【魔女の世界――交差する賭け、選ぶべきもの】③

 古びた木造アパートの二階……303号室の前では、要が小夜に言い聞かせている。

「いいかい小夜ちゃん。君があの人としている賭けっていうのはね、最初から破綻はたんしてるんだよ。ここは何をしても戻らない、もう終わった世界なんだから」

 いつになく真剣な顔をした要からは、いつもの飄々ひょうひょうとした雰囲気は一切感じられない。それだけで、この世界がどういう場所かを語っていた。

「そんな……過去だなんて……。ありえません……」

「そう思うのは君の自由だよ。けど、お願いだから邪魔だけはしないで。僕があの人との賭けを終わらせてくるから」

 要はずれ落ちていた散弾銃の肩紐を引っかけ直し、303と書かれた扉に向き直る。要がドアノブに手を伸ばした時、小夜がぼそりと言葉を投げた。

「……そうですか。また、嘘ですか」

「……は?」

 思わず要は手を止め、顔だけを小夜に向ける。

「……そうですか。次はそんな嘘をつくんですね。あやうくだまされるところでしたよ」

 小夜はそう言い放つ。いきなりそんなことを言いだした小夜を、要は黙って見つめる。

「ここが過去の世界だなんて証拠、ないじゃないですか。あなたのこと、ちょっとは信じてみようかなって思っていたのに、とんだ嘘つきですね。次はそんな訳の分からないことを言いだすなんて」

「……僕のことを疑うのは君の勝手だけど、この世界は本当に僕が言った通りだよ。それに僕は、人のそういうことには嘘はつかないよ。約束は守るし、その約束通り小夜ちゃんには嘘はつかないよ」

「だから、それが嘘なんでしょう?

 何が、ここは終わった世界、ですか。何が、『時間を巻き戻す』能力の持ち主ですか。嘘にしては、もう少しまともなことを言ったらどうですか。

 結局あなたはそうやって、嘘ばっかりつく人間だったんですね。あなたのこと、よく分かりましたよ。やっぱりあなたは、最初からそういう人間だったんですね。もういい加減にしてくださいよ」

「……」

 急に一人で怒りだした小夜の言葉を、要は黙って聞いている。

「……僕が嘘をつくのは、自分のことか勝つためだ。だいたい、僕がそんな嘘をついて何の意味があるんだよ」

「それが、嘘なんでしょう?」

 全てを見透みすかしたような顔で、小夜が尋ねる。小夜の頭の中を覗いた要は、彼女の思考と言葉の一致を確認する。彼女は一片いっぺんの疑いもなく本当にそうだと思っているのだ。

 一方的に「全て嘘だ」と決めつけられ、要はうっすらと苛立ちを覚える。その苛立ちが、要の顔をぞっとするほどの無表情に変えていく。小夜はそれに気がつかない。

「とにかく、あなたこそ私の邪魔をしないでください。私が咲子さんと話して、勝負を終わらせますから」

「本気でそんなことができると思ってるの? ここは四十年前の世界だよ。もう終わった世界だ」

「まだそんな嘘を言っているんですか。私は捜査官です。目の前で人を殺そうとしているなんて、そんなこと見逃みのがせません。そんな賭けをしているということも。

 もうあなたはどこかへ行ってください。あなたの話なんて、最初から聞かなきゃよかった」

 小夜は言い放つ。話の通じない小夜に、要が一つため息をつく。

「……あのさ、言ったでしょ。その部屋にいる人間を殺せば、僕らはここから出られるんだ。だからさ、そこをどいてよ。小夜ちゃんにはできないでしょう?」

「だからと言って、その人を殺すなんて間違ってます。中にいる人は殺させません」

「僕の話、聞いてなかったの? ここはもう終わった世界なんだよ。過去をどうにかしようとしても無駄だ。たとえ奇跡が起きたって、たとえ神様の気まぐれでも過去は戻ってこない。だから咲子さんはここにずっといるし、僕たちはこうやって二回目の人生を生きてるんだ。それが分かんない?」

