【魔女の世界――過ぎ去りし過去、選択の先】③

 コトリ、と駒が倒れる音がした。自分の持っていた白の歩兵が、相手の黒の女王を倒した音だった。

「おめでとうかなめくん。あなたの勝ちよ」

「……え?」

 要は、聞こえてきた声に盤上から顔を上げる。さっきまで相手側にあった黒の女王が、一瞬でこちら側に移動していた。

 状況が飲み込めていない要に、向かいに座っている咲子が言う。

「ほら、行っていいわよ。『この勝負にそっちが一回でも勝ったら、もう一人を殺しに行っていい』って賭けだったじゃない」

 そう言われても、要はまだ状況が飲み込めていなかった。駒をしていて負ける寸前だったことまでは覚えているのだが、目を離した一瞬で、次に置こうとした白の歩兵の先に黒の女王が移動していた。そしてそれを倒し、勝利した。あなたの勝ちと言われても、すんなりとは納得できなかった。

「……もしかして、あなたがやった?」

「ええ、そうよ。あのままだとあなた、一生私に勝てないと思ったから」

 おそるおそる聞いてみると、駒を箱にしまいながら、さらりと咲子は答えた。

「ほら、早く行かないと、ここでばったり会っちゃうわよ」

「……会う? 誰と?」

 咲子の言い方に、要は聞き返す。この「今日」の要には、咲子が何のことを言っているのかも、自分が何のことを言われているのかも分からない。

 要が聞き返しても咲子は、うふふと笑うだけだ。

「なんでもないわ。気にしないで」

 と、咲子は笑う。過去に咲子に負けている要には、彼女の頭の中を読むことができない。すなわち彼女が誰のことを言っているのか、何のことを言っているのか、要には分からない。

「もう一つの賭け、覚えているでしょう? 早くしないと今日が終わるわよ。今日は六月十五日だもの」

「……」

 日付を言われ、要はゆっくりと椅子から立ち上がる。視線を咲子に向けたまま、カウンターに立てかけてあった散弾銃を手に取る。そのまま咲子を見ながら、裏口に向かう。

「じゃあ、頑張って殺してきてね」

 咲子は、恐ろしい言葉で要を見送る。要は咲子を見ながら裏口の扉を開け、店から出て行った。

 開いた裏口の扉が閉まる。カウンターの内側に移動した咲子は、下の棚を開けてチェス盤やらを片付ける。

 そこから顔を上げ、椅子に腰かける。カウンターの台に肘をついた時、次は表の扉が開いた。

「……え? うそ……」

「いらっしゃい。入るなら入ってちょうだい。寒いわ」

 そう促す。次に店に入ってきたのは、スーツを着た女の子だった。


 そしてまた始まる。すでに死んでしまった過去の人間を助けられるか、という何ともふざけた勝負が。この結果など、誰にでも分かっているというのに。

「分かりました。その賭け、受けます」

「そう。本当にいいのね」

「はい。ここまで聞いて、なおさら一人で帰るわけにはいきません。私は捜査官ですから」

「そう……」

 このやりとりは何度目だろう。そう思いながら、咲子はカップを口に運んで一口飲む。この女の子が勝負を受けることは変わらない。この女の子は本気でこの世界の人間を助けられると思っているからだ。その強い意思で、もう一人の『嘘吐うそつき』を死なせ続けていることなど知らずに。

「ならやってみればいいわ。いつか気まぐれな神様が、いつか気まぐれに奇跡を起こしてくれるかもしれないわよ」

 咲子はそう言って、向かいに座る人物に微笑みかける。そんな奇跡などないと思いながら。

「彼なら今頃、この先のアパートに向かっていると思うわ。ここの裏口を出て、商店街を抜けたらすぐ行けるわ」

「分かりました。ありがとうございます」

 女の子が席を立ち、横を通って裏口へと向かう。裏口の扉が開き、女の子は店を出ていく。

 再び一人になった咲子は、窓から外を眺める。止まった路面電車。止まった車。誰もいない大通り。かつて働いていた大型百貨店。そこにあるのは、すでに過ぎ去った過去の物たち。動くとしても、当時の行動をぐるぐると繰り返しているだけ。

