第6話 涙となまえ①
そして夕方。また予定よりも少し早く夫が帰ってきた。
今度はきちんとリビングに入ってきたようで――私は全裸に近い状態で対面する。赤ちゃんをお風呂に入れていたのだ。まだ一緒に入れないにしろ、私も濡れてしまうからと服を脱いでいた。でも、パンツは履いているし、肩からバスタオルは掛けている。
「…………」
「…………」
私は両手で赤ちゃんの脇を持っていた。小さなあんよからは水滴がぽたぽた。リビングがどんどん濡れていく。頭も濡れているから、ふわふわの金髪がペターっとしている。髪が異様に少なく見えるな。その情けない様子がまた可愛い。でも、早く拭いてあげないと。
「…………」
「…………」
うん、きちんとすぐそこにタオルは引いてあるんだよ。ジンさんのちょうど後ろ。洗面所は少し狭いからさ、広い所でやろうと思って。ちゃんとその隣に替えの洋服やオムツも準備済み。
「…………」
「…………」
私は生まれたての姿でジタバタする赤ちゃんを持ちながら、浅黒い肌に銀髪が映える美丈夫とにらめっこしていた。いやぁ、大きな身体が邪魔でね。今日は昨日よりもラフな格好に見える。だけど頭にターバンが巻かれているね。毎日毎日、おしゃれだなぁ。
さて、そろそろ我に帰りますか。
「おかえりなさい」
「あ、あぁ……ただいま……」
目をパチクリさせているジンさんに、私は淡々と告げる。
「昨日は失礼な態度すみませんでした。お花、ありがとうございます。ですが、正直花を楽しむ余裕もないので、今後は結構です。それより片手で食べられるお菓子とか、パン以外にもそのまま食べられるものが頂けると嬉しいです」
「菓子か……口を借りるぞ」
そして、ジンさんは何の躊躇いもなく私の横に移動し、顎を手にとった。そして唇を合わせてくる。今度は軽かった。あっという間に離れていく。
「ふむ。なるほど」
そして、指をぱっちん。テーブルの上に皿が出てくる。その上にはピラミッドのように積まれたスティック状のクッキー。
「この栄養補助効果の高い品で良かったか?」
「あ、すごく助かります」
そんな間にも、赤ちゃんはジタバタ。床にはぽたぽた。そして私の腕も限界だ。ちょうどジンさんも動いてくれた。
「失礼しますね」
私はジンさんの隣をスタスタ進んで、用意してあったタオルの上に赤ちゃんを置く。ごめんね、身体が冷えてきちゃったね。ふにふにと身体に付いた水滴を押さえて、急いでオムツを履かせようとした時だ。
「先に……きみが服を着てもらえないだろうか。目に毒だ……」
「え?」
振り返れば、ジンさんが私から目を逸していた。肌が黒いから若干わかりにくいけど、耳まで赤い。まぁ……夫婦とはいえ、あれですよね。いきなりこんな姿ははしたないですよね。
でも――ほぼ四徹に突入しようとしている母親に、そんな常識はどうでもいいんです。
「この子が風邪を引いてしまいますから」
「だが……うむ。わかった」
そして、ジンさんが再び指を鳴らす。すると一瞬で赤ちゃんは用意していたロンパースを着ていた。赤ちゃん自身、驚いたように真っ赤な目を見開いている。そのぽかんとした顔が可愛くて、私は苦笑しながら彼の両頬を押さえた。ぶにーっとほっぺが潰れて、口がほーっと尖る。あー癒やし。
ジンさんは顔を背けたまま言う。
「頼む」
「……わかりました。少しの間、この子をお願いしても?」
「あぁ。任されようっ!」
そこまで言うなら、仕方ないよね。でも、自分の服を用意するの忘れてたな。
私はタオルの上に赤ちゃんを置いて、二階の寝室に向かう。電気も点けたくなかった。暗い部屋の中で適当に部屋着を取り出して――どうしても目に入るのは、ふかふかそうなベッドだ。本来なら二人で寝るために用意されたダブルベッド。寝心地は物凄く良さそうで、思わず生唾を呑み込んでしまう。
「五分だけ……いいかな」
下から、赤ちゃんの泣き声な聞こえない。それに、抱っこすらしてくれないとはいえ、任されると言ってくれた大人がいる。いざとなれば、どうにかしてくれるよね?
私はベッドの魔力に勝てなかった。ドスンと身体を横たえる。
あぁ、幸せ……。ナイススプリング。気持ちいい……もう疲れた。本当に疲れたよ……。あぁ、この沈んでいく感覚が、とても……とても……。
私は瞼の重さに抗えなくて――…………。
ふぎゃああああああ。ふぎゃああああああ。
あ、赤ちゃんが泣いている……。そういや、あの子の名前ってあるのかな?
私は自嘲した。だって、そんな疑問、今更だから。そうか、そんな当たり前のことも考えてあげられないほど、切羽詰まってたのか。
上半身を起こすと、意外と身体が軽い。頭痛も消えていた。
部屋が思ったより明るい。それはドアを締め忘れた廊下から漏れてくる光だけではない。明るい窓を開ければ、お天道様が頭上でテラテラしていた。大きく息を吸えば、少し暖かい空気が胸を膨らませてくれる。桜の花びらはほぼすべて散ってしまっていた。代わりに木にを彩るのは緑々しい葉っぱ。その中でために一つだけ残る桜色があまりに健気で、私は頬を緩ませる。
――と、この間も赤ちゃんの泣き声が聞こえるわけで。
「やっば」
何時間寝てたんだろう? 少なくとも、昨晩の夕方からだから半日以上。
ダダダッと部屋を飛び出して、階段を駆け下りる。
「おーよちよち。いいこでちゅねー?」
…………でちゅね?
浅黒の大男が、小さな赤ちゃんを抱っこしていた。だけど、なんか抱き方に違和感がある。あれかな、両手で持っているとはいえ、身体から離れているのかな? 腕力だけで持っている的な。それでも懸命にホイホイ揺らして、べろべろば~と舌を出して。たかいたかーいしてみて。
それでも、赤ちゃんは一向に滑稽な顔を見ることなく、ふぎゃあああと泣き続けるのみ。
あーもう、イケメンが台無し。綺麗だった銀髪も乱れているし、布を巻いているような服も気崩れている。そんな些細な点を抜きにしても、とにかくあたふたしすぎて。
「……あはは」
私は思わず、お腹を抱えた。あー笑える。なんかもう、一生懸命な所を笑うなんて失礼だってことはわかっているけど……でも、涙が出てくるんだよ。涙が出るくらい、すごく嬉しい。何でだろうね。自分でもわからないや。
すると、ジンさんはようやく顔を上げた。
「起きたか! 体調はどうだ? よく眠れたか⁉」
ねぇ、ジンさん。お気遣いありがとうございます。でもね、『助かった』って嬉しそうなのが顔に出てますよ? そんな意地悪言いませんけど。
「はい、おかげさまで」
階段を下りきった私はテーブルの上の棒状クッキーをむしゃむしゃ。甘いは正義。
よし、頑張るか。
「ミルクはいつあげましたか? オムツは?」
「ミルクは一時間前。オムツも替えたばかりだ。なのに、なぜ其奴は泣き止まんのだ?」
「さぁ、なんででしょうねぇ?」
私は赤ちゃんを覗き込みながら、首を傾げる。あーあー、涙ぽろぽろ流しちゃって。鼻提灯がぷくーっと膨らんでるね。私は洗面所からガーゼを持ってきては、赤ちゃんの鼻を拭ってやる。鼻くそがにょーんと伸びだ。
「あ、そうそうジンさん。テッシュペーパーが欲しいです。できれば柔らかいやつ」
そうなんだよね。あるのが当たり前すぎて困ったんだけど、テイッシュがなかったんだよね。だからガーゼで代用していたんだけど、洗濯物は少ないに限る。
だからお願いしてみたんだけど、ジンさんから返事はない。
「ジンさん?」
私がジンさんを見やると、彼は金色の目をぱちくりさせながら固まっていた。目が合って、ようやく口が動き出す。
「なんでしょうねぇ……て、母親なのにわからないのか?」
「……わかるわけないでしょう。私、テレパシストじゃありませんよ」
「てれぱし――」
「まぁ、喋ってくれない相手のことなんか、わかりませんって。魔法も使えない普通の女子大生だったんですよ?」
しかも新入生。おまけに誤ってアルコール飲んで死んだ情けないオチ付きだ。
それなのに、ジンさんは信じられないと言った顔で言う。
「だが、母親だろう? 正確に言えば違うが、でもだからこそ似た魂の色を持つきみを――」
「いやあ、ムカつくを通り越して呆れちゃうんですけど……この世界じゃ、ふぎゃああって泣けば何でも思っていることが伝わる魔法があるんですか? そりゃあ便利で大変宜しいですけど、ご存知の通り私に特殊能力はありませんので。全部手当たり次第に思いつくことをやってみるだけですよ」
そんなことを話していると、赤ちゃんの目がこちらを向いた。手足をバタバタさせて……気のせいかな。こっちに手を伸ばしている気がする。
「代わりますね」
私はジンさんから赤ちゃんをもらう。ジンさんの腕と胸の間に下から手を入れて赤ちゃんを受け取れば、なるべく自分の胸に引き寄せた。いっぱい泣いたからか、熱いくらいに温かい。汗も掻いているね。落ち着いたら着替えさせてあげなくちゃ。
「どうしたのかなぁ? 何か欲しい物があるのかなぁ?」
ホイホイと、やることはジンさんと変わらない。揺らして。話しかけて。ミルクをあげて、オムツも替えたら、あと出来ることなんて抱っこしてあげることくらいしかないのだ。
「今日もいい天気だねぇ。桜はもう散っちゃったけど、来年はお花見できるといいねぇ」
適当に話しかけていると、だんだんと赤ちゃんの目が閉じていく。ふぎゃふぎゃとたまに声は漏らすけど、だんだんと私の腕の中で身体の緊張が溶けていくのがわかる。ふわぁっと大きな欠伸をした。
そっか。私がいなくなっちゃって悲しかったのかな? 戻ってきて安心した? そう自惚れてもいいのかな?
「まったくもー、しょうがないなぁ」
苦笑を漏らすと、赤ちゃんがゆっくり寝息を立て始める。お鼻が真っ赤じゃん。トナカイじゃないんだから。まったく。
それらを一緒に見ていたジンさんが、小声で話しかけてくる。
「ど、どうやったのだ?」
「……見ての通りですよ。抱っこしただけです」
「俺も散々抱っこしていたが?」
「お疲れ様でした」
私が労うも、ジンさんは納得のいかない様子。
「やはり、きみが母親だから――」
「いやあ、母親だからってより、ここ数日ずっと一緒だったからだと思いますよ? ジンさん完全に私任せで、全然お世話してなかったでしょう?」
まぁ『そのためにお前を呼んだんだ』と言われたら、それまでなんだけど。
だけど、ジンさんは怒る――というより、寂しそうな顔をしていた。
「俺は……失格だな」
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