第18話 覚悟と「もいっかい!」




 ヒイロくんを子ども部屋の布団にそっと置く。少し前に、ヒイロくんの身体はベビーベッドに収まらなくなった。だから大人用のベッドを置こうとも思ったんだけど……あまりにコロコロ寝相が悪いから、ジンさんと相談してしばらくお布団で寝てもらうことになりました。ちなみに、隣には私用のお布団も引きっぱなし。ヒイロくんを寝かしつけて、そのまま寝てしまうことがしばしばあるからね。日中畳んでないのは……あれですよ。こうしたお昼寝の時、すぐに使えるからってことで。怠慢の言い訳だけどさ。


 ヒイロくんはぐっすり眠っていた。よだれが垂らした口元は、今も三角に半開き。身体が大きくなっても、寝顔は変わらないね。白いまんまるほっぺが、本当に天使……というより、仏様? 私は少し汗ばんだ金色の猫っ子毛を撫でて、そっと部屋を出る。


 リビングで、ジンさんはお茶を淹れてくれていた。


「飲むか?」

「……はい」


 急須から湯呑に、お米の香りがする緑の液体が注がれる。紛れもなき緑茶。前にシュートメさんが「たまには故郷のモノが恋しくなるデショ」と差し入れてくれた物だ。ピンクの模様が可愛い湯呑も、夫婦お揃いでどうぞと買ってきてくれた物。私のに淹れた後、隣の青い湯呑にもお茶が注がれる。


 本当、シュートメさんの気遣いには頭が上がらないよね。今日みたいな日には、日本のお茶が飲みたくなる。美味しい。本当、涙が出そうになるくらい。


 特に何も語らず、私たちはダイニングでお茶を飲む。お茶を啜る音以外、とても静かだった。カチカチと時計の針が刻む音が聞こえる。


 飲み終えて、私が茶飲みをテーブルに置いた時、ジンさんが立ち上がる。


「こちらに来てくれないか?」


 正直けっこう疲れていたけれど、そう言われてわざわざ拒否もできない。私が黙って立ち上がると、一足早くリビングの中央に移動したジンさんが――突然、大狼の姿に変化した。


 リビングを占領する大きな白いフェンリル様に「さぁ」と促される。


 ……何をですか?


「……ジンさん?」

「疲れただろう?」

「えぇ」

「嫌なこともあっただろう?」

「……そうですね」

「癒やされろ」

「はい?」


 こちらを向いていたオオカミの顔が、ぷいっとそっぽ向いた。


「きみは、この姿の俺を背もたれにするのが好きなんだろう⁉」


 あ、そうか。その意図がわかって、思わず笑ってしまう。最近してなかったのに、覚えていてくれたんだね。私がそのもふもふが好きなこと。


「それじゃあ、遠慮なく」


 そう断りを入れて、私はジンさんのそばに座った。横向きで、真っ白な毛並みに身体を預ける。適度に沈む感覚。かすかに聞こえる脈拍。そして全身を包むふかふかな毛並み。私はそっとその毛並みを撫でて、息を吐く。代わりに吸い込むのは、ジンさんの優しい香り。


「ねぇ、ジンさん。瞬間移動ができるなら、どうして行きはしなかったんですか?」


 世間話代わりに聞いてみれば、また返事はワンテンポ遅れて返ってくる。


「ヒイロが……喜ぶかと思って」

「ジンさんも結構楽しんでましたよね?」

「……悪いか?」


 それに、私は首を振る。だけど顔を上げるわけじゃないから、自然ともふもふにうりうりする形になるけれど。私はそのぬくもりを感じながら、言葉にする。


「また、二人で乗せてくださいね」


 もう町へは行けないかもしれないけど。


 ……それでもいい。この森で、三人でひっそり暮らすだけで、私は十分幸せだ。そうすれば、ヒイロくんは傷つかない。それこそ、魔王に闇堕ちする理由もなくなるよね? 


