第9話 湖とおさんぽ




 そういえば、この三ヶ月。全く家から出なかった。


 不健康言うなかれ。リビングには大きな窓があるし、お布団干す時やヒイロくんとの日向ぼっこで、二階のバルコニーには出ている。


 まぁ、子供が一歳になるまでバルコニー以外に出してあげなかったのか、と問われたら言い訳に苦しいけど……本当なら生後三ヶ月だよ。まだ首もすわるかどうかってくらい。記憶を辿って従姉妹ちゃんの時と同じようにやっているつもりだけど、やっぱり色々難しいね。夜泣きもまだまだ終わらないし。あ、そもそもジンさんから外に出るな言われてたじゃん。これが一番の言い訳だ。私は悪くない。


 ともあれ、ヒイロくんもぼちぼち歩けるようになってきたので、お散歩である。とは言っても、行くのは当然、おうち周りの森林浴。


 私とジンさんは、それぞれヒイロくんの手を支える。その間で、ヒイロくんは小さなあんよを懸命に交互に動かしていた。コットンの帽子をかぶる小さな頭が左右に揺れている。私も珍しく麻のワンピースなんか着て、ジンさんも仕事に行く時ほどじゃないけど、頭に髪飾りを付けていた。


「いっちに、いっちに」


 緑々しい葉っぱが力強く枝から伸びていた。真っ青な空からは降り注ぐ日差しが、葉っぱの隙間からキラキラしている。初夏らしく、半袖でいても全身がじんわりと温かい。それでも空気が清々しく感じるのは、余計な雑踏がないせいだろう。聞こえる音は草はが揺れる音と、鳥の囀り、あとは私たちの足音くらい。


「いっちに、いっちに」


 柔らかな土の上を、ただ歩いているだけ。それでも、見下ろすヒイロくんの顔はとても得意げだ。そして、腰を屈めながら彼と手を繋ぐ美丈夫の表情がゆるい。


「ふっふっふっ。愛愛しいな」

「……そうですね」


 ねぇ、ジンさん。笑い方が、神様や精霊様どころか、どっかの魔王っぽいです。

 そう言ったら拗ねてしまいそうな気がするから、心の置くに秘めておく。私も人のこと言えないしね。


 そして、視界が開けた。あまりの眩しさに、私は思わず目を細める。それでも目に飛び込んでくるキラキラの水面に、私は感嘆の声を上げずにはいられない。


「わぁ、おっきな湖!」


 一応、かすかに対岸が見えるから海ではないとわかる。でも大きいなぁ。水が本当に澄んでいて、こんな綺麗な湖見たことがない。


 それに、テンションが上がったのは私だけでないようだ。


「うーっ!」


 私の手を振りほどいて、ヒイロくんが帽子を脱いだ。


「もう、せっかく大人しく被ってくれた――」


 と愚痴りながら拾っている間だった。とてとてとヒイロくんが進んでいく。危ない! そして案外速い! 行く先は、湖へ一直線。


「ヒイロくん、だめっ!」


 慌てて私が捕まえようとした所で、自らどてんと転んだ。


 ふぎゃあああああああああああ。


 ……まぁ、泣きますよね。痛かったね。でも、私的には湖に落ちなくて一安心だよ。


「まったく……」


 大きく肩を下ろして、私が抱っこしようとする前に――ジンさんがヒイロくんを持ち上げてくれた。顔を真っ赤にして、ヒックヒック。鼻まで土で汚れちゃってまぁ……ハンカチで拭いてあげようとしても、「やあああああああっ!」首をいやいや振られてしまう。


 困った……。この日差しだと帽子も被させたいんだけど、それどころじゃないな……。


 私が途方に暮れていると、ジンさんが「よし」と方向転換する。そして進んでいくのは――湖の方⁉


「ちょっ、ジンさん! どこに――」


 そして、ジンさんはひょいっと湖に飛び降りた。とっさに水しぶきに備えるも――音も何もせず。


「え?」

「きみも来るがいい」


 ヒイロくんを片手で抱っこしたジンさんが、私に手を差し出している。ジンさんが湖の上に。その足の下には、魚が何事もないかのようにすいすい泳いでいる。


「え?」


 もう一度疑問符を上げると、ジンさんがくつくつと笑った。


「大丈夫だ。落ちないから」

「ま、魔法……?」

「そうだ。水上を歩けるようにした。水中に落としてほしいならそうするが?」

「遠慮しますっ!」


 泳ぐのは嫌いじゃないけど、服のまま湖を泳ぐ趣味はない。


 水の上を歩く――そのファンタジーなお誘いに、私は生唾を呑み込んで。子供を抱っこした凛々しくも神々しい美丈夫が、優しい笑みで私に手を差し伸べてくれている。その誘惑に抗えない。


 私は「えいっ」と湖へ飛び出す。大きな腕と胸が、私を受け止めてくれた。



 腕の中はあたたかくて、たくましくて。不安がすべて掻き消された私は、ゆっくりと水面に足を着く。弾力のある感触だった。体育の時のマットの上を歩く感覚に似ているかな。地面よりは柔らかいけど、歩きづらくもない。その感想は、その場でぴょんぴょん飛び跳ねてみても変わらなかった。


 そんな私を見てか、ジンさんがくすくすと笑っている。


「そんなに楽しいか?」


 ……は。浮かれすぎましたか?


 急に我に返って、視線を下ろす。うわぁ、本当に足元に魚が泳いでいる。さすがファンタジー。深海でもないのに、魚が熱帯魚みたいにカラフルだ。


 思わずしゃがみこんで、触れるかなっと思って手を入れようとしてみると――わっ、水の中に手が入った⁉ すいーっと魚たちも慌てて逃げていく。水の中から手を抜くと、その手はしっかりと濡れていた。


 すごい! なんか、色々とすごいぞ!


「おぉ!」

「そんなに喜んでもらえて何よりだ」


 ジンさんも嬉しそうにしながら、ヒイロくんを下ろす。ずっとソワソワしていたヒイロくんが「わぁーっ」と走り出した。ついさっき歩けるようになったと思ったのに、本当に成長早いな。これも勇者……だからなのかなぁ?


 でも、すぐに転ぶ。水面が輪のように広がるけど、痛くないらしい。すぐさまヒイロくんは立ち上がって、また「わぁーっ」と走り出した。そして転ぶ。もしかして、わざと転んでる? まぁ、ここなら怪我しないだろうから、いいけどさ……。


 それでも、やっぱり心配だから。私が追いかけようとした時だった。


「幸せだな」


 一緒にそれを眺めていたジンさんから、ボソッと聞こえる。だけど私が振り返ると、ジンさんは口元を押さえて目を逸していた。


「いや……何でもない」


 澄み渡る青い空。その日差しを受けて白く輝く水面の上。肌はじりじり暑いけど、緑々しい木々が清涼感ある風を運んでくれる。


 その中で「幸せ」と呟いて恥ずかしそうにしている美丈夫と、全力で駆け回る幼い子供。


 その二人が私の家族であることに、私も同じ感想を抱いたけれど――


「えへへ」


 私も恥ずかしいから、笑い返すことしか出来なかった。




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