「分かりませんよ。あなたのような嘘つきの言葉なんて。自分のために他人を犠牲にするなんて、とんだ人殺しじゃないですか」

「……ん。そっか。そうなんだね。そう思うのなら、仕方がないね」

 言いながら、要はもしゃもしゃと頭を掻いた。

 その次の瞬間、スイッチが切り替わるようにして、彼の雰囲気ががらりと変わったのを小夜は感じた。

「ああ、そうだよ。僕は『嘘吐うそつき』だ。息をするようにうそく人間で、君の言う通りの人殺しだよ。ここまで生きてくるのに、もう三人殺した。だから、今さら無関係な人間だろうがね、そいつを殺すことに何も思わないよ。だって僕はそういう人間なんだから」

 消えていた飄々さが、彼の顔に浮き出ていた。へらへら笑う要を見て小夜は、やはりそうかと思う。だとしたら、彼の本心は……。

 いや、そんなものは最初からなかったんだろう。小夜はそう思う。彼は最初から、何もかもを『嘘』で塗り固めた人間だったのだ。そんな人間に、自分はまんまと騙されたのだ。あんなメッセージを本気にしてここまで来た自分に、小夜は怒りすら覚える。

「楽しかったですか? 私が思い通りの行動をして。必死になっている私を見て、笑いだすのをこらえていたんでしょう? どうなんですか」

「さっきも言ったじゃん。君がここに来るのは予想外だったよ。いやほんとうに。ふふっ。これは嘘だと思う? どっちかなあ」

 要はへらへら笑う。そんな要を、小夜は睨みつける。

「やはりあなたは最初から、そういう人間だったんですね。あなたのメッセージを聞いてここまで来た私が馬鹿でしたよ」

「それは君が勝手にやったことでしょう? 僕を信じない選択もあったはずだ。それをしなかったのは……君の中途半端な正義と真面目さゆえだ。そうだろう? 自分が選んでここへ来たのに、僕のせいにしないでくれるかなあ」

 中途半端な正義と言われて、小夜は要を強く睨みつける。最初から何もかも嘘で塗り固めていた、この自称「嘘つき」を。

「君がそう思ったのなら、僕はそういう人間なのかもしれないね。僕は最初から嘘しか言わない、ただの嘘つきなのかもしれない。僕の言葉は全部が嘘で、真実なんてこれっぽっちも言ってないのかも。それで、今見せている姿も嘘。そうかもしれないね。

 君が言う通り、僕は最初から何もかもを『嘘』で塗り固めた人間なのかも。ということは……ははっ、前回の賭けの続きかな? 君は自分で答えを出したのに、それも疑うんだねえ。おかしな話だ」

 要はにやにやしながら言う。彼の姿がジジ、ジジジとぶれ始める。

「殺すなんて簡単だよ。この銃を相手の頭に向けて、人差し指をちょっと動かすだけ。それだけでここから元の世界に戻れる。だから僕はこの銃を持ってきた。前回もそうやってここから出たからね。

 ああ、そういえば。君は咲子さんと、ここにいる全員を助けるなんて賭けをしているんだってね。じゃあ、君は一生ここから出られないねえ。いいんじゃない? もう終わった過去の世界で、ずっとそう言ってればさあ」

 要は語尾を上げて言う。小夜はそんな要を睨みつけながら、やはりこういう人間だったのだと心の中で思う。そのふざけた態度にふつふつと怒りが湧き上がってくる。小夜はそれを必死に理性で抑え込む。

 その湧き上がる怒りで、要が小夜を呼ぶ時の呼び方が『小夜ちゃん』から『君』になったことに、小夜は気がついてすらいない。

「そんなのは正義じゃないよ。あのね、くちだけならなんとでも言えるんだ。人の死体を見たくないっていうのなら、なんで銃なんか持ってきたのさ。わざわざ弾を一発入れて。それで僕を撃つつもりだったの? それとも咲子さんを? それとも、僕らじゃない誰かを? それとも君が持ってきたそれは、ただのおもちゃかな。うわ、笑えるね。すごく面白い冗談だ。笑いすぎて呆れちゃうよ。

