第23話 恵まれた生活とふりふりエプロン




 そこからの記憶がおぼろげだった。

 馬車の炎は、ジンさんの魔法で消したらしい。私に駆け寄ってきて再び泣きわめくヒイロくんに、私を縛ってきた紐を切ってくれるジンさん。


「警邏隊に連絡してある。時期に奴らも確保されるだろう」


 そう言って、ジンさんはその太い腕で私たちを抱きしめ、転移した。


 だから今はもう、温かな我が家に私はいる。それが日常であるはずなのに、ジンさんが淹れてくれた温かいお茶に現実味が湧かなかった。カーテンが締められていない窓に見えるのは、黒く寒そうな雪景色。なのに暖色の明かりに照らされた部屋はじんわり温かく、ピンクの可愛い模様が描かれた湯呑から薄ら白い湯気が上がっている。


 もちろん、湯呑の縁が欠けていたりすることはない。


 ヒイロくんは私に抱きついたまま、寝てしまっていた。先程、ようやくお布団に置けたものの、私の服はただでさえ汚れているのに、涙やよだれでベタベタだった。それでも、お風呂に入る気力も湧かなくて――ただぼんやりと、ダイニングの椅子に座る。


 私の前で、青い湯呑に口を付けたジンさんが言った。


「うむ。前よりも上手く淹れられるようになったぞ。先輩から教わってきたんだ。茶は交互に注ぐものらしいな。どうりでいつもきみのと俺ので、茶の色が違うなと思っていたんだ」


 いい歳の美丈夫が、ちょっと得意げにしている。可愛い。だけど、笑う元気が出てこない。唇を噛み締めて、泣かないようにするだけで目一杯だった。


 そんな私を見てか、ジンさんが気まずそうに視線を逸らす。


「あの……災難だったな」


 災難……そうなの? あれは、災難な事故だったの?

 でも、きちんとお礼は言わないとだよね。


「助けていただき、ありがとうございました」

「いや、妻を助けるのは当然の務めだ」

「馬鹿な妻で、本当にごめんなさい。全部、自業自得です」


 まんまと騙されて。誘拐されて。私がぼんやりとしながらも頭を下げると、ジンさんが「そんなことない」と笑った。


「俺よりも、ヒイロが大変だったんたぞ。きみが出掛けて一時間くらいで、『ママが帰って来ない』と喚きだしてな。帰ってくるのは夕方だと言い聞かせてもきかなくて……日が暮れても帰って来ないから、俺が夕飯の支度をしようと少し目を離した隙に一人で転移していた。すごいな、もうあんな長距離転移できるとは。それに、どこにいるかもわからない者の所に転移するのは、とても高度な技なんだ。まだ教えてもいないのに。本当にヒイロは魔法の天才だな」


 ジンさんのわざとらしい明るい声音が、とても痛い。


 ジンさんは、私を責めない。そして、ヒイロくんのことも、あの時「やりすぎ」と言っただけ。だけど、私にはあの笑顔が忘れなかった。人が炎に焼かれ悶え苦んでいる前で、向けてきた笑顔が。私の苦手な虫を潰して、満足げな顔が――今も怖くて。私は顔を覆う。


「私が……ヒイロくんを魔王にしてしまうのかも……」

「そんなわけ――」

「あんなイキイキと人を焼くなんて……私が、馬鹿だから。私が馬鹿だから、みんな……」


 サーリャさんを悪の手に染めさせたのは、私だ。私が原因だ。私が、サーリャさんの劣等感を刺激してしまったから。だから、サーリャさんは人身売買に手を出した。私がバザーで買い物をしなければ。無意識に自慢話をしなければ、サーリャさんは今も慎ましく生活していたかもしれないのに。


 だから、私が。いつか。ヒイロくんを魔王へと。

 人の痛みがわからない子に、育ててしまうかもしれない。


「初めて町に言った時……ジンさんが危惧していたことって、今日みたいなことですか?」

「……あぁ」


 ワンテンポ置いてから、ジンさんが肯定する。だけど、その神妙な顔はすぐに笑みへと変わった。


「『魔族の子』だと揶揄されて、今日みたいな攻撃性を見せるかと測っていた。だが……あの子は自分のことで、その力を使わなかった」


 あの時だってがむしゃらに魔力を撒き散らすことは出来たはずだと、ジンさんは言う。


 だけど、その後にこう続けた。


「今日のヒイロは、ただきみを助けたかっただけだ。まだ幼いから――善悪の加減がつかないだけだろう。きっと大丈夫だ。そのために、俺やきみがいるのだから」


 本当……?


