第5話 花束とノイローゼ
誰が大丈夫だ……舐めてた……完全に本当の育児を舐めていた。
あれから二日経った。睡眠不足で頭が痛い。お腹空いた。あれぇ……最後トイレに行ったのはいつだっけ。
赤ちゃん。まじで寝なかった。日中夜問わず、お腹が空いたら泣き、おしりが気持ち悪ければ泣き、一人だったら泣き、眠かったら泣き。ベッドに置いたら抱っこしてろよと泣き。いや、眠いんなら寝ろよ。人間、寝る時はベッドや布団で寝るもんですよ。そうツッコんでも、返ってくるのはぎゃん泣きのみ。
ジンさんはミルクを指パッチン一つで作ってくれたけど、チート能力のない私はそうはいかない。お湯を沸かして、ミルク粉を測って哺乳瓶に入れて、乳首等装着して、流水で冷やして。その間も、片手にぎゃん泣き赤ちゃん。当然、哺乳瓶を倒してしまうこともしばしば。赤ちゃんが火傷しないかどうかヒヤヒヤ。
私の火傷? はは、おかげで目が覚めたよちくしょー。
そうして頑張って作っても、ミルク飲んでくれなかったりするから余計にこんちくしょうだ。泣いている原因が毎度わかればいいよ。わっかんね。本当、ミルクオムツ一通り試しても泣いている時はどうすりゃいい。私が泣きたい。
「よし……」
ようやく一段落して、寝る赤ちゃんをベビーベッドに置くことに成功した。私は暗い部屋をそ~っと出る。そ~っとドアを締める。成功した安堵で、その場に座り込む。
「つっかれたああああああああ」
あくまで出すのは小さい声。それでも腹の底まで溜まった疲労を吐き出す。
さて、ようやく出来た自由時間に何しよう?
ご飯? 自分のお風呂? それとも睡眠? あ、でもとりあえずトイレに行くべきかな。
生きるためにやらなきゃならないことはたくさんある。キッチンを見上げれば、使いっぱなしの食器や哺乳瓶が山になっていた。あぁ、食洗機回さなきゃ。哺乳瓶の替え、さっきのが最後だったな。洗濯機の乾燥も終わっていた気がする。たとえ全自動で洗ってくれても、入れたり取り出したりしまったりするのは、私の仕事だ。
そういや、この部屋着、着替えたのいつだっけ? 確かにゆるくてシンプルでいいんだけどね。でも、やっぱり本当はジャージがいい。あんな化学繊維はさすがにないんだろうけど。またチューしたら出してくれるのかな。でも、チューか。チューか……。
ぼんやり視線を動かせば、もう窓の外が真っ暗だね。
「あったかいもの、食べたいなぁ」
だけど、いくらハイテクなお家を用意してもらっても、さすがにカップ麺みたいなインスタントはない。冷蔵庫に野菜やお肉はたくさん入っていたけれど、料理する元気はなかった。置いてあったフランスパンっぽい固いパンも、そろそろ底が尽きる。
「寝るか」
なんかもう面倒臭くなった。寝よう。とりあえず寝よう。重い身体で、辛うじてリビングのソファに移動する。ずるずると座り込む。あぁ、革張りソファに身が沈む。もう二度と立ち上がりたくない。このまま溶けてしまいたい。
「あー」
確か、明日ジンさん帰ってくるんだっけ? 少しはラクになるかなぁ? でもあの人、赤ちゃん抱っこしてくれないんだよなぁ。何してもらおう……てか、何が出来るんだろう? あったかいご飯を指パッチンで出してくれたりしないかな。でも、どうせゆっくり食べる暇もないんだろうなぁ。
うつ~ろうつろの、一番気持ち良い時間。でも本当、叔母さんも大変だったんだなぁ。そういえば、従姉妹ちゃんが本当に小さい時は何ヶ月も家にいたもんね。私が面倒みていたと言っても、その頃は夕方に学校から帰ってきて、夜お風呂に入るまでの数時間。その間も、そういや叔母さんはご飯作ったり忙しなく動いていた気がする。叔父さんはずっと帰りが遅かったし、休日も出張やら接待やらであまり家にいなかったと思う。私が寝ていた間も、当然赤ちゃんの世話は叔母さんがしていたんだろう。
「はは、そりゃあ……勝てるわけないよ……」
少し大きくなってからも、何かあればすぐに「ママ」を呼ぶ従姉妹ちゃん。今もかな。これだけ身を粉にして世話されたら、そりゃあ一番になるわ。一番になれなきゃ、それこそ拗ねるわ。私はたった二日で限界来ているっていうのになぁ……。
でも、とりあえずいいや。寝る。私は寝る。あの赤ちゃんの一番になれるかなぁ、なんてことは考えない。とりあえず寝るんだ。
目を閉じて、この世をシャットダウンしようとした時。
カランカランとベルのような音がして、ガタガタと玄関から物音がする。
「うるさいなぁ」
赤ちゃんが起きちゃったらどうしてくれるのさ――てか、誰だ? ジンさんが帰ってくるのは明日のはず。そして、玄関の鍵はジンさんしか開けられないようなことを言っていた……と思う。
「え?」
え、誰? 強盗? それとも異世界だから盗賊? でも、玄関から入ってくる気配はない。
私はおそーるおそる、玄関に向かう。角からこっそり首だけ覗かせると――浅黒の見覚えのある美丈夫が待っていた。私を見て、ぱっと顔を華やぐ。
「帰ったぞ。予定よりも早く帰って来た。飯はあるか?」
「は?」
ジンさんだ。一応、この家の大黒柱ってことになるであろうイケメンだ。しかも、なぜか薔薇の花束を持っている。なんだ、この花。なんで花?
