【魔女の世界――過ぎ去りし過去、選択の先】②

 咲子は、一枚のドアを背にして立っている。彼女がいる場所はあの喫茶店の中でもなく、あの木造アパートでもない。どこかの廊下の真ん中に、彼女は立っていた。先程自らの喉を突き刺してできた傷も、それによって首周りに飛び散った血も、右手に持っていたあの奇妙な刀身のナイフすらも、綺麗さっぱりどこかへと消えている。

「……」

 咲子は首を左側に向ける。暗くてよく見えないが、目を凝らすと、電光掲示板とドアがセットになったものが奥へずらりと並んでいる。それがどこまで続いているのか、その先は闇が深くなっていて分からない。灯りを手にしていても、奥へ進んで行くのは難しいだろう。咲子はその暗い廊下から顔をそむける。

 一歩前に出て、振り向く。目の前には先程立っていた一枚のドア。ドアの上には、まるで部屋番号のように『6.15 13:24』と表示された電光掲示板が光っている。その電光掲示板の光が、フッと消えた。

 咲子は手を伸ばし、そこのドアノブを掴んで回した。

「……くのに行き先がないなんて。あの神様、こんな意地悪いじわるをして面白いのかしら」

 ドアの先は、レンガの壁だった。

「……面白いのでしょうね。あの気まぐれな神様だもの」

 ため息交じりに言うと咲子はドアノブから手を離し、闇が広がる廊下とは反対側を、奥へ向かって歩き出した。

 薄暗い廊下に、彼女の足音だけが響き渡っている。歩く彼女の右側には三メートルほどの間隔で先程のドアと同じく、光った電光掲示板がセットになって並んでいる。

 咲子は『6.15 13:22』と表示された電光掲示板の部屋を通り過ぎ、その奥にある『6.15 13:21』と表示された電光掲示板の部屋の前を通り過ぎる。彼女が今歩いている先へ進めば進むほど、電光掲示板に表示されている時間は一秒単位で戻っているようだった。

 ここは彼女が『時間を巻き戻す』能力を発動させた時……つまり「死んだ時」に訪れる廊下である。ここから戻る日付と時間を選び、その部屋のドアをくぐることで、咲子は「その日」の「その時」に行くことができるのだ。

 しかし、この能力には大きな欠点が一つある。それは「自分が死んだ時より前にしか戻れない」ことだ。たとえば『6月15日』の日付が変わった瞬間に「死んで」も、戻れるのは前日の『6月14日 23:59』からである。そして「自分が死んだあとのこと」はどうやっても知ることができない。

 さらにこの能力は「死なないと発動しないこと」や「死ねないことをされると過去に戻れないこと」などの小さな欠点もある。この能力の発動条件はあくまで「死ぬこと」。死ぬのに時間がかかることをされれば何もできない。こういうこまかいあつかいづらさも、咲子は自分の能力に見合った対価だと思っている。

「あれあれ。まだ終わってなかったんですか?」

 そんなことを考えながら歩いていると、左から声がした。咲子はちらりと一瞬だけそこに顔を向ける。テーブルと椅子が一つずつ置かれた休憩所に、あの、気まぐれな神グラウが椅子に座って棒付きキャンディをなめていた。いつものように、体の輪郭がうっすら淡く光っている。

「私に言われても困るわ。それよりここ、エレベーターでもつけてほしいわ。戻りたい時間の部屋に行くまで、歩くのが大変よ」

 咲子は足も止めずに言う。

「ふうむ。エレベーター……階層かいそうにする、ということですか。いいでしょう。考えておきます」

 その休憩所の横を通り過ぎる。椅子に座っていたグラウの姿が消え、次は咲子の左後ろに現れた。

「ところで前回、あなたが死んだあと、あの二人がどうなったか知りたいですか?」

 グラウは棒付きキャンディをしゃぶりながら、そのまま咲子の後ろを雲のように付きまとってくる。歩いている咲子は相槌すらしない。

 どうせあのあと、どちらかが相手を殺したかして同じような展開になったのだろう。違うことが起きていても先に「死んだ」自分にはないことで、あの二人が何をしようが、もうどうでもいい。どうせあの二人は何も変わらないのだから。

 ドアの横を通り過ぎながら、咲子はそんなことを考える。そうやって考えたあとは、あの二人のことはすぐに頭の中から消えた。

「結局あのあと、二人はまた同じようなことを言い合ってどちらもゆずらず……男のほうがしびれを切らして女を撃ったんです。で、一人になった男はあなたとの賭けを終わらせたんですけどね。ほら、あなた、先に死んだでしょう? 男は必死になって叫んでましたよ。『これで賭けは終わったはずだ』、『咲子さん!』ってね。

 けれど、何も返事がないことにさとった男は、あの『今日』に取り残されまいと自分に銃口を向けたんですがなかなか引き金を引けず……仕方がないのでちょっと手伝ってあげました。ほら、僕って優しい神様ですからねえ」

