第112話 綾瀬さんも葛藤してます

 綾瀬は恐怖していた。

 特異点アンタッチャブルのおぞましい姿も、その咆哮も恐ろしい。落下するブロックもなぜだか胸騒ぎを掻き立てるものがある。ブロックをホールドする男が落とされることにも恐怖を抱いていた。

 だが、それ以上に怖いものがあった。


 自分が正体を表したら、榊はどう思うのだろうか。自分が特異点に抱いているような、おぞましいという感情を抱くのではないだろうか。

 それを思う時、綾瀬は恐怖と絶望で惨憺たる気持ちとなる。

 しかし、もうひとりの恩人である春日が言った。


「綾瀬、君だけでも先に行けないか?」


 逃げ道がなくなるような、そんな恐怖があった。だが、春日の言うこともわかる。このまま特異点を好きにさせていたら世界はなくなるのだ。なぜだかわからないが、そんな確信がある。

 春日は開きし者へと姿を変えた自分を抱きかかえてくれた人だった。


 アタミでの戦いで綾瀬はその姿を変えていた。姿が変わったのはその時が初めてではなかったが、変身するたびに自我が失われていく感覚があった。

 だが、春日の声が届いたからだろうか。変身前に見た榊の様子が心配だったからだろうか。綾瀬は自我を保ったまま、戦いに臨むことができた。

 綾瀬はこのふたりと一緒なら自分自身を見失うことはない、そう思って彼らと旅を同行していたのだ。


 その旅の中、春日は誰よりも精力的に働き、綾瀬のことも常に庇ってくれた。彼は本当にいい仲間だったと思う。

 その春日が願っているのだ。断ることはできなかった。


「変身!」


 綾瀬がそう叫ぶと、その姿が変わっていく。蟲のような禍々しい姿だが、それで世界を救えるならば、異形の姿になるのも悪くないのかもしれない。

 背中の羽を広げ、肢のバネを最大限に利用して、特異点の下へと飛ぶための力を溜める。


「綾瀬、がんばって! 私たちもすぐ行くから、それまであの怪物をどうにか足止めしてよ」


 榊の言葉があった。異形の姿になっていなければ、綾瀬は涙を流していたことだろう。だが、もはや自分の姿は人間ではない。

 彼女の言葉に感動と喜びを抱いていたが、それは胸の奥にしまう。彼女のためにも世界を救うのだ。

 胸中は複雑であったが、全身を駆使し猛スピードで飛び立った。


 眼前に迫った特異点に対し、綾瀬は体勢を変える。足を突き出し、全身で蹴りを入れる。


 ドォォーン


 特異点にも驕りがあったのだろう。空を飛ぶものなど現れるはずがない、そんな油断があったはずだ。

 真っすぐに飛んできた綾瀬の蹴りは特異点に直撃し、特異点を吹っ飛ばす。特異点はその勢いを殺すことはできず、そのまま地に伏した。

 特異点はその屈辱に耐えかねたのか、咆哮し、開きし者の群れを呼び寄せる。


 特異点自身もまた飛び上がり、綾瀬に向かって攻撃を開始した。黒い塊のような吐息ブレスを吐き、その牙が、爪が襲い来る。それを回避し、綾瀬も反撃するが、最初の奇襲のようにはいかず、特異点にダメージを与えられないままに、自身の被弾ばかりが増えていく。

 ついには、黒い吐息により鉄柱が綾瀬に突き刺さった。激痛に喘いでいると、さらに爪の一薙ぎを受け、弾き飛ばされる。


 どうにか体勢を整えた綾瀬だったが、この時、開きし者の大群から逃走する榊といろはの姿がその複眼に映った。助けに行きたいが、今は特異点をどうにかしなくてはならない。

 さらに、飛行する開きし者の群れも特異点に呼び出されて向かってきており、事態はどんどん不利に進んでいた。


 その時だった。熱射のような光線が特異点と開きし者の群れを焼き払う。

 それはブロックを抱えた男――深町によるものだった。姿勢を崩し、瞬間的に揚力を弱めながらも、その腕から光線を放ったのだ。


「加勢、感謝する。だが、守りたいものがいるのだろう。

 ここはもう大丈夫だ。行くがいい」


 綾瀬はその言葉に頷くと、榊のもとに向かい飛び始めた。

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