第24話 私と夫と可愛い息子と①




 だけど、翌日になってもヒイロくんの熱は下がらなかった。

 次の日も。次の日も。あの日から、三日経つ。


「ヒイロくん、お水飲もう?」


 ヒイロくんの肩をグッと持ち上げて、コップを口元に近づける。いつもならふにふにの両手でしっかりコップを持ってゴクゴクするのに……コップを掴もうとした手に力が入らなかったのか、落としてしまった。


「ごめ、ね……」


 ふぅふぅと苦しそうにしている顔が、余計にしかめられる。キラキラとした赤い瞳が異様に輝いてギラギラし続けていた。


「大丈夫だよ。また元気になったら、上手に飲めるからねぇ」


 私は辛うじて笑みを作りながら、ヒイロくんの頭を撫でた。いつもふわふわな金髪が、汗でべったりしている。撫で続けていると、ヒイロくんの瞼がゆっくりと閉じていった。いつもより早く上下する胸元に安堵するべきか、不安を募らせるべきか。


「お布団を変えて、マグを洗わないと」


 水とはいえ、濡れた布団のまま寝かすわけにはいかない。隣で敷きっぱなしの私の布団に寝かせるべく、私はヒイロくんを持ち上げた。背中やおしりを支える手に掛かる重みに、私は奥歯を噛みしめる。よくここまで大きくなったな。これから、私じゃ持ち上がらないくらい大きくなるんだろうな――なってくれなきゃ、困るんだ。だからお願い。ヒイロくん頑張って。


 私はヒイロくんを寝かしつけて、汗ばんだ額に触れる。まだ熱いな……氷冷剤や氷まくらは用意してもらってたんだけど、「いやあ」とヒイロくんに拒否られてしまっている。残るは冷却シートが思い浮かぶけど、そんなものジンさんに出してもらわないとファンタジー世界にあるはずがない。頼みの精霊は、今は仕事中だ。


 また拒否られてしまうかもしれないけど、冷たいタオルを作ろう。


「冷たくて気持ちいいやつ、作ってくるね」


 聞こえているかわからないけど、そう声を掛けて、私は濡れた布団を抱えて部屋を出る。


 洗濯機の中で乾いているタオルや服たちは、どんっとリビングに投げた。そしてシーツを放り込んで、ボタンをピッ。その後、すぐさま二階へ駆け上がり、マットレスを干す。まだ昼間。幸い晴れ。雪に反射する日差しに目眩なんかしてられない。


 すぐに踵を返して、押入れにしまっていた赤ちゃん用のマグを掘り出す。急いでいる時は、やっぱり手洗いだ。スポンジに洗剤を垂らして泡立てていると、玄関の方から物音がする。


「帰ったぞ」

「ジンさんっ」


 私は慌てて手をすすぎ、玄関へ。仕事用の豪奢なアラブっぽい格好をしたジンさんの後ろに、背丈大きく派手なオネエが手を上げている。水色のモヒカン、黄色の唇、ボリュームたっぷりモノクロコート。


「はぁい♡ ミツキ、久しぶり。どうもヒイロちゃんの体調が――」


 今日も絶好調なシュートメさんと呑気に挨拶している余裕なんてなかった。私はジンさんの胸ぐらを無理やり引っ張り、近づいた唇に口を合わせる。頭に冷却シートを散々思い描いてから、手を離した。


「これ、ください」

「……あいわかった」


 眉根を寄せたジンさんが、指を鳴らす。その大きな手に出てきたぷにぷにのシートを奪い取って、ヒイロくんの元に向かおうとした時である。


「ちょーっと待ちなさい」


 私の腕が無理やり引かれて、腰に手を当てられる。手を高く上げられて、なぜか社交ダンスのように回された。そして腰を引き寄せられて――間近に迫った整いつつも派手すぎるオネエの迫力に、思わず息を呑む。顎を指で持ち上げられた。


「アンタ、なんて顔してんのよ?」

「へ?」

「顔がやつれて、隈だってヒドイじゃなぁ~い。目が据わってるわよ。髪もボサボサ。肌もギトついているわ。事情は聞いてる。ヒイロちゃんがお熱で大変なんデショ? でも、こんなママに看病されてたら、良くなるものも良くならないわよ」

「で、でも――」


 私がヒイロくんの母親なんだから。私が看病しなくちゃ。ヒイロくんが苦しんでいるのに、私が寝てられるわけないじゃない。本当は病気を変わってあげたいくらいなのに。でもそんなこと、どんなに願ってもできないから。だから私が。私が――


 口にしなくちゃ。手を離してもらわなきゃ。早くヒイロくんの所へ行かなくちゃ。

 なのに焦れば焦るほど、口が上手に言葉を紡いでくれなくて。


 シュートメさんが、にっこり笑った。


「ちょっと休んでなさい」


 そんな暇なんて、と言うよりも前に、シュートメさんの綺羅びやかな指先がツンと私の額を突っつく。途端、私の膝から力が抜けて――…………



◇◇◇



『パパ、ママ! りょこう楽しみだね!』


 隣に座る母親と、真ん中の通路を挟んで座る父親に話しかけているのは、『私』だった。


 ガタガタと定期的に揺れる大型バスの中。斜め前に座る見知らぬお婆さんが振り返り、私を温かな目で見ていた。それに母親が『騒がしくてすみません』と頭を下げる。するとお婆さんは『いえいえ』と言って、鞄の中から飴玉を取り出した。