 あのね、全員助けたいって言う人は銃なんか持ってこないよ。それを持ってきたってことは、少なくとも『誰かを撃つ意思』はあったってことでしょ? 違う?」

「……」

 小夜は何も答えない。ただ、要を睨みつけている。

「いいよ、それを抜いてみなよ。それが自分の正義だって本気で思ってるんなら、その一発を僕に使ってみなよ。撃てるのならね」

 そう言って要は両手を広げた。

「……」

 小夜の右手が、ジャケットの下に伸びる。ホルスターに入れている銃の尻に、指先が触れる。

「ただしそっちがそのつもりなら……僕ももちろん、それなりのことをするよ。死にたくないし、殺されたくないからね」

 要はポーチを開けて、赤い電池のようなものを一つ取り出した。それを慣れた手つきで散弾銃に込める。

 同時、小夜の右手がホルスターにある銃の持ち手を掴んだ。頭で判断した結果の行動ではない。射撃の訓練で染みついた、ほぼ反射的な動きだった。だが小夜は、銃を抜くか抜かないかで迷う。

「……ほら、迷ってる。撃てるか撃てないかじゃなくて、銃を抜くか抜かないかって、それをずっと考えてる」

『知りすぎてしまう』対価で小夜の思考を読み取った要は、大げさに先台を引いてコッキングする。小夜はごくりとつばを飲んだ。言われた通りのことを考え、そして彼に言われた通り、この銃を抜くかどうかで迷っていた。

「君がそうやって考えていられるのは、僕より強いからじゃない。僕が優しいからだよ。そうじゃなきゃ、君はとっくに頭を吹き飛ばされてる。相手が優しい僕でよかったね。今、君の前にいるのが、人殺しで優しい嘘つきでよかったねえ」

「……」

 そう言われても小夜はまだ、ジャケットの下に手を突っ込んだままだった。ホルスターの銃を掴んだ右手を、出す素振りも見せない。

「君は僕には勝てないよ。だけど、君がそんなふざけたことを言っている以上、無視はできない。それで巻き込まれて死ぬなんてこと、嫌だしね」

 要は嫌な笑みを浮かべて、小夜を見る。

「あのさ、そんな薄っぺらい正義で、本気でここにいる全員を助けられると思ってるの? ここにいる君以外の人間は、もう全員死んでるのにさ。そのうちの一人は、何をしても絶対に助けられない。なんで分かんないのかなあ」

 要は発射前の動作を終えた散弾銃を、ゆっくりと小夜に向けた。

「ほら、どうするの? これでもまだ、その銃を抜かないのかな? それとも銃を抜いて僕に向ける? そうしたら君が言っていた正義はその時点で消えちゃうね。何が『全員助ける』だ。とんだ正義だ、笑えるねえ」

 口調は軽いが、言われなくとも分かった。おどしやつふりではない。空気が凍るのを、小夜は肌で感じる。

 この男、間違いなく撃つ気だ。要の黒い眼から、小夜はそれを感じ取る。小夜のこめかみから、汗が一粒流れる。

「さあ、最後の警告だ。嘘はつかないって約束したから、『嘘』の能力は使わないであげるよ。

 今すぐ僕の前から消えるか、そこをどけよ。どかないと、その扉ごと吹き飛ばす。本気だよ」

「……絶対にどきません。この中にいる人は、殺させません」

 小夜はジャケットに手を突っ込んだまま、要にそう返した。

「あ、そう」

 軽く言い、要は散弾銃を持ち直す。それでも小夜はまだ、ふところに手を突っ込んだままだった。

 向けられた黒い穴を見つめ返しながら、小夜はまだ考えている。この銃を抜くべきか。抜かないべきか。自分の思う正義にしたがうのなら、自分はどうするべきか。

 この銃を抜いて彼を撃つか。抜かないまま彼に撃たれるか。いや、しかしそれでは何も成せないまま死んでしまうことと同じだ。ここへ来た意味がない。ならば今すぐ、銃を抜いて彼に向けるべきなのか。それをしてしまうと、自分の信じていた物を自分で壊すことになる。