「森の中、いっぱい走ってください。冬になったら、あの湖も凍ったりするんですか? また見に行くのもいいですね」


 ジンさんの尻尾が、私の身体を包んでくれる。そして、ジンさんの声音も優しかった。


「きみがそれを望むなら。また全速力で走ることを誓おう」

「あ、速度はそれなりでお願いします」

「ヒイロは喜んでいたが?」

「むっ。意地悪ですか?」


 私が頬を膨らませれば、ジンさんのお腹がふるふる震えて。その振動で私も揺れるから、なんだか私もおかしくなった。


 ひとしきり笑い終えてから、ジンさんが言う。


「今日は本当にすまなかった」

「何がですか?」


 私が尋ねると、ジンさんはゆっくりと話す。


「ヒイロが嫌な目に遭うと、俺は予想した上で外出を提案した――きみや、ヒイロにも理解してもらいたかったんだ。この世界は、赤い目を持つ者が生き辛い世界だと」


 完全に差別ってやつだよね。ただ、目の色が赤いだけ。それだけで、なんで二歳児相当の子供があんな目で見られなきゃればならないんだろう。


 ジンさんは続ける。


「そもそも……ヒイロは人間だが、普通ではないんだ。成長速度が、人間のそれではないのは見て明らかだろう? だから、今は人の出入りが多い地方にいるが、ゆくゆくは引っ越すことになると思う。ヒイロが学舎に通うようになれば、尚更だ。ヒイロが青年期になれば落ち着くだろうが……きみには、相応の苦労を強いることになると思う」

「はい……」


 そうだよね。学校で一人だけ成長が二倍も三倍も早かったら、それこそ『魔族』ってやつじゃなくても、怖がられちゃうもんね。まぁ、転勤族みたいなものだと思えば。人見知りのヒイロくんが頻繁に転校するのは大変かもしれないけど、私がしっかり支えなきゃ。


「それでも、きみはヒイロの母親を続けてくれるか?」

「はい?」


 私が心の中で決意を新たにしているのに――ジンさんは何を訊いてきた?


 瞬きしてからジンさんを見やれば、オオカミの耳がいつもより垂れている。私は手近なジンさんの毛並みを抜く勢いで引っ張った。


 ジンさんが小さく呻く。


「……痛いぞ」

「ジンさんが馬鹿なこと訊くからでしょう?」


 さすがに痛いのは可哀想かなと思って、私はジンさんの毛並みを三編みし始める。うーん。ふわふわすぎてまとまりが悪い。そもそも止めるものがないな。


 ふと思い出して、私の頭に着いている飾りを外す。一緒にお団子も崩れるけど、今更だよね。作った三編みを止めれば、白銀の中でリボン状の飾りがキラキラと輝く。うん、上出来!


「……何をしているんだ?」


 呆れ声のジンさんに、私は淡々と答えた。


「八つ当たりです」

「俺が馬鹿な質問をしたからってやつか?」

「当たり前でしょう?」

「だが、あれの母親を続けるに、『可愛い』だけではすまないぞ?」

「だから、当たり前でしょう⁉」


 私はジンさんにギュッと抱きついた。到底、私の腕じゃ大狼姿のジンさんの背中までも届かないけれど。でも、くっついていれば、私の記憶や感情が伝わるんでしょう?


 だから、伝われ。


 自分でもぐちゃぐちゃしているから、上手く話せそうにない。だけど、伝わって。

 私は、そんな甘い覚悟で『母親になる』って決めたんじゃない。


 それに、親としての務めが『可愛い』だけで済まないことなんて、当たり前じゃないか。一度、ヒイロくんの親になるって決めたんだから。途中で親がいなくなる不幸は、私が一番わかっている。


 たとえそれに致し方ない事情があったとわかっていても――めちゃくちゃ悲しいに違いないのだ。他の身内が育ててくれたとしても、やっぱり実子とは違うから。私が遠慮していたからかもしれない。もっと自分から甘えたら、私も撫でてもらえたのかもしれない。だけど、少なくとも――ヒイロくんにそんな想いをしてもらいたいと思わない。