 ふと、昔、あのメイドの少女から言われたことを思い出した。

『本当は諦めきれないのに、見えている現実から目をそむけているような感じです。

 分かっているのならば、認めるのがいのではないのでしょうか。それでもとすがつづけたいのならば、いっそ壊れてしまうのを選んでみては。それもできないならば……先へ進むしかないわけですが』

 咲子は、ふ、とかすかに笑った。窓の外に向けていた視線を外す。

「……とっくに分かってるわよ、そんなこと」

 そう呟くと、咲子は席を立った。カウンターの内側に向かい、包丁をしまっている棚を開ける。

 棚から包丁を抜こうとした咲子の手が、止まった。

「……放っておいても勝手に死ぬなら、これもいらないかもね」

 そう言って、伸ばした手を引っ込める。あの部屋にも包丁はある。あの二人が部屋の前で死ぬのなら、特に急いで次の世界に行く必要もないかと思ったのだ。

 棚を閉めた咲子は、カウンターを出て裏口へ向かう。扉を開け、外に出て行く。この時の小さな選択もまた、そのあとの展開に影響することの一つになるなど、咲子は知らない。


「楽しかったですか? 私が思い通りの行動をして。必死になっている私を見て、笑いだすのをこらえていたんでしょう? どうなんですか」

「さっきも言ったじゃん。君がここに来るのは予想外だったよ。いやほんとうに。ふふっ。これは嘘だと思う? どっちかなあ」

 またこれかと咲子は思う。同じような台詞せりふを聞くのは、これで何度目だっただろう。

「やはりあなたは最初から、そういう人間だったんですね。あなたのメッセージを聞いてここまで来た私が馬鹿でしたよ」

「それは君が勝手にやったことでしょう? 僕を信じない選択もあったはずだ。それをしなかったのは……君の中途半端な正義と真面目さゆえだ。そうだろう? 自分が選んでここへ来たのに、僕のせいにしないでくれるかなあ」

 アパートの階段下に立っている咲子は、二階で言い合っている二人の声を黙って聞いている。

「……ほら、まだ迷ってる。撃てるか撃てないかじゃなくて、銃を抜くか抜かないかって、それをずっと考えてる」

 聞こえてくるコッキングの音。これも同じだ。咲子はため息をつく。また同じかと思う。

「君がそうやって考えていられるのは、僕より強いからじゃない。僕が優しいからだよ。相手が優しい僕でよかったね。今、君の前にいるのが、人殺しで優しい嘘つきでよかったね」

 これも同じだ。となればもう、聞く意味はないだろう。咲子はその場から立ち去ろうとする。

 あの二人が勝負をどうするかは勝手にすればいい。あの『嘘吐うそつき』が女の子を撃つか、女の子が自分の正義とやらを貫こうとして反射的に『うそき』を撃つか。それともしびれを切らした『嘘吐うそつき』が一人で賭けを終わらせるか。それぐらいの違いだ。

 あの女の子は決して賭けを終わらせられないだろう。なぜなら繰り返してきた今まで、彼女が自分の意思を貫いたところなど見たことがないからだ。彼女が銃を使った唯一の場面も、咄嗟とっさに『嘘吐うそつき』を撃ったところだけ。あれは自分の意思で引き金を引いたわけではない。

「……また同じね。今ならあの神様の気持ち、少しだけ分かるような気がするわ」

 ため息とともに呟き、咲子はアパートに背を向ける。あの二人はまた何も変わらないだろう。あの二人が死ぬまでどこで時間を潰そうかと考えながら、咲子は来た道を戻って行った。