 どうするべきなのか。どうすればいいのか。小夜は懐に手を突っ込んだまま考え続ける。いくら考えても、自分の思う答えは出てこない。

 必死にその答えを探している小夜はもちろん知らない。その向かいで散弾銃を向けている要が、今まさにその思考を読み取っていることなど。

「あら」

 と、その時。階段のほうから声がした。

「咲子さん……」

 小夜が顔を右に向け、そこに立つ人物の名前を言う。

「あなたたち、人の家の前で何を睨み合っているのかしら」

 いつの間にか階段を上がってきた咲子が、そこに立っていた。

 要は瞬時に、銃口の向ける先を小夜から咲子へと変える。銃口を向けられても、咲子の表情は一ミリも変わらない。向けられた黒い穴を一瞥すると、要に言った。

「撃ちたいならどうぞ。頭を吹き飛ばされて死ぬなんて、私にとっては珍しいざまね」

「……」

 要は何も言わない。

「分かっているでしょう? 私を殺したら、あなたは自分で死ななきゃいけなくなるのよ」

「……」

「できないでしょう? あなたには」

「……」

 要は咲子を睨みながら、彼女に向けた銃の先を下ろした。それを見て咲子は、いい子ね、と冗談を言った。

「あなた、死にたくないものね。それだけは本心だものね」

 と言いながら小夜の横を通り、要に歩み寄る。

 その最中さいちゅう、咲子は右手をポケットに入れ、そこから何かを抜いた。それを使って次にどんな行動を起こすか。咲子に本名を知られている要は、それが分からない。何を抜いたのか、何をされるのか、それらを考えていることに気を取られ、要の行動が一瞬遅れる。

 小夜も、まさか咲子がそんな行動をすると予測すらもしていなかったので、懐に手を突っ込んだまま、目の前のことを茫然ぼうぜんと眺めているだけだった。

 咲子の右手にある物が、ぎらりと反射した。それが奪われたナイフだと気づいた時には、もう遅かった。刃先が服を突き破り、皮膚に差し込まれる。皮膚を押しのけ、体重を乗せた刃がさらに奥まで突き刺さる。その激痛を、要は感じる。

「ぐ……!」

 要はその場に崩れ落ちた。

「これ、返すわ」

 咲子が、傷を押さえて苦しそうにうめく要を見下ろして言った。

「ああ、う……!」

 要は自分の腹部の左側……そこを強く掴んでいた。じわりと血が服ににじみ、要は額に脂汗を浮かばせて、痛みに荒い息をつく。血が広がる真ん中には、ナイフののようなものが深々ふかぶかと突き刺さっていた。

 むせかえるような血の匂いと、呻きが混じった要の呼吸。彼が咲子さんに刺されたということを、小夜はようやく理解する。

 理解しても、体が動かない。あの事務所で味わった以上の空気が、自分の上にのし掛かってくるのを小夜は感じる。腰から力が抜け、小夜は懐に右手を突っ込んだままその場にへたり込む。目を見開いて、二人を見つめることしかできない。

「はあ、はあ……」

 要は傷の周りの肉を右手で掴んだまま、荒い呼吸をする。反対の手を伸ばし、床に落ちた散弾銃を取ろうとする。傷を押さえている右手が、服に吸い取られなかった血で真っ赤に染まっている。

「さてかなめくん。あなたも苦労するわね」

 咲子が、取ろうとしている散弾銃を拾い上げ、要に銃口を向ける。

 要は荒い息をしながら、首を動かして咲子を見上げる。

「賭け、を……咲子さん……僕と、賭けを……」

 この状況から抜け出そうと、賭けを提案しようとする。だがその先が、刺された痛みで言葉にできない。

「いやよ、あなた弱いもの。じゃあね」

 咲子は要に向けている銃の引き金を、あっさり引いた。轟音が響きわたり、彼の体が床に落ちる。死体の顔の左目あたりが、スプーンで抉られたように大きく吹き飛んでいた。そこから脳漿のうしょうをこぼれさせ、血の水たまりをあたりに広げていく。