 ジンさんは、そう言ってくれるけれど。こんな馬鹿な私が、これからもヒイロくんを育てていけるの? ただでさえ、本当の母親でもないのに。相手の生活を推し量ることも出来ない、自分が如何に恵まれていたかも理解出来ていなかった私が、どんな顔して『子育て』出来るというの?


「……サーリャさんは、どうなりますか?」

「今、きみが知る必要はない」

「教えてください」


 私の問いかけに、ジンさんは渋りながらも答えてくれる。


「きみ次第だ。きみが被害者として訴え出れば、それ相応の罰を与えられる」


 ジンさんが教えてくれる。


 私を運んでいた人たちは、当然前科があるから刑罰に処されるとのこと。そこから、サーリャにも足が付くが、被害者は今のところ、私ひとり。今のところ、林道で火災事故があったということで警邏隊に通報してあるらしいから、サーリャが罪に問われるかは、私次第だという。


「『ランクル』の町はどこの国にも所属してないからこそ、治安のために刑罰も厳しくなっている。あの現場もまだ『ランクル』管轄内だったからな……きみがその気になれば、その刑罰に従って、身一つで追放させることが出来る」

「……家族と離れ離れですか?」

「あぁ。家族皆で『ランクル』を離れても、どこにも行く場所がないだろう。犯罪者を受け入れいてくれる国がどこにある? どこの国籍も持てずに家族皆で浮浪するくらいなら……父と子で慎ましく生きていくほうが、よほど子の為になるだろうな」

「じゃあ、黙ってます」


 私は即決だった。

 リュカくんから、お母さんを取り上げることなんて出来るはずがない。


 だけど、ジンさんは眉根を寄せる。


「それでいいのか? それで……きみの気が晴れるのか? ヒイロのことを懸念しているのなら、そんなものいくらでも誤魔化せるぞ。俺が妻を助けるために攻撃したと言えばいいんだ。俺の魔法士としての経歴があれば、罪にも問われん」

「きっと、サーリャさんの中に罪の意識はありますから」


 あの男の人の話では――私を引き渡す時、サーリャさんは狂っていたようだったと言っていた。だから、きっと今も、サーリャさんの心の中に罪の意識はあると思うのだ。


 その罪悪感を抱えて、これからも生きていく。いつか、自分も捕まるかもしれない。そう思いながら、無邪気な子供と生きていくのは、きっと辛いことだと思うから。


「きみは……甘いな」

「今度しれっと町で挨拶したら、けっこう怖がってくれると思いますよ」

「……きみがそうしたいなら、俺も一緒に挨拶してやろう」


 たとえジンさんにそう笑われても、私は決して甘くないお茶を一気に飲み干す。少し冷えたほろ苦さが、私の喉を潤してくれた。


 そんな私を温かい目で見守ってから、ジンさんは「さて」と腰を上げた。そしてパチンと指を鳴らす。


「一度、風呂に入ってきたらどうだ? 湯の準備は今した。俺はその間に、夕飯の仕上げをしておこう」

「そういや、ジンさんって料理出来たんですか?」


 いつも出来合を買ってきてくれるし、こうしてお茶も淹れてくれるけど……しっかりとした料理を振る舞ってくれるのは初めてである。本当は、今日も夕方に帰宅して私が用意するつもりだったのだ。


 私の疑問符に、ジンさんは袖を捲った。


「あぁ。末席とはいえ、これでも俺は精霊だぞ! 人間をもてなすことなどわけはない!」


 どうも精霊様と晩御飯が結びつかないけれど……こんなにも豪語してくれるのなら、期待させてもらおう。今のところ、キッチンから何の匂いも痕跡も見当たらないけどね。


「では、楽しみにしてますね」

「あぁ、ゆっくりしてこいっ!」


 ただでさえ立派な大胸筋を張るものだから、思わず私は苦笑して洗面所に向かう。


 本当に……なんて恵まれているのだろう。

 当たり前のように用意された快適な住宅。未だ木のいい香りがする落ち着いた浴室の湯船には、本当にお湯がなみなみ張られていた。さっきの指パッチンで、用意してくれたのだろう。