 この時の咲子の諦めの早さが、ここで悪い方向に作用さようした。そのことを要も小夜も、咲子自身すら知らない。知っているのは、気まぐれに奇跡を生み出すあの神だけだろう。

 咲子の持つ能力は『死ぬたびに時間を巻き戻す』こと。自分の命を終わらせたあと、あのドアと電光掲示板のある廊下へ行き、いつの何月何日、この時間には何があったか。だいたいの記憶を元にして咲子は再びこの世界に戻ってくる。

 しかしそれはもちろん、彼女が「知っている範囲での記憶」だ。当然ながら「自分が知らない」場所で起きた事はどうやっても把握できない。いくら何が起きたか、このあと何が起こるかが分かっていても、自分がその場所におらず、見ていないことは分からない。

 ここから先は、また同じかと立ち去った咲子にはあずかり知れぬことである。


「あのさ、本気でここにいる全員を助けられると思ってるの? ここにいる君以外の人間は、もう全員死んでるのにさ。そのうちの一人は、何をしても絶対に助けられないんだよ」

 木造アパートの303号室の前で、要が小夜に向かって言っている。

「ほら、どうするの? これでもまだ、その銃を抜かない?」

 要は、コッキングした散弾銃を小夜に向けた。

「それとも銃を抜いて僕に向ける? そうしたら君が言っていた正義はその時点で消えちゃうね。何が『全員助ける』だ」

 そう言われても小夜は懐に手を突っ込んだまま、ホルスターの中にある銃を抜くか迷っていた。

「今すぐ僕の前から消えるか、そこをどけよ。どかないと、その扉ごと吹き飛ばす。本気だよ」

「……絶対にどきません。この中にいる人は、殺させません」

 扉の前に立つ小夜は、懐に手を突っ込んだまま声を絞り出す。そして要と、向けられた銃口を睨みつける。

「あ、そう」

 要の指が引き金にかかる。彼の目が冷たくなるのを小夜は感じる。彼の本気を、小夜は全身で感じ取る。

 数秒ほど、二人は睨み合う。冷酷な黒い目と、譲らない正義というものを浮かばせたブラウンの目。その視線が交差する。

「……ああ、もう!」

 さらに一分ほどの膠着こうちゃく状態じょうたいののち、要が小夜に向けていた銃口を下げた。

 これは初めてのことである。そのことなどもちろん、二人は知らない。自分たちが四十回以上同じことを繰り返していることも、要が咲子に殺されて死んだ世界があることも、小夜が咄嗟に銃を抜いて彼を撃ってしまった世界のことも、もちろん二人は知らない。

 そして、また同じかとこの場を立ち去った咲子も、この展開の変化をもちろん知らない。

「そんなに言うなら開けてみなよ、その部屋」

「え?」

 小夜が聞き返す。要は散弾銃から弾を抜きながら、303号室をもう一度、開けてみろとあごで示す。

「……」

 小夜は懐に入れていた右手を出し、部屋の扉に向き直る。古びたドアノブに手をかけると、あっさりドアノブは回った。キイ、と音を立てて、木造の扉が開く。

 まず見えたのは廊下だった。右側に台所。奥には居間だろうか。部屋がある。

「僕がいなくなっても、君は大丈夫だよ。僕のことは忘れて、君の人生を歩んでほしい」

 居間のほうから男の人の声が聞こえる。

「それで君は新しい人を見つけて……僕よりもっといい人が……」

 居間にいる男の人はこちらに背を向け、誰かにそう言っている。外からだと、男性が何を言っているのかうまく聞き取れない。

 一体あの男性は、誰に向かって話しているのだろう。小夜は自分の足元を見た。玄関には男性用のスニーカーと低めのヒールが並べられている。スニーカーは話しているあの男性の物だろうか。ヒールということは、この部屋にはもう一人女性がいるようだ。それにしては、その人の声が一向に聞こえてこない。

