第26話 私と夫と可愛い息子と③


 なんで? 今は何も頼んでないよ? それに会話内容的にも、ジンさんが初めて聞くような単語はなかったはず。


 それなのに、いきなりキスをしてきたジンさんは――とても悲しそうな顔をしていた。


「もっと、俺も頼ってくれ」

「……頼ってますよ。さっきも帰ってきて間もないというのに、冷却シート出してもらったじゃないですか」

「そうじゃない! そうじゃないんだ‼」


 ジンさんが髪を掻きむしる。


「もっと俺も……いや、違う。出来るなら、俺だけを頼ってほしかった。先輩に言ってもらうよりも前に……本当は、俺がちゃんと言うべきだったんだ」


 あーでもない。こーでもない。一人でブツブツ葛藤しているジンさんを、私はポカンと見上げていた。とりあえず、そのふりふりエプロンを回収するべきかな。そんな場違いなことを考えながら。


「俺は、きみを愛しているっ!」

「……ありがとうございます?」


 それは精霊的な『ご苦労さま』なのかな? まぁ、悪い気はしないからいいのだけど。


 だけど、ジンさんは「違うっ!」と叫んだ。


「俺は、本当にきみのことを『妻』だと思っているんだ。それこそ、始めは形骸的なものだったかもしれない。だけど、今では本当にきみが好きで……ボロボロになるまで頑張ってヒイロと向き合ってくれるきみが、何よりも大切で。本当に、本当に、真摯にヒイロに向き合ってくれること、感謝している」

「そりゃあ……そういう約束ですから」


 だって、そのために私は生き返らせてもらったのだから。そのためにこの世界に来たのだから。決して自分から頼んだわけじゃないけど……それでも、今の生活に満足しているから。


 だから、十分なんだ。笑顔で、心からこう言えるほどに。


「安心してください。無理に私に媚び売らなくても、ちゃんとヒイロくんが独り立ちするまで、しっかり母親役を務めますよ。むしろ辞めろと言われても全力で否定させてもらうつもり――」

「だから、そうじゃないっ!」


 唾が飛んでくる。今更ジンさんの唾くらいでどうこう言うつもりもないけれど……。


 ジンさんが再び私の肩を抱き、口付けをしてきた。歯が当たるくらい乱暴なキスは初めてだった。だけど私が有無を言う暇もないくらい、何度も、何度も、その厚い唇を重ねてきて。


 ジンさんは、私の首筋に顔を埋めた。


「どうしたら……ちゃんと伝わるんだ……」


 首元に吸い付かれる。本当に痛くて「ジンさん‼」と押し返そうとするも、ジンさんは私の背中に手を回してくるだけ。


「俺は……きみを妻『役』だと一度も思ったことがないんだ。本当の妻だと思い、そして一度も、この一年間一度も、きみが妻であることを後悔したことがない。毎晩きみの顔を見るたびに、ヒイロのことを嬉しそうに話すきみの声を聞くたびに、帰って玄関の家族絵を見るたびに……俺は、きみと家族になれて良かったと、心からそう思うんだ――それじゃあ、足りないのか? この程度の感情じゃ、『愛』と呼ぶのに相応しくないのか? きみやヒイロの助けになりたいと、きみらの一番になりたいと思うだけじゃ、俺はきみの本当の伴侶にはなれないのか?」

「ジンさん、そのくらいで……」


 これ以上は、勘弁してもらいたかった。これ以上、優しい言葉はいらない。だって、さっき泣いたばかりなんだから。だから、もう嬉しい言葉はいらないのに。


 それなのに、


「ミツキ」


 ジンさんが、私の名前を呼ぶ。


「ミツキ……もっと俺のことを呼んでくれ。もっと俺を頼ってくれ。もっと俺を見てくれ。もっと俺に甘えてくれ。もっと俺を、俺を――本当の、きみの夫にしてほしい」


 ……遠慮、していたわけじゃなかった。もう十分与えられているのだと思っていた。これ以上を、望んではいけないのだと思っていた。


 だけど、この旦那様は……どこまでも、私に甘いらしい。


「なら……新しい冷却シートをもっとください」

「勿論だ」

「ヒイロくんの身体を拭いてあげたいので、なるべく熱いお湯で濡れタオルを作ってきてください。私はその間に、替えの洋服を準備しますから」

「あぁ、造作もない」

「それと……一晩といっても、まだ時間は長いので……」


 途中で付き添いの交代を――そう頼もうとして、私は顔を上げる。整った男らしい顔が、どこまでもどこまでも優しいから。


 私は思いっきり、要領の悪いことを頼んでしまう。


「一人じゃ不安なので、一緒にヒイロくんのそばにいてもらってもいいですか?」

「当たり前だ! 一晩だろうが二晩だろうが構わんぞ!」


 あっさり快諾してくれるけど、私は知っている。


「明日もお仕事ですよね? 寝れないかもしれませんよ?」

「だからどうした」

「どうしたって……」


 それなのに、本当にどうでも良さそうに言うものだから……思わず私が笑ってしまう。


 でも、いつまでもこうしてはいられない。私たちの大切な子供が、待っているのだから。


「それじゃあ、やりますか!」

「了承した!」


 私たち夫婦は、顔を見合わせて気合を入れる。




「よく眠っているな」

「そうですね」


 あれから、ヒイロくんを着替えさせようと思ったら起きたので。お水を飲ませて。お粥を作って。食べさせて。オムツを変えて。身体を拭いて。服を着せて。気晴らしに絵本を読んであげて。それでもすぐに泣いてしまうから、交代交代で抱っこして。