 本当、なんて私は幸せなんだ。お風呂入っている間にご飯を用意してくれる優しい旦那様がいて。『ママ』のためならどこへでも飛んできてくれる可愛い息子がいて。


 本当は、これらは全てファンタジーの幻想だったはずなのに。


 私は一度、死んだ身で。ひょんなことから、この世界にやってきて『母親』をすることになった。いくら毎日が目まぐるしくても、忘れちゃいけない。この夢のような世界が現実だからこそ、しっかりしなくちゃ。温かな湯船に入れば、じゃばっとお湯が溢れていく。そんな贅沢に、私は感謝しなくちゃならない。


 私は恵まれているのだと。そして、誰しもが恵まれているわけではないことを。


 どの世界でも、誰しもが自分の幸せのために、自分の大切なモノのために、懸命に生きているのだから。子を捨て、人を売らないといけない残酷な世界だからこそ。私は、この手にあるものをしっかり掴んでいないといけないのだろう。


 でなければ――手で掬ったお湯のように、あっさりと溢れ落ちてしまうのだから。


 一通り身体を綺麗にして、私はお風呂場から上がる。いつの間にか、部屋着まで用意されていた。そのおもてなしを私はギュッと抱きしめて、ありがたく袖を通させてもらう。この世界にはないであろう、伸縮性に良いジャージ。うん、大切にしよう。今あるモノ、全てを。


「ジンさん、お風呂ありがとうございました」


 私がリビングに戻ると、エプロン姿の美丈夫がこちらを向く。


「あ、おかえり。すまないが、もう少しだけ時間をもらえるか?」


 フライパン片手にジュージューと香ばしい匂いがする。遠目からだけど……焼きそばかな? ソースの焦げた匂いからして、本当にもうすぐ出来上がるだろう。


 私は笑みを作る。


「大丈夫ですよ。ヒイロくんの様子見てきます。パパのご飯、ヒイロくんも食べたいでしょうから」

「そ、そうだろうか。宜しく頼む」


 ふふ、そわそわしちゃって。フリルの付いたエプロン姿も相まって、可愛すぎるんですけど。くすくす笑い、上手く隠せたかな。


 子ども部屋の扉をそっと開ける。薄暗い部屋の真ん中で、小さな布団の上でまるまる塊が見えた。まだ寝ているみたいだね。そっと近づいて、私はしゃがみこむ。


 どうしようかなぁ……ジンさんにはああ言ったけど、疲れているところ起こすのは可哀想かな? そう静かにしていると、ふと気付く。いつもより呼吸が早い。とっさに小さな首元に触れたら、尋常じゃないくらいに熱かった。薄ら開いた瞼から覗く瞳が、赤黒くギラついている。


「ヒイロくん⁉」


 私は慌てて明かりを点ける。真っ赤な顔したヒイロくんが苦しそうに顔をしかめていた。


「ヒイロくん、起きて! ヒイロくん⁉」

「どうした?」


 私がヒイロくんの頬をペシペシ叩いていると、ジンさんがやってくる。私が顔を向けると、顔を引き締めたジンさんが「貸してみろ」とヒイロくんを抱き上げた。片手でヒイロくんの瞼を持ち上げてから、上下している胸に耳を当てる。


「少し気管支の音が気になるが、心臓に支障はない。……目の色が濃いから、おそらく魔過症だろう」

「まかしょう?」


 私が馬鹿みたいにオウム返しするも、ジンさんは丁寧に応えてくれる。


「魔法士特有の風邪みたいなものだ。急激に枯渇した魔力を補充しようと、過剰に放出しすぎて発熱する病気だ。治療薬もいらないな。水分さえしっかり摂らせておけば、問題ない」


 ただオロオロするだけの私に向かって、ジンさんは力強く笑ってくれた。


「大丈夫。明日になれば熱も下がるさ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る