「入ってみなよ」

 と、後ろから要が言った。

「で、でも……」

「いいから。そのまま中に入ってみなよ」

「……」

 小夜はなんだか悪いことをしているような気持ちを覚えつつ、玄関に入る。靴のまま廊下に上がり、ぎし、ぎしと床板を踏み鳴らしながら、居間へと進む。

「ごめんね。でも、もう……決めたんだ」

 男性がそう言う。顔は少し右を向いていて、まるでそこに立っている人物を見上げているような首の角度だ。その横顔を見たところ、歳は三十歳ぐらいに見える。彼は一体、誰に向かって話しているのだろう。小夜はゆっくりと、その男性がいる居間に近づいていく。

「!」

 居間に足を踏み入れた小夜は、思わず驚愕した。男性が見ている先は壁。その間には誰も立っていない。この男性は誰もいない空間に向かって、一人で話し続けていたのである。

 男性はしばし悩むような顔をしたあと、

「……それはだめだよ。君には、生きていてほしい」

 と言った。それは誰に向かって言った言葉なのか。まさか、私に言ったことなのか。それにしては脈絡みゃくらくがなさすぎる。どういうことなのか分からず、小夜の頭は混乱する。

 するとまた男性は一人で話し始めた。

「それはだめだよ。死んだあとの君の人生も貰えない。僕のことは忘れるんだ。それで君は、僕とは違う人と幸せになるんだ。それで幸せのまま、君は君の人生を終えてくれ」

 それは一体誰に向かって言ったのか。この男性は一体何のことを言っているのか。小夜の理解は追いつかない。

「僕はちゃんと言ったよ。最初からね」

 いつの間にか廊下に立っていた要が、立ち尽くす小夜の背中に言葉を投げた。

「……ここは昭和五十六年の世界だ。もう二度と戻らない過去の世界なんだよ。そして今日は六月十五日だ。その人が必ず死んでしまう日。

 あんまりこういう言い方は好きじゃないんだけど……それがその人の運命なんだよ。それは誰がどうやっても変えられない。この世界から出られないっていう対価を背負ったあの人でさえ、もう何十年もここにいる。それがどういうことなのかは、分かるでしょ?」

「……」

 小夜は、何も返さない。後ろから、要の声が聞こえてくる。

「……別に、僕を信じないっていうのは構わない。この世界のことも全部、僕が嘘を言っているとか、それでもそう思うならもういいよ。でもそう決めたのなら、僕を殺すつもりで僕を疑ってよね」

「……」

「夜までにどうするか決めて。決められなかったらあの店の隅っこにでも座ってなよ。僕があの人との賭けを終わらせるから」

 ぎし、ぎしと床板が踏み鳴らされ、その音が遠ざかっていく。部屋の扉が開けられ、彼が出て行ったことを背中で感じる。

 扉が閉まり、部屋が暗くなる。暗い居間で、小夜は座る男性を見下ろしたまま、その場に立ち尽くしている。

「……だったら僕がいなくなったほうが、いいと思ったんだ。僕一人が死ねば、残ったお金で君に楽をさせてあげられると思ったんだ……」

 男性は誰もいない空間に向かってしゃべり続けている。その言葉を向けた相手が誰かは、小夜には分からない。

 小夜はその男性から顔を上げ、居間を見回した。

 一人には広く、二人で暮らすには少し狭い。あるのは机と箪笥たんすと、インターネットの画像でしか見たことのない古いかたのテレビ。整頓せいとんされた机の上には鉛筆えんぴつやハサミが入った入れ物が置かれている。

 壁に掛けられているのは『1981年 6月』のカレンダー。小夜は足元にある新聞を手に取り、日付を見た。今日の日付は『1981年(昭和56年)6月15日』と書かれている。

「昭和五十六年……。そんな……また、要君の……」

 要君の嘘だ、と思いかけ、はっとする。あんなにも死にたくない嘘つきが、ここまで手の込んだことをするだろうか。自分の命を捨てるような場所を用意するだろうか。あんなにも、彼女をおそれるだろうか。わざわざ『時間を巻き戻す』能力者も用意して。