 あれよあれよという間に夜は更けて、なんとか隙を見てジンさんにはお風呂に入ってもらって。私ももう一度シャワーを浴びてきて。


 すやすや寝ているヒイロくんを挟んで、私たちは横になる。さっき仮眠を取らせてもらったとはいえ、病気の子供の面倒はいつもよりキツイ。本当にジンさんがいてくれて良かったと息を吐く。ヒイロくんの上に置いた手が、だいぶゆっくり上下していた。


 ジンさんが反対の首元に手を当てる。


「呼吸もだいぶ綺麗になったな。この分なら、もう熟睡してくれるんじゃないか」

「それなら、ジンさんは自分の寝室に……」


 戻っていいですよ、と言おうとする口を止めた。明かりを消した暗がりの中、金色の光る瞳がジト目で睨んできたからだ。


「今の発言はなかったことに」

「無論だ。俺は何も聞かなかった」


 うーん……これはこれで、めんどくさいな?


 そう思わないでもないんだけど、ジンさんが蕩けそうな顔で、ヒイロくんの上に置いた私の手に、手を重ねてくるから。私は咄嗟に視線を逸らす。


「……なんて顔してるんですか」

「すまん。なんか俺、幸せだ」

「ヒイロくんが具合悪いってのに?」

「だから謝罪した。だが、家族三人で並んで横になるだけで、こんな幸せな気分になるとは思わなかった」


 家族三人。川の字で。お布団は今一枚しかないから、私とジンさんは当然布団からはみ出しているけども。


 それでも、私も物心ついてからはずっと一人で寝ていたから。


「ジンさんさえ良ければ、これからも三人で寝ましょうか」

「いいのか⁉」

「しーっ!」


 ジンさんの大声を注意すると、ジンさんは慌てて口を手で覆った。


「……すまない」

「でもジンさんの帰りが遅い時は、今まで通りの方が良さそうですね」


 物音でヒイロくんが起きたら可哀想。そう言うと、ジンさんはしょんぼり「あいわかった」と言いながら、手を私の上に戻す。その大きな手が、とても心地良かった。


 だから、思わず。私の瞼が重くなる。柔らかなヒイロのくんお腹と、固い手に挟まれた私の手が、あまりにも幸せだから。


「ヒイロくんが独り立ちしたら」

「あぁ」

「二人で温泉、行きましょう」

「おんせん?」


 ジンさんが眉根を寄せる。温泉、知らないのか。まぁ、私も実際に行ったことはないんだけどね。


「口を借りるぞ」


 ジンさんが腕に力を入れて、ヒイロくん越しに顔を近付けてくる。それを、私はやんわりと拒絶した。


「ダメです。これから、ゆっくりと私の言葉で説明しますから」


 ゆっくりと、決して急ぐ必要はない。

 私たち夫婦は、まだまだこれからなのだから。


「……ごめんなさい」

「そんなわざわざ謝罪するほどのことでも」

「私も、すごく幸せです」

「あぁ……そうだな」


 息子のあどけない仏顔から、すーすーと規則的な寝息が聞こえている。





「うんしょ」


 お腹の上にずーんとした衝撃を感じた。私の上にぐしゃぐしゃの毛布と息子が乗っていて。思わず目をぱちくりさせていると、私の上から退いた息子は、部屋の端からえっちらおっちら、ずるずると毛布を引きずっている。カーテンの隙間から明るい日差しが溢れて、彼の道を照らしていた。その道を通って、今度はジンさんのお腹の上に、どーんと自分ごと毛布を乗せる。


「ふーっ」


 満足気に額を腕でこすって、再び私の側にやってくる。そして胸を叩き出した。


「ねんね。ねんね」


 とんとん。とんとん。私を寝かしつけようとしているヒイロくんの顔色は良かった。ぱっちりとした赤い目に、異様な輝きはない。見るからに今日もほっぺがふにふにで、小さい鼻が愛らしい。金髪頭がボサボサの我が息子。


「ヒイロくんっ!」

「ヒイロ!」


 私とジンさんが跳ね起きたのは同時だった。前と後ろから、二人でぎゅーっとヒイロくんを抱きしめる。すると、ヒイロくんがふわふわの眉を寄せた。


「おやすみ、しないの?」

「ううん。もう朝だから、おはようだよ」


 すると、ヒイロくんがにんまり笑う。


「おはよー!」

「うん、おはよう」


 私たちの夜が明け、目まぐるしい朝が帰ってくる。




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