「ねえ小夜ちゃん、私との賭け、覚えてる?」

 散弾銃を放り捨てた咲子が言った。投げ捨てられた要の銃は、派手な音を立てて床を転がる。

「かなめくんから聞いたんでしょう? ここがどういう世界か」

 咲子は顔や着ている服から返り血をしたたらせながら、振り向いて小夜に聞く。小夜は目を見開いて固まっている。

「でもあなたは、それでも『全員助ける』なんて言ったのよ。あなたはもう過ぎてしまった過去を、一生懸命どうにかしようとしているのよ。そんなことをしても、終わった過去は戻ってこないのにね。そんなこと、たとえ気まぐれな神様でもできないのに」

 咲子はうつぶせになった要の死体を足でひっくり返し、腹に刺さっているナイフを抜いた。

 ナイフは持ち手のぎりぎりまで血で染まっている。それが、要の腹に差し込んだ傷の深さを表していた。ナイフの反り返った刃先の内側……フックのようになった部分には、肉片や神経が絡まっている。

 咲子はそれを右手に持ったまま、小夜に歩み寄る。

「一回目でこれだもの。次はどうなるかしらね」

 と、咲子は言った。

 次? それは一体どういうことだろう。その言葉の意味は小夜には分からない。

「まあ……どうなるかは、だいたい予想がつくけれど」

 咲子は言った。彼女がなんのことを言っているのか、小夜には一つも分からない。

「それでもあなたが本気でそう思っているのなら、それをやってみればいいわ。あなたはいつ、気がつくかしらね」

 咲子は微笑みかけた。小夜には咲子が何を言っているのか、またしても分からなかった。

「じゃ、次こそは、この賭けを終わらせられるといいわね」

 咲子がナイフを逆手に持ち、振り上げる。小夜はただ、ジャケットの下に右手を突っ込んだまま、それを見上げている。

 咲子は振り上げた右手を下ろした。視界いっぱいにナイフの切っ先が迫った次の瞬間、小夜の意識はぶつりと切れた。


「また、今日が終わったわ」

 二人を殺してから数時間後。咲子は暗い森の中にいた。

 六人乗りの白い車に背中を預けた咲子は、木々の隙間から覗く空を見上げる。藍色の空には満天の星が浮いていた。

 また、今日が終わる。一九八一年の六月十五日が終わり、次の日がやってくる。咲子は星空を見上げながら、一人、そんなことを思う。

「明日はどんな日になるかしら」

 咲子は、わざとらしく呟いた。こたえる声などありはしない。

 ここはすでに過ぎ去った過去の世界。そのことを、咲子はとうに知っている。

「繰り返していればいつか……明日が来るかしら」

 彼女は空を見上げて、わざとらしくそう呟く。自分が望む「明日」など二度と来ないことを、自分の望みが永遠に叶わないことを、そんな奇跡など起こらないことを、知りながら。

 と、背中を預けている車から音がした。スマートキーで車のドアを解錠かいじょうした時の音だった。咲子の左側で、後部座席のドアが唐突とうとつに開かれる。

 中からは誰も降りてこない。代わりに黒い煙がもくもくと外へ出ていく。

 咲子は首を回して車内を見た。倒された後部座席の上には男らしき人物が、運転席に頭を向けて倒れている。こちらを向く男の顔は青白く染まっており、生気などは一切感じられない。男は死んでいた。

 その死体の横にあるのは練炭れんたんの入った七輪しちりん。練炭の火はすでに消え、最後と言わんばかりに黒い煙を吐き出している。

「……」

 咲子は車内に横たわる男の死体から、顔を前に戻した。煙を吸い、少し咳き込む。そしてもう一度、満天の星空を見上げる。

「……次は、奇跡が起こるかしら」

 ぽつりと呟いてみる。応える声など、何もない。

 咲子はスカートの右ポケットから、血に濡れたナイフを取り出した。先程二人を刺したナイフだった。

 咲子はそれを、躊躇いなく自分の喉へと向ける。

 そしてすぐに、ナイフの切っ先をぐっと気管に押し込んだ。

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