 ようやく出来た、私の家族。ヒイロくんと、ジンさんと。たまに来てくれるシュートメさん。そんな不思議な集まりが、かけがえのない私の居場所なの。


 私はヒイロくんの本当の親じゃないから、もしかしたら役不足な点もあるかもしれない。だけど、頑張るから。全力で、これからもヒイロくんに甘えてもらえるようなお母さんになるから。


 だから、お願い。伝わって。私がヒイロくんのママでいたいの。


 森の中を駆けている時以上に、必死にジンさんにしがみついていると――もふもふの尻尾が、優しく私の背中を撫でてくれる。


「馬鹿なことを訊いてすまなかった……だから泣かないでくれ。きみを咎めたいわけではないんだ。俺も、これからもきみたちの家族でありたい」


 良かった……ちゃんと伝わった……?


 それに安堵して、私は軽口を零す。 


「……今日は謝ってばかりですね」

「そもそも俺が軽んじた提案をしたせいだからな。これからは、やはりなるべく人前に出ないようにしよう。一番危惧していた事態は起こらなかったし、このまま生活していけばヒイロも問題ないだろう。当分は、またこの森でひっそりと――」


 一番危惧していたこと? ヒイロくんが差別の目で見られることより?


 だけどジンさんは、これからも今まで通りの生活を続けると言ってくれているから、それより大事なことはない。


 私も「はい」と同意した時、子供部屋の扉が開く。


「まま……ぱぱ……」


 寝ぼけ眼をこすったヒイロくんが、ぷわーっと大きな欠伸をした。それからぼんやりとした様子で私たちの方へ走ってきては、ジンさんの身体にぼすっと倒れる。そして、ずるずる床に落ちていく。


 ばかっと、ヒイロくんが立ち上がった。


「もいっかい!」


 とてとて子供部屋の前まで戻って、またこっちへ走ってくる。

 ぼすっ。ずるずる。ばかっ。


「もいっかい!」


 その挙動を三回見守って、ジンさんが言う。


「ヒイロは何をしているんだ?」

「楽しそうだからいいんじゃないですか?」


 苦笑しながら窓の外を見やれば、落ち葉がより赤く染まっているようだった。もうすぐ陽が暮れる。そういや、洗濯物が干しっぱなしだ。もう冷えちゃってるだろうな。それを片付けて、商店街で買って来たお肉をチンして。野菜は何が残っていたっけ?


「それじゃあ、家事を――」


 してきますね、と立ち上がろうとした時だ。ヒイロくんが私の膝の上に倒れ込んできては、満面の笑みで見上げてくる。赤い瞳がキラキラしていた。


「おでかけ! する⁉」


 その発言に、私は四回瞬きしてからジンさんを見た。切れ長の金色が見開かれている。


 私はゆーっくり尋ねた。


「おでかけって……今日行ったところ?」

「うん! まち、おでかけ、する!」

「でも、怖かったでしょう?」

「ひいろ、いくのー」

「……楽しかったの?」


 すると、ヒイロくんは「うんっ!」と大きな声で頷いて。


 それから、「今日は遅いからもう行かないよ」「今からママは家事をするんだよ」と言い含めるのが大変だったんだけど。


 私と目を見合わせてから、人型に戻ったジンさんがヒイロくんを抱き上げる。


「そうだな! パパも今日はすっごく楽しかったぞ! またパパがお休みの時、町に連れて行ってやる。だから今日は、ママの家事を一緒に応援しような?」

「うんー。ままー。がんばえー」


 どうやら私たちが思っている以上に、子供はたくましいものらしい。

 子供が、楽しかったと言ってくれるなら。


「ありがとう。ママ、頑張るね!」


 負けてたまるか。私も、今日を素敵な思い出にしないとね。




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