第12話 オネエと酔っぱらい②
ジンさんの腕の中は、とてもあたたかかった。袖からたくましい浅黒の腕が伸びている。その腕から、そして「愛している」という言葉の破壊力から、私はとても逃げられない。
真っ白な頭で、せめて動かせた視線を横に向ける。すると、驚いた顔をしたシュートメさんの顔がどんどん歪んでいった。
「ふっ……ふふふ。あはっ、なぁに? 坊や、あんな一杯で酔っ払ったの~? そんなんじゃ、お神酒すらろくに飲めないじゃないのさ~」
あははとお腹を抱えながら、シュートメさんがキラキラの指先で涙を拭う。
あ……へ? 酔っぱらい?
ジンさんはシュートメさんから注がれたワイン一杯しか飲んでいなかったはず。ううん、テーブルの上のグラスを確認すれば、まだ半分近く残っていた。
ジンさんが後ろから私の頬に顔を擦り寄せてくる。すりすりとなすりつけてくる顔が熱い。一見子供や動物っぽい仕草だけど、汗の臭いと透き通るような髪の感触にソワソワしてしまう。
そんな私たちを見て、シュートメさんは言った。
「どうする? オトナの時間を始めるなら、アタシお暇しましょうか?」
「始めません。お願いです。助けてください」
「あらぁ? 夫婦の営みにお姑さんは邪魔なだけじゃなくて~?」
「ニヤニヤしてないで助けてよおおおおおお!」
堪らず絶叫すると、「ハイハイ」とシュートメさんが腰を上げた。そして私からは見えないけど、首にのしかかる圧がなくなったと思いきや、
「ソイヤーっ!」
シュートメさんの掛け声とともに、ジンさんが宙を飛んでいく。そしてリビングの壁にドシンッとぶつかって、ずるずる床に沈んでいった。
あの……そこまで……。
私が絶句していると、シュートメさんがパンパンと両手を払う。
「酒は飲んでも呑まれるな! はい、復唱!」
なぜか私が指さされ、同じ言葉を繰り返す。うぅ、未成年ながらアル中で死んだ私には胸が痛すぎる言葉だじぇぃ。だけどメソメソしている場合ではない。同じように指さされたジンさんから、『酒は飲んでも呑まれるな』が返ってこない。
「え、ジンさん⁉」
私は慌てて駆け寄ると、壁にもたれて座るジンさんは目を閉じていた。白いまつげが長く、鼻筋が通っている。そんな美しすぎる芸術的な横顔が、本当に彫刻であるかのように動かないから。
頭が真っ白になるのは一瞬。震える手を、ジンさんの口の前に寄せた。心臓うるさいから、反射的に自分の呼吸を止めて――代わりに感じる、ジンさんのゆっくりとした温かい寝息。
「もっと酔っ払いらしくイビキとかかいてよぉ」
ひと安心して私もその場に座り込むと、ダイニングテーブルでまた手酌を始めていたシュートメさんがぷーくすくすと笑う。
「やぁねぇ。仮にも元勇者の精霊が、投げ飛ばされたくらいで死なないわよぉ」
「勇者?」
あれ、勇者ってヒイロくんがこれからなるやつなんじゃ?
私が立ち上がりながら疑問符を返すと、視界が大きく揺れた。何かが腰に纏わりつき、強制的に体勢を変えられる。腰を絞めてくる浅黒の肌。その腕には筋や血管が浮き出ており、私が引き剥がそうとしてもビクともしない。さらに足まで私を包むように丸まってきて、私はまるで動けない。
その寝顔は、とても必死だった。
「俺の……俺の奥さんなんだぁ……」
「はい?」
見下ろすと、ジンさんの目は完全に閉じている。だけど、その厚い唇はとめどなく動く。
「ようやく……俺の奥さん……取るな。俺の……取るな……」
「はいはい、坊やの奥さんね。嫉妬オツ。誰も取らないから安心なさぁ~い」
ダイニングテーブルからシュートメさんがおざなりに応えると、ジンさんの険しかった眉間のしわが取れる。
え、嫉妬? ジンさんが?
「ふふっ、俺の奥さん……」
だけど、私をホールドする手を緩めないジンさんは、完全に床に横たわりむにゃむにゃ夢の中。だけど、よだれを垂らしながらなんて幸せそうなことか。
「いったいどんな夢見てるんですか」
思わずジト目で尋ねても、もちろん返事は返って来ず。
代わりに応えてくれるのは、グラスを二つ持ってきてくれるシュートメさんだ。
「ジュースでも飲む?」
「……いただきます」
辛うじて動かせる手で、炭酸の入ったグラスを受け取る。それを喉に流し込むと、清々しい甘みが広がった。一息吐く。
「さっきの勇者ってなんですか?」
なんとなく尋ねると、シュートメさんは私の前に座りながらワインを煽った。
「坊やの前世ね。簡単に説明すれば……アタシたち精霊って、徳を積んだ人間の生まれ変わりなのよ。百年前にこの『ナハトーム』に蔓延っていた魔族を倒した勇者が、その偉業を神様に認められて、精霊として生まれ変わったわけ。まぁ、だから今回の勇者の子の件も任されたんだけどね。元勇者なら、勇者を育てられるデショってな感じよ」
「なる……ほど?」
うん、ジンさんから昔いたという魔族の件は聞いたことある。確かその戦いの結果、北の方いっぺんが砂漠になってしまったとか。
でも、確かその話を聞いた時、ジンさんはまるで他人事のように話していたような?
