あなたじゃなきゃ
月舞 海玖
ショート小説
「生きていく意味、あるんだろうか……」
何をしていてもそんな事ばかりに思考が傾く。私にはもう何もない。この世に存在する意味は、もう、ない。
◇◆◇
「また私のブラウスがない。とてもお気に入りだったのに……きっと誰かが盗ったんだわ」
箪笥の引き出しの中をゴソゴソと引っ掻き回し、ベッドシーツの交換をしている私に聞こえるように呟く。
一〇二号室の米田さんは、最近自分のものが盗まれたと言うことが多くなった。
「米田さん。きっと奥の方に入っていますよ。盗んだりするような悪い人は、ここのお部屋にはいないから大丈夫ですよ」
「ええ?でも最近ずっと見ていないのよ、薄桃色のブラウス。せっかく今日着ようと思ったのに……」
「あとで他のブラウスを用意しておきますから。ほら、呼んでますよ」
お風呂場の方から入浴担当の職員が米田さんの名前を呼んでいるのが聞こえた。
「さあ、お風呂行きましょうか」
私は車椅子を押し、米田さんをお風呂場まで連れて行った。
体を壊し前職を辞め、老人介護施設で働き始めて三年目。いろいろなお年寄りや認知症の症状を見てきた。
肌着、靴下、上衣、下衣、自分で綺麗に整理整頓できていた箪笥の中がぐちゃぐちゃになってくるのを見ると認知症の症状が出始めたのかなと、少し切なくなる。さらに症状が進むと自分の物を盗まれたとしばしば言うようになる。
米田さんは症状が大分進んできていた。
他の人のベッドシーツの交換をしていると、お風呂から上がった米田さんが戻ってきた。私がシーツ交換をしている様子をじっと見つめている。
「……大変ねえ。入ったばかりの新人さんでまだ仕事慣れないでしょう?」
「うーん、そうですねえ。でも少し慣れてきましたよ」
微笑みながら答える。通りがかった職員にも聞かれて『三年目の新人さん!』と笑われてしまった。
「私もねえ、若い頃はあなたみたいによく働いたもんだわ、朝から晩まで。姑にいびられながら(笑)」
「あら、厳しいお姑さんだったんですねえ」
「そうなのよ、全然休ませてくれなくてもう体がボロボロだったの」
「シーツとタオルケット、新しくしておいたので昔たくさん頑張った分、ゆっくり休んでくださいね」
「ありがとう、あなた優しいのね……私の夫もね、私がお風呂から上がると『毎日どうもありがとう』って、毎晩私にお布団を綺麗に敷いてくれるの。些細なことだけれど、とても嬉しかったの。どれだけつらくても夫だけはとても優しくて、私の味方だった」
「素敵な旦那さんですね」
「ええ。私はあの人じゃなきゃダメだったわ。……あなた、独身?」
「え?……あ、はい……」
「そう。あなたにも『あなたじゃなきゃダメ』っていう人が、きっと現れるわよ」
「え?私じゃなきゃ、ダメ?」
「そう。だから、その人が現れるまで頑張りなさい」
その言葉に、ハッとする。キュッと胸が締めつけられ、熱いものが頬を伝う。
少し前、私は最愛の夫を事故で亡くした。ショックで心身ともに壊れ、もう生きる意味も、気力も失っていた。
「あなたじゃなきゃダメだって言う人がきっと現れるから」
真っ直ぐに私を見つめる米田さんは、認知の症状でグズっていた時とはまるで別人のようだった。
「……ありがとう、米田さん。……こんな私にもそんな人が、いつか現れるかな」
「もちろんよ」
「……私、……」
──もう少し、頑張ってみようかな──
最愛の夫のことを忘れることなんでできない。でも生きる意味を無くすのではなく、その優しいその思い出とこれからも一緒に。
部屋を出て振り返る。箪笥の引き出しに手を入れ薄桃色のブラウスを探している米田さんの背中に、『ありがとう』とつぶやいた。
あなたじゃなきゃ 月舞 海玖 @tsukimai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます