの攻撃は来ない。右手の拳を振り上げた状態で荒い息をついている。
咲子はここに来てからの、今までの自分を振り返る。過去を繰り返すだけの世界と、過去を繰り返し続ける自分。前に進むことも戻ることもせず、同じところをぐるぐると回っていただけだった。
そうだ。本当は、ここに来た最初の一回目で分かっていた。ここがどういう場所なのかも、あの神が提案した賭けの意味も。選ぶものが何か、本当は分かっていた。選択にもなっていないことも。それなのに「もしかしたら」と期待し、奇跡がないと知って勝手に
そして全部分かっていながら、またこれかと自分が今いるこの世界の、見えている現実からも逃げた。死んでもどうせ次でまた会えると、あの偽物と向き合うこともしなかった。あれだけ踏み出せなかった「死」も、結局は慣れていただけだった。
ああ、なんだ。彼女が変わったのは、そういうことだったのか。荒い息をつく小夜を見上げて、咲子は思う。
彼女は勝負にも選択にもなっていない賭けの中で、進むことを選んだ。もう戻らない過去の中、自分の意思で前に進むことを決めた。たったそれだけのことだったのか。
なんだ。だから彼女はこんなにも、強くなったのか。
咲子が小さく咳き込む。そんな彼女を、馬乗りになった小夜は見下ろしている。
「本、当は……。本当は、ね……」
腫れた唇で、咲子が言葉を紡ぐ。
「分かっていた、わ。ここが、どういう場所か、なんて……」
風にかき消えそうなほど、小さな声で言った。小夜はいつでも拳を叩きこめる状態のまま、彼女に問いかける。
「それならどうして、ここから出る選択をしなかったんですか?」
「できなかったのよ。いくら繰り返しても……」
咲子は言った。彼女の目に涙が滲み、そのまま、目じりを通って流れ落ちる。
「だったらもう……いいんじゃないかって思ったの。たとえ必ず同じ日に死んでしまうとしても、たとえ、同じことを繰り返すだけの世界だとしても。ここにいる限り、幸せだもの。だから……」
咲子は、そこで言葉を止める。鼻をすすって、小夜に言った。
「……私の負けよ。好きにしてちょうだい。こういう負け方は、初めてだわ」
そんな咲子に、小夜は拳を振り上げたままの態勢で聞き返した。
「それ、信じていいんですよね」
「……ええ。どこかの『
そう言って、腫れあがった顔で笑いかけた。嘘ではないと判断した小夜は、振り上げていた拳を下ろし、咲子の上から
「ありがと。でも、一人で起き上がれるわ」
「そうですか」
と、小夜はあっさりと差し出した手を引っ込めた。
「……ひどい顔」
「あなたもですよ」
お互いの顔を見合って、二人が言った。言葉通り二人の顔はひどい
「……あーぁ」
と、咲子は言った。
「負けちゃった。同じ死人でもない、ただの普通の人間に。しかも、『賭け』でもないことで」
そうは言うものの、彼女の声は残念そうではない。まるで心のつっかえがとれたような、
「着替えてくるから下で待ってて。ワンピースでいいなら貸すわよ」
「いえ、すぐ帰るので大丈夫です。お
玄関から出た小夜が、部屋に背を向けようとする。
「あ、咲子さん」
すると小夜が、咲子を呼んだ。
「……なに? かなめくんでも戻ってきた?」
言いながら、咲子も玄関から外に出る。
「空、見てくださいよ。綺麗ですね」
小夜が空を見上げて言う。そこに輝くのは、満天の星空。いつの間にか夜は深くなり、彼が死ぬ時間になっていたのだ。
「……そうね。綺麗ね」
咲子も空を見上げながら、そう返す。心が死んだ
咲子はこの空を見上げながら、あの日のことを思い返す。あの日もこうして、
綺麗ねと言うと、彼は今にも消え入りそうな声で言葉を返してくれた。彼の最期の言葉も、昨日のことのように思い出せる。
小夜は部屋の前に腰を下ろした。咲子も玄関の壁に体をあずけ、しばし二人は満天の星空を眺める。
何百回目の一九八一年、六月十五日。何度も繰り返し続けた同じ日。いつもと同じ夜と空なのに、なぜか「今日」こうして見上げたこの空は、いつもとはどこか違って見えた気がした。
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