2歳、秋

第13話 お箸と虫




 私専用のカレンダーは十一月になっていた。


 季節は秋。空気もたいぶ冷たくなって、外の木々も葉色を赤や黄色に染めている。地面に落ちたたくさんの葉っぱの上を、金髪の眩しい幼子が無邪気に走り回っていた。その楽しそうな声が、青い空に響き渡る。そして転んだ。カサッとした葉音が軽い。


「ままー。たのちー」

「楽しいじゃないでしょ!」


 呑気に笑うヒイロくんを、私は慌てて助け起こした。二足でしっかり立つヒイロくんは、しゃがんだ私と同じくらいの身長。頭に落ち葉が付いているけど、特に血が出ている箇所はない。お外用の繋ぎズボンが汚れているのなんか、今更だ。


 私は二歳になったヒイロくんの手を握る。あーむちむちな手も丸いほっぺも相変わらず可愛い。食べてしまいたいとはまさにこのこと。浸け置き洗いくらい、ママやりますとも。


 無事に「まま」「ぱぱ」と呼んでくれるようになってから、より一層私たちはデレデレだった。矯正するために、私たちもヒイロくんの前では「ママ」「パパ」と呼び合うようになったんだけどね。……慣れてきたけど、最初はけっこう恥ずかしかったな。


 だけど、ヒイロくんは私の手を振り払って走り出してしまう。その力の強さに、私は肩を竦めた。あんな小さな手で、どこにそんな力があるんだろう?


「まったくー。転ばないように気をつけてね?」

「あーい」


 本当、お返事だけは立派です。


 ヒイロくんはまだ短い足を懸命に動かして、「ぐるぐる~」と小さめの木のまわりを回っている。そしてまた転んだ。だけど今度は私が助けるよりも早く自分で起き上がり、またぐるぐるし始める。何が楽しいんだか? でも、私の口角も上がっている。


 だいぶ喋るようになったヒイロくんは、今日も元気だった。毎日元気すぎて、困るくらい。


 さすがに家の中に缶詰は可哀想だからと、最近ジンさんのいない時でもお外が解禁されるようになった。家から見える範囲の森が、お庭状態。しかも誰も来ないどころか、まっすぐ徒歩五分くらい進んでいくと、自然に家に帰ってこれる不思議仕様。


 この不思議魔法はシュートメさんが設定してくれた。さすがに空間に関与する魔法は、まだジンさんには荷が重いらしい。そんな魔法事情は私にわからないけど、あの時のジンさんの悔しそうな顔が可愛かったのは内緒だ。


 私の誕生日会以降、シュートメさんも月に一回くらい顔を出してくれるようになった。何やかんや、いつもたくさんのお土産を持ってきてくれるシュートメさんに、ヒイロくんも少しずつ慣れている様子。


 こうして、ヒイロくんの世界が広がっていくんだね。それが嬉しくて、だけど少しだけ寂しくもあるけれど――、


「ままー。どんぐいー。どんぐいー」

「んー? またどんぐりあったのー?」


 何かある度すぐ「ママ」と呼ぶヒイロくんには、まだまだうんざりするほど手が焼ける。


 そうして永遠と続けられるどんぐり拾いは、雨の日以外毎日だ。両手いっぱいでも続けられるどんぐり拾いが、楽しそうで何より。


 でもね、ヒイロくん。


「そろそろ一旦おうちに帰ろー?」

「やー!」

「でも、もう三時間くらいお外にいるよー? おうちでお昼食べようよー?」

「やーっ‼」


 全力で拒否ったヒイロくんは、またてけてけ森の奥へと逃げていく。


 ……まぁね。絶対迷子にならない仕様の魔法があるから、放っておいてもいいんだけどさ。でも、やっぱりそういうわけにもいかないよね……。


「もうママがお腹空いたよぉ……」


 私は悲鳴をあげるお腹をさすって、とぼとぼヒイロくんのあとを追う。


 ガサッ。あ、また転んだ。





「――と、いうわけで。今日もヒイロくんは元気でした」

「そうか。いつも苦労をかけるな」

「いえいえ、それが私の仕事みたいなものですから」


 日付が変わる少し前。最近ジンさんは仕事が忙しいらしく、帰ってくるのはいつもこれくらい。当然ヒイロくんは寝ているので、私も起きていられた時は、寝る前のお茶を飲みながら近況報告するのが日課となっていた。ジンさんも神様とかにヒイロくんの経過を報告する義務があるという。明日がその報告日らしい。


 私が温かいお茶に一息吐いていると、箸に苦闘しながらも肉じゃがを食べるジンさんが訊いてくる。


「他に、特に気になることはないか?」

「そうですねぇ……あ、最近ヒイロくんはお箸が上手になってきましたよ」

「むぅ」


 当然、ヒイロくんが使うのは子ども用の指を通す輪っかが付いている指導箸なんだけど。それでも器用に人参を箸で摘んで、口に運んでいた姿を思い出す。


「こう……ぱぱ指。まま指。しゅとめ指って――お兄さんの概念がつかないらしいのですが、どうしたもんですかねぇ」


 中指はシュートメさんじゃなくて、お兄さんなんだよ。


 そう教えてはいるものの「しゅとめゆびっ!」と穴に中指を通すのが可愛くて、今ひとつ強く注意出来ないでいる今日この頃。


 だけど、目の前のパパ指ことジンさんは、自棄になってじゃがいもに箸を突き立てていた。


 この『ナハトーム』にお箸の文化はないらしい。だけど使えて損はないと、ヒイロくんにも教えることになった。ジンさん曰く、野宿の時に箸は即席で作れるから便利だろう、とのこと。そして親である以上、ヒイロくんよりも先に箸を使えるようになるべく、ジンさんも箸の練習を始めたんだけど――結果はこの通りである。まぁ、ジンさんは普通の大人用箸を使っているんだけどね。 


 大の浅黒美丈夫の不器用すぎる箸使いを見ながら、私は「あっ」と思い出したことを話す。


「そうそう、お外で遊んでいる時なんですけどね――」


 それは、午後の散歩の時のこと。


 お昼寝を終えてより一層元気なヒイロくんが、虫を見つけた時だ。


 異世界だからちょっと違うのかもしれないけど、ヒイロくんがどこからか茶色のバッタだかコオロギだかを持ってきた。ヒイロくんが初めて見つけた虫だ。記念すべき出来事である。あのキラキラした表情は天使そのもの。いや、天使もあの可愛さには敵わないと思う。天使に会ったことないし。


 だけど――残念ながら、私は人並みに虫が嫌いなのだ。


『ヒイロくん……それ、ポイしよう? ごめんね、ママ。虫苦手なんだ』


 アワアワしながらそう答えると、ヒイロくんはしゅんとして――

 その虫を、握りつぶした。


『え?』


 ヒイロくんは手の中でぐちゃぐちゃになった虫をパンパンと払って、私を見上げた。


『まま! ひいろ、むしやっつけた! えらい?』


 その無邪気な赤い瞳に、私はひとまず『ありがとう』と応えたのだけど――


「……一瞬。ほんの一瞬なんですけどね? その時の顔が、虫を見せてきたのと同じくらいキラキラしていたので……その、何て言うのかな。もしかしたら、男の子ってそういうものなのかもしれないんですけど……」


 なんとなく、言いよどむ。あの時芽生えた感情を、はっきりと言語化してはいけないような気がして。そう――怖いはずなんてない。面倒見たことある子供が従姉妹ちゃん、女の子だけだから、男の子の乱暴さにビックリしただけ。わざわざジンさんに報告するほどでもない、些細な違和感。だってヒイロくんは、私が苦手って言ったから処分してくれただけだもんね。ゴキブリを退治するのと、おんなじだ。


「すごいですよねぇ。まだ二歳相当なんですよね。それでもう、お母さんの嫌いな虫を退治してくれるとか……あまりの優しさにビックリしちゃって。これぞ勇者の素質ってやつなんですかね?」


 私が笑顔で捲し立てると、ジンさんは箸を置いた。気が付けば、肉じゃがは綺麗に完食してくれている。和食がお気に召してくれたようで何よりだ。まぁ、調味料はいつも通り、ジンさんに出してもらっているんだけど。


 そう、いつも通り――テーブル越しに腕を引かれ、強制的に私が腰をあげる。そして頭を抱き寄せられて、「借りるぞ」と唇に吸い付かれた。離れた後は、こんな感じでいつも真剣な顔。その真っ直ぐな金色の瞳と厚い唇にドキドキしていると、ジンさんが「うむ」と頷くのだ。


「……明日、皆で町に出てみるか」

「いきなりですね」


 突拍子もない提案に唖然としていると、ジンさんがニコリと口角を上げる。


「たまにはいいだろう。ほら、ヒイロもそろそろ社交性とやらを学び始めても良いだろうし」


 その不器用な笑顔がとても珍しかったけど――パパからのお出かけ提案を、私には断る理由がない。




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