私の疑問が顔に出ていたのか、シュートメさんは説明を加えてくれた。
「アタシたち精霊はね、前世のこと覚えてないのよ。世界に対して平等を強いられる立場だからね。前世の感情なんか邪魔なだけ。アタシなんて精霊になってウン万年だから、もうてんで何も思い出せないんだけど――でも、まだこの坊やは生まれて十年くらいの、まだまだ精霊の赤ちゃんだから」
そりゃあ、何万歳の人からすれば、十歳くらいの子なんて赤ちゃんかそれ未満だろう。
でもちょっと待って? 精霊になって十歳って、私よりも年下じゃ……?
色々頭の整理をするも、シュートメさんはジンさんの頭を撫でながら話を進める。
「坊やはまだ深層心理で、前世の想いが残っているようなの。この子ねぇ、勇者として世界は救っても、残念ながら自分を支えてくれる伴侶には出会えなかったようでさぁ。まぁ、生涯勇者業優先した結果でもあるんだけど。でも、本当は結婚して子供をこさえてっていう『普通の幸せ』に憧れていたようなのよね」
それは、いったいどんな人生だったのだろう?
世界のため、人のために尽くして、生涯を捧げて。その結果、個人の願いを叶えられなくて。そして次の精霊としての人生でも、世界のために働かされる。
それって、ジンさんは幸せなのかな?
私が何も言葉を返せないでいると、シュートメさんが小さく笑う。その顔はやっぱり濃いけど、それ以上に優しかった。
「だからさ……アリガトね。ミツキと出会ってから、この子本当にイキイキとしているから。時たま暴走する時もあると思うけど、大目に見てあげてくれると助かるわ」
「私なんか、ぜんぜん……」
だから、私は萎縮する。そんな期待されても。多分、ぜんぜんジンさんの期待には応えられていないだろうから。だって思い返せるだけで……くれようとした花束を無視したり、ひどいこと言ったりしたような……。あれも、もしかして『憧れの生活』の一端だったのでは?
そんな私に、シュートメさんは手を伸ばそうとして――引っ込める。
「撫でたら、また坊やに怒られちゃうわね」
「私は全然嫌じゃなかったんですけどね」
ビックリはしたけど。嫌ではなかった。むしろ、ちょっと嬉しかった。あれは、そう――まるで親に褒められたみたいな、そんな感覚。
だから「また撫でて」なんて言えないけど。それこそ子供みたいだし。それにジンさんに嫌がられちゃうみたいだからね。
そんなごちゃごちゃの、だけど温かな感情を苦笑に漏らせば、
「あらあら、可愛いこと言っちゃって~」
シュートメさんもまんざらじゃなさそうに、私のグラスになみなみとジュースを注いでくれた。零れそうなそれを慌てて啜って、私はふと訊いてみる。
「そういや。この世界だと、何歳からお酒飲んでいいんですか?」
「ん~、特に年齢制限ないわねぇ。国ごとに推奨年齢は設けている所もあるけれど、罰則がある国はなかったと思うわぁ」
「じゃあ、私も飲んでいいんですね?」
こうなりゃ自棄だ、と十八歳の私も酒に溺れてみたくなる。一人シラフなのも寂しいし。
だけど、シュートメさんは首を横に振った。
「やめときなさい。酒なんて飲めない方がいいわよ」
「飲めない……? やっぱり私じゃ体質的に無理ですか?」
なんか言い方が微妙に変な気がするものの、まぁこっちは地球では急性アルコール中毒で死んだ身だ。やっぱり異世界に来てもダメなのかぁって肩を落とすも、シュートメさんは横目で私を見やり、ふっと口角を上げる。
「こんな醜態、晒さなくて済むじゃない」
視線の先は、あからさまに私を掴んで離さない私の旦那様。
未だに「俺の奥さん……」とむにゃむにゃ口走る緩い寝顔に、私とシュートメさんは今日一番の大声で笑った。
帰る前に、シュートメさんがジンさんを寝室まで運んでくれた。
スヤスヤと眠るジンさんがベッドで丸くなったと思いきや、シュートメさんがちょいちょいと手招きしてくる。
近づいてみれば、シュートメさんがベッドサイドの小棚を開けていた。
覗いてみれば、指輪のケースが二つ。問答無用で両方開くシュートメさんの手を止めることはできない。片方にはダイヤモンドのような輝く石が付いた指輪が一つ。もう一方には、特に飾りっ気のないシンプルな銀の指輪が大小二つ。
「豪勢な誕生日プレゼントね」
そうクスクス笑うシュートメさんに、私は何も返せなかった。お酒は飲んでいないのに、ただただ顔が熱い。私は見なかったことにして、指輪のケースを再び小棚にしまう。
そのうちの一つに、見覚えがあったから。花束を持ってジンさんが帰ってきたあの日、取り出そうとしていたのが、このダイヤの指輪だ。あの時から、ずっとお蔵入りしていたのだとしたら……。
「本当、坊やのサプライズはセンスないから。気になさんな」
シュートメさんに背中を叩かれたりして。
そして日付が変わろうとする前に、お見送りである。
「本当に片付け手伝わなくていいの?」
「大丈夫ですよ。グラスも明日他のと食洗機回せばいいだけですから」
と言っても、使った食器はグラスくらい。ゴミも食べたそばからシュートメさんがごみ袋に入れてってくれたから、本当にテーブルを拭くくらいだ。あまりの気配り上手に、もう頭が上がらない。
「そお? まぁ、気をつけなさいよ。何かあったら、すぐにアタシにも頼りなさい☆」
何を気をつければいいのかわからないけど――別れ際のウインクまで、シュートメさんは最高だった。
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