なんか服の装飾品が増えている気がする。頭にもキラキラする飾りを付けていた。神様に会うからには、それなりの衣装が必要なのかな。サラリーマンのスーツみたいな。仮にそうだとしても、ド派手だな。どこの王様だ?
そんで――そんな尊大な旦那様はなんて言った?
「今、なんておっしゃいましたか?」
改めて私が尋ねれば、ジンさんの肩がビクッて跳ねた。私がじーっと睨んでいると、ジンさんは私に近づいてくる。差し出してきたのは、例の花束だ。
「あの……気にしないでくれ。それよりも……良ければ、これ……」
あ、私へのプレゼントですか。薔薇の花束……この二日間、お風呂もまともに入れず、仮眠すらろくに取れず、固いパンを齧って飢えを凌いでいた相手に、薔薇の花束? は? それを食べろと? くつくつ煮込んでスープにしろと? 私が? は?
私の中で、何かがはち切れた。
「はあああああああああああああああ?」
ふぎゃああああ。ふぎゃああああああああ。
あ、赤ちゃんが起きた。行かなくちゃ。私は目の前の邪魔な赤いやつを手ではねのける。
ドサッと床に赤い花束が落ちた。花びらが数枚離れた場所に舞う。なにかがカランと落ちた。なにあれ、ダイヤの指輪……? でも、今はそれどころじゃない。
「赤ちゃんが起きたので、行きますね。お風呂もご飯もなんっっっにも用意していませんが、大人ならどうぞご勝手に。指ぱっちんで何でも出来るんでしょ?」
「あ、あぁ……」
私はすぐに踵を返したから、ジンさんがどんな顔をしていたかなんて知らない。
翌朝。窓から爽やかな日差しが差し込んでいた。だけど私にとっては目がチカチカ。頭痛が増すだけ。だってようやく赤ちゃんが落ち着いてまた寝てくれたんだ。リビングに出ながら、私は腕を揉む。これ、元の世界だったら湿布貼ってるレベルだよ……。
そんな荒んだ私の目に、前日までなかったものが飛び込んできた。
ダイニングテーブルの上に、大きなバスケット。そして菜の花のような黄色い花とカスミソウが無造作に活けられた花瓶。また長さのバランスとか、センスのないこと……。
バスケットからは、フランスパンらしき長いパンがはみ出している。それにはレースの大きなハンカチが被せられていて。その上にメモが置いてある。黄ばんだ紙質は……羊皮紙ってやつかもしれない。実物見るのは初めてだ。
それには、やたら達筆な字でこう書いてある。
『仕事が立て込んでいてすまない。また出掛けてくる。夜には戻る。夫より』
「ふーん……」
つまり、このパンでまた一日食い繋げってことか。あ、乾いたお肉も入ってる。ハムとは違うけど……これってそのまま食べられるのかな?
「でも、お腹壊している暇はないしなぁ」
料理する元気もないし、冒険する暇もない。
私は安定のフランスパンに齧りつきながら、玄関に向かう。薔薇の花束はなかった。ただ、一枚だけ。赤い花びらが隅に落ちている。掃除したような跡があるが、仕事が粗いのだろう。
私はその花びらを拾って、目を細めた。
昨日の態度は、さすがに悪かったかな。薔薇が嫌いと思われて、それで菜の花積んできた……とか? バスケットも、昨日帰ってきた時は持っていなかったはず。仕事に行く前に、どこかで買ってきてくれたのか。はたまた指ぱっちんで出したのか。
「まさか、ね」
罪悪感を、あえて気付かないように吐き捨てる。
だって、頭がガンガン痛いから。これ以上頭痛の種が増えても、耐えられそうにない。
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