「……」

 小夜は手に持っている新聞を見て、彼が嘘をついてここを用意した、という疑惑を消さざるをなかった。

 新聞を手に持ったまま、小夜は思い返す。あの嘘つきが言っていたことを。彼女が言っていたことを。

『ここはもう終わった世界なんだよ。たとえ奇跡が起きたって、たとえ、神様の気まぐれでも過去は戻ってこない。だから咲子さんはここにずっといるし、僕たちはこうやって二回目の人生を生きてるんだ』

「みんな助かる方法がある」と言った時、彼女はこう言った。

『……残念だけど、そんな方法はここにはないわ。特に、ここではね』

 そしてもう一つ、あの嘘つきは言った。

『そもそも咲子さんとの賭けは勝負にもなってないのに……』

 小夜はもう一度、新聞に書かれている日付を見た。

 そしてようやく理解する。自分がなんとも馬鹿な勝負を受けたのかを。

「……はは。そういう、ことか……。最初から……」

 小夜は口角を上げ、笑いを漏らした。笑わずにはいられなかった。何が「トロッコ問題」だ。何が「選択の問題」だ。すでに過ぎてしまったこの過去の世界で、選ぶものなど最初から分かりきっているというのに。

 あの二人は最初からここがどういう場所なのか言っていて、あの嘘つきは嘘など一つもついていなかった。二人は最初から言っていたのに、自分だけがそれを受け入れず、向こうが間違っているとばかり思っていた。

 あの二人からはずっと、こいつは何を言っているのだと思われていたことだろう。もう戻らない過去の人間を……もう死んでしまった人間を、自分は大真面目な顔をして、必ず助けるなどと言っていたのだから。

「はは……」

 小夜はもう一度笑いを漏らした。ここに来た時の自分の言動を振り返る。それから、上司や先輩に言われたことを思い返す。

『銃を持ってるだけの奴がえらそうに言うんじゃねえ。そういう中途半端な奴が現場をかき回すだけでな、誰かが死にかけるんだ』

『人殺しの道具で誰を助けるんだ? 誰を守るんだ? 言ってみろ』

 あの時言われた上司の言葉に、自分は何も答えられなかった。「仲間を助ける」とも、「自分を守る」とも。

 先程あの「嘘つき」に銃を向けられた時も、自分は懐に手を突っ込んでいるだけだった。銃を抜くか抜かないか、ずっと迷っているだけだった。

 あの「嘘つき」の本気を目の前にしても、自分は懐に手を突っ込んで睨み返していただけ。彼が銃を下げてくれなければ、確実に自分は死んでいた。

 そうだ。自分は人殺しの道具を持っているだけだった。それを「人間」に向けることも、引き金を引くという意味すらいまいち分かっていないまま、ただその道具を持っていただけだった。

 何が正義だ、と小夜は心の中で思う。

 自分はただ、都合つごうのいいその言葉をたてにして逃げていただけ。「人殺し」という重りを背負いたくなかっただけ。かといって、誰かが死にかけることは無視できない。

 どちらを助ける選択もしていないまま、誰を守るかも分かっていないまま、正義という言葉を口にしていたのだ。何かを守り切るという意思も、誰かを殺してまで守り抜くという意思も持っていないまま。

 小夜は、出て行った要の姿を思い返す。

 先月、彼の正体を自分は「分からない」と言った。けれどまだ、自分は彼のことを疑っていたのだ。自分で答えを出したくせに。

 自分は彼を完全に「嘘つきだ」と疑うことからも、「嘘ではない」と彼を信じることからも逃げていたのだ。そのくせ自分あてにメッセージを送ってきたという理由だけで、他のことを考えないままここに一人で乗り込んできた。彼が怒った理由も、今やっと理解した。