『良ければ、どうぞ』

『宜しいんですか?』


 ペコペコしながら受け取った母親が、私に『みつき、お礼は?』と促してくる。私は『ありがとう!』と大声で叫んだ。バス中でくすくす笑い声が聞こえてくるけど、貰った飴は苺ミルクの味がして、甘酸っぱくて美味しい……気がした。


 ――あぁ、これは夢か。


 最近は見ることが少なかったけど。私はよく同じ夢を見て、よくうなされていた。お医者さん曰く、追体験というらしい。成長期によくある症状で、過去の怖かった思い出などを夢に見るのだ。感情の解放だから、自分自身の中で消化できるまで、根気強く付き合っていくしかないらしい。


 だから、私はこのあと何が起こるか知っている。


 バスに大きな衝撃が走り、機体が横滑りする。そこにどんどん車がぶつかってきて。なぜか、ギュイイインとタイヤが回り始めるのだ。運転手がアクセルを踏んだまま気絶したとわかったのは、のちの警察官からの報告やニュースから。そのままおかしな方向へ突き進んだバスは崖に向かって一直線だったらしい。


 耳元で風船が弾けたような気がした。車内がとにかく騒がしくて、私は何がなんだかわからず、母親にしがみついていたと思う。気が付けば、全身が痛くて。でもすぐ側に、父親と母親の顔があって。


『みつき、〇〇○○』

『〇〇○○○、みつき』


 二人の最期の言葉は、いつも最後まで聞こえない。


 それから、私はなぜか浮かび上がるの。そして最後に、同じものを見る。車体の瓦礫の中。咄嗟にシートベルトを外した両親が、窓際に座っていた子供を守ろうとする。母親が子供を抱きしめて、さらにその上から父親が包み込んだ、その末路。


 首がおかしな方向に曲がった父親や、手足が潰れた母親の歪んだ遺体。

 そんな二人を見下ろして、


「ママ、パパ。みつき――…………」


 私は、いつも何かを言おうとするのだけど。 


 いつも最後まで言えずに、目を覚ます。


 

 ◇◇◇



 気が付けば、明かりも点いていない部屋で目覚めた。懐かしい寝室。この数ヶ月、洋服置き場と化していた部屋はどこか埃っぽい。二階はヒイロくんもあまり行かないようにさせているし、掃除サボっていたんだよなぁ。


 鼻を啜り、目を擦る。


「よいしょっと」


 いつの間に、オバサンぽい掛け声で起き上がるようになったんだろう。だけど、いくらか身体が軽いような気がする。少し肩を回して、目に入ったのはまだずっと開けっ放しのカーテンだった。外はもう暗くて、今日も星は見えそうにない。


 そのことで、私はようやく我に返る。


「えっ⁉」


 なんで私は寝ていたんだろう⁉ いや、絶対シュートメさんのせいだけど。


 ジンさんたちが帰ってきたのがお昼過ぎだったと思うから、あれから四時間以上経っているはず。ヒイロくんは⁉ 私は慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。


 すると、リビングで優雅に晩御飯を食べている大男二人組がいた。テーブルには豪華絢爛な惣菜たちが並び、二人は手をベトベトにしながら大きな手羽先に齧りついている。


「なっ……」


 思わず言葉が出ないでいると、指をペロッと舐めたシュートメさんがグラスを持ち上げる。円柱状のグラスには澄んだ茶色の液体が入っていた。


「これ、ウーロン茶だから。怒っちゃやーよ?」

「きみの生まれた世界には多くのお茶があるのだな。色々勉強になる」


 ジンさんは手どころではなく、口周りもベトベトです。三歳児じゃあるまいし。一体おいくつですか? と聞いてしまいたくなるが……二人は呑気に会話に花を咲かす。


「これ、前にあげた緑茶と同じ茶葉なのよ?」

「なっ、全然風味が違うじゃないですか⁉」

「発酵させる時間によって全然違うお茶になってねぇ。ま、今度ゆっくり教えてあげるわ」

「さすが知識の大精霊殿……勉強になります」

「アハッ。坊やは相変わらず大袈裟ねぇ。このくらいの知識なら、ミツキでも知っているはずよ。ねぇ?」


 いや、話を振られましても。そりゃあ、緑茶とウーロン茶と紅茶が同じ茶葉だということは聞いたことありますが。緑茶が新鮮な葉で淹れたお茶で、あとは順に発酵が進んでいるんだっけ?


 でも、そんな飲み会の世間話どころじゃないんですよ。


「ひ、ヒイロくんは……?」


 私の問いに、シュートメさんが小さく笑った。

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