 グラウは自慢話じまんばなしでもするかのように嬉々ききとして語った。何が優しい神様だと咲子は心の中で思ったが、口にはしなかった。

「そしてその前の世界でのあの二人ですが……あなたが死んだあと、男はすぐに死にましたよ。まあ、すでに喉を撃ち抜かれて死にかけていたものですからね。え? 残されたもう一人の女はどうしたのかって?」

 グラウは自分の耳の横に手を当てる。一人でうんうん頷いたかと思うと、

「ええ! そうですよ。もちろんじゃないですか。ちゃんと殺してあげましたよ。僕は気まぐれで優しい神様ですからね。そうしないと、あの世界に一人で取り残されて可哀想じゃないですか。

 別に放っておいてもよかったのですがね。ほら、僕って優しい神様でしょう? そういう人間、見逃みのがせないんですよねえ」

 わざとらしくそう言って、にやにやしながら咲子を見る。そんな風に視線を送られても、咲子は黙ったままだ。

 と、咲子はようやく、探していたドアの前で足を止めた。そのドアの電光掲示板には『6.15 11:36』と表示されている。立ち止まった咲子の横に、グラウはふわふわと浮いている。

「まだやるつもりですか? 結果など分かっているのに」

「そう言うならあの二人を手伝ってあげれば? お得意とくいの気まぐれで」

 咲子はドアノブに手をかける。「ご冗談じょうだん?」と言ってグラウは、くく、と笑った。

「あれはあなたがあの二人に提案した賭けです。僕が選んでも意味のないことでしょう? あの二人が自分の意思で選択すること。それが分からない僕ではありません。僕にとってもあの二人の選択は、特に見る価値のある物ですから」

 と、透明な髪をいじりながらグラウは言った。

「ところであなたがあの二人に提案した賭け、どこかで聞いたような気がしますねえ。必ず死ぬ一人を殺せばここから出られる、とか」

 グラウは、鮮やかな赤い目で咲子を見下ろす。

「ま、いいですけどね。あなたが何をしようが。僕は強制きょうせいなどもしていませんし。

 一つ言っておきますが、僕とあなたの勝負もまだ続いているってことです。この世界から出る選択をするか、それとも、すでに過ぎ去った過去に浸り続けるか。どちらかをあなたが自分の意思で選ぶまで、この世界は永遠に続いていくのですよ。分かっていると思いますけど」

「……」

 咲子はドアノブを掴んだまま、何も答えない。そんな彼女を見下ろして、気まぐれな神は、

「……なんて。僕との勝負から逃げたあなたには、この話は関係のないことでしたねえ」

 そう言うと音もなく、煙となって姿を消した。

「……」

 一人になった咲子は、掴んでいたドアノブを回して手前に引く。

 ドアの先はあの喫茶店だった。右手側にレジ台とカウンター。左手側にはテーブルと椅子が並んでいる。ちょうど表の出入り口……外の人間が隔離棟の廊下から店に入ってきた時の光景だ。テーブル席の一つには、パーカーを着た男がこちらに背を向けて座っている。

 一見普段通りの店内だが、店の中と、窓から見える外の景色。こちらに背を向けている男さえもまるでモノクロ映画のように色を失い、停止していた。

 咲子はそんな店内に足を踏み入れた。静かにドアを閉め、座っている男のほうへと歩み寄る。止まった世界の中で彼女だけに色がつき、彼女だけが動いていた。

「あら。このままじゃまた勝っちゃうわ」

 足を止めた咲子は、テーブルの上を覗き込む。そこには周りと同じく、色を失ったチェス盤と駒が並んでいる。男は駒の一つを指でつまみ、マスに置こうとしているところで止まっていた。

「……」

 咲子はあごに手を当て、少し考えるような顔をする。数秒の間、色を失った駒たちが並ぶ盤上を見たあと、指を伸ばして駒の一つをつまんだ。彼女の指が触れた瞬間、その駒は色を取り戻した。咲子はつまみ上げた黒の女王を移動させる。

「これでいいわね」

 咲子はそう言って、黒の女王から指を離した。その瞬間黒の女王はまた色を失い、止まった景色と同じく固まる。黒の女王は、男が持っている駒の先に置き直した。

「あとは……」

 咲子はチェス盤から目を離すと、男の腰にあるポーチに目をやる。ポーチの中には、男が持ってきたナイフが入っているのだ。いつかの世界ではこのポーチからそのナイフを抜き取り、男と女を刺した。

「……放っておいても、勝手に死ぬわね」

 そう呟くと咲子は、ナイフが入っているポーチから目を離し、男の向かいへと座った。

「今日はどんな日になるかしら」

 言いながら、肘をついて外を眺める。今日も同じだと心の中では思う。今回もあの二人は変わらないだろうと。

 だが、同じことを何百回と一人で繰り返してきた彼女は忘れていた。自分もまた、小さなきっかけで未来を変えられる存在であるということを。

 一秒後、モノクロだった世界に色が戻り、この「今日」が動き始めた。

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