 先輩やあの「嘘つき」に、余計なことはするなと言われた理由がやっと分かった。

 自分は何の覚悟もないまま、人差し指を動かすだけで命を奪える道具を持っているくせに、「話し合ったら分かり合える」などと言っていたのだ。いつ死ぬか分からない中で現場に出ている流鏑馬君にとっては、私の顔を見るたびに怒りが湧いていたことだろう。銃を持っているだけの人間が、もっともらしく中途半端な正義を語っていたのだから。

「……はは、」

 小夜はもう一度笑いを漏らし、持っていた新聞を床に置いた。

「……本当に、いいの?」

 男性が聞いている。誰もいない空間を見つめて。そういえばこの人の名前も知らないと、小夜は思った。この男性は四十年前の「今日」、一体誰に向かって話しかけていたのだろう。

「……」

 そこまで思って、小夜は小さく首を振った。この人が話していた相手など一人しかいない。

だから彼女がここにいる。

 この世界がどういう場所で、彼女に言われた賭けを終わらせる方法は分かった。だが、賭けを終わらせるだけじゃ帰れない。

 ここで変わらなければ、自分はこの先も同じことを繰り返すだろう。ここでも中途半端に逃げたら、今度こそ自分は終わる。

 小夜はポニーテールに結んでいた髪をほどくと、うなじのあたりで一つに結び直す。そして机の上にある入れ物から、ハサミを抜いた。空いた左手で髪束を持ち、右手でひらいたハサミを結び目の少し下に持っていく。

「本当に……いいの?」

 男性がもう一度問いかける。誰もいない空間に向かって。いや……四十年前にそこにいた、「誰か」に向かって。

 小夜は届かない返事の代わりに、ハサミを持つ右手を動かした。ジャキ、ジャキ、と音を立てながら、結んだ髪を切り落としていく。切れた髪が、床にパラパラと落ちていく。

 もう必要のなくなった髪ゴムを上着のポケットに突っ込み、ハサミを元あった場所に戻す。小夜の髪はお世辞せじにも整ったとはいえないが、あごのあたりまで短くなった。

「じゃあ、いこうか」

 男性は立ち上がり、近くに置いてあったボストンバッグを手に取る。そのまま小夜の横を通り過ぎ、男性は玄関に向かっていく。その左手がしっかりと、誰かと手を繋ぐ形になっていることを小夜は確認する。

 この男性が今からどこへ行くのか、誰と行くのか。そのことは自分には分からない。けれど、ここはもう過ぎてしまった過去の世界。誰が何をしようと、どれだけ強く願ってさえ。過ぎ去った過去は変えられない。

 小夜は懐に手を入れ、脇のホルスターにしまっている銃を抜いた。

 自分の手に余る人殺しの道具は重く、持っているだけで右手が痺れる。その重さを小夜は今、はっきりと感じる。

 あの「嘘つき」は言った。僕らがここから出るには、あの人を殺さずにあの人に勝たなきゃいけないと。そして彼は「賭け」に誘われてしまうと断れない。ならば彼ではなく、「賭け」と言われても断れる自分がするべきことは。

 小夜はマネキン人形相手に何度もやってきた構えを取り、静かに呼吸を整える。外さないよう集中をいで狙いをさだめる。その目はまっすぐに、標的の背中へと向いている。

 男性が玄関の扉を開ける。入ってきた外の光で、部屋が明るくなる。

 逆光で隠れた男性の背中に向けて、小夜は右手の人差し指を動かし、銃の引き金を引いた。

 銃から重い音が上がり、一発だけ持ってきた銃弾が正確に男性の背中から心臓を撃ち抜く。銃から飛び出た薬莢やっきょうが、部屋の床に落ちて転がる。

 名前も知らない男性はどさりと床に倒れ、それきり動かなくなった。

 こうしてあっけないほどにあっけなく、この世界で進行していた大きな賭けは終わった。

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