第3話 接吻とオムツ②
自分の口の中に、他者の舌が滑り込む。
その異物感と蠱惑的な刺激に、私は慌てて歯を噛み締めた。
「…………痛いな」
顔を離してくれたジンさんが、小さく不服を漏らす。それに、私はハァハァと胸を押さえることしかできない。何した? 一体いきなり何された⁉
「なんで、いきなり、初めて、ちゅー……」
辛うじて言葉を紡げば、ジンさんは「あぁ、驚かせたか」と私の唇を手で拭う。ジンさん自身の唇は赤い舌で舐め取られていた。
「案ずるな。成果はあったぞ」
はあ? 何の成果よ……?
未だ顔の火照りが収まらない私をよそに、ジンさんは指をぱっちん。
すると、どうでしょう。どこからともなくジンさんの手に哺乳瓶があるじゃありませんか。ジンさんが持てば、本当に玩具のような小さい哺乳瓶。だけど、中にはちゃんと淡黄色のミルクが入っている。渡されて触れれば、体温と同じくらいのほんのり温かい温度。
「所望していたのはこれであろう? 問題ないか?」
「あ、え、えーと……大丈夫、かと……」
この間も、赤ちゃんは絶えずぎゃん泣きを続けている。そうだよね、お腹空いてるんだもんね。遅くなってごめんね。私の初チュー問題なんてあとあと。母親やるって決めたんだもん。私のことは全部あと回しだ。
「ごめんね。今ミルクあげるからねぇ」
私はまた地面に座り込み、足と腕で赤ちゃんを固定してからミルクを咥えさせた。良かった、哺乳瓶の口を嫌がらないみたい。ちゅっちゅちゅっちゅと吸いながら、一生懸命ごくごく喉を動かしている。顔の横で握られた両手が可愛らしい。おくるみの端から飛び出した足先が丸まっていたが、次第に力が抜けていく。
風が吹き、桜の花びらがひらひら舞い落ちる。赤ちゃんの産毛のような柔らかい髪の上に落ちたそれを、私がそっと退けた時。哺乳瓶の中が空になった。それでも必死にちゅぱちゅぱ続けるから、空気の音でしゅーしゅーしている。
「いっぺんに飲むと吐いて苦しくなるからねぇ。またあとで飲もうねぇ」
私は赤ちゃんの口の両端をむにっと摘みながら、哺乳瓶を取り外す。ちゅぽっ。三角のぷっくりした唇の可愛いことよ。私はよっと赤ちゃんを持ち上げて、肩に赤ちゃんの顔を乗せた。少し胸を張りながら、赤ちゃんの背中をとんとん。げぷっとゲップをした声のあまりの生々しさに、私は思わず苦笑した。うん、こんなちっちゃいクセに、いっちょまえの人間だ。
そして、赤ちゃんを元の体勢に戻す。私をじっと見ているのかな?
「こんにちは。今日からあなたのママになりました。宜しくね」
話しかけても、何も反応はない。ぱち、ぱち、とたまに瞬きして。またゆっくりと目を閉じていく。口を三角に開きながら、また寝息を立て始めた。たまに、ぐごっといびきをかく。
あれ、げっぷが足りなかったかな?
吐かないか様子を見ていると、ようやく隣で影を作っていただけの美丈夫が話しかけてくる。
「そ、そんなに寝て、其奴はどこか具合が悪いのではないか?」
「んー、生まれたての赤ちゃんなんてそんなもんじゃないですかねぇ。食う。寝る。泣く。オムツ。寝る。泣く。食う……の繰り返しだったかと」
「そ、そうなのか。それならいいんだが……」
浅黒の美丈夫があからさまにあたふたしている。おどおどと言葉を紡ぐ肉厚な唇に目が行きそうになって、私はばっと目を背けた。
変なことを考える暇はないぞ、私! 余計なことは全部あとだ。あと。
とりあえず赤ちゃんをずっと抱っこしっぱないしも辛いからね。業務的に対応しよう、そうしよう。ひとまず生活基盤を確認しないと。
「そういうわけで、このまま裸だと心許ないので、オムツや洋服はどこに? そもそも、私たちはどこで暮せばいいんですか?」
「オムツとは何だ?」
「……赤ちゃんの糞尿が垂れ流しにならないように、おしりにはめる道具?」
ん? オムツの概念がない?
とりあえずそれっぽい感じで説明してみたけど、ジンさんの反応は晴れない。
「垂れ流しで問題あるのか?」
あるに決まってるでしょおおおおおおおおおおお!
動物か⁉ まぁ人類も動物の一種ではあるんだけど、文明開化を頑張ってきたんじゃなかったのか? 過去の偉人が花開かせた文化を頼むから私にもあやからせてくれ!
――などと、全力で叫びたいけど、私は成長する。グッと堪えた。また赤ちゃん起きちゃうからね。我慢したよ。偉いでしょ。誰か褒めて。
私はゆっくり息を吐いてから、顔を上げた。
「もしかして、この世界にオムツないんですか?」
「いや、どうだったか……俺もいきなり赤子を育てろ言われたからな……だが、必要なら用意しよう。オムツとはどんなものなんだ? ふんどしのような……清潔な長布でも用意すればいいのか?」
――もしや、お兄さんの服の下ってふんどしなの⁉
些細な発言にちょっと思考がファンタジーに飛びそうになるものの、これまた私は我慢。
「え、布オムツは勘弁してくださいよ。毎回洗うの大変じゃないですか」
とっさに文句言ったけど、もしかしてやっぱり異世界に『最長十二時間漏れない』みたいな紙オムツはない……? うわぁ、困ったなぁ。布オムツのやり方とか知らないぞ?
どうしようて……そう考えていると、ジンさんが屈んでくる。
「よし、では接吻だ」
そして当たり前のように私の顎を取って、顔を近づけてきて――
「待て待て待て待てちょっと待って⁉」
顔をぶんぶん全力で拒否ると、ジンさんの顔がムッとした。
「何が不満だ? きちんと宣言したではないか」
「不満にきまってるでしょうがっ‼ さっきは初回だから犬に食われたと思ってスルーしてみたけど、何勝手にキスしてくれてるんですか⁉」
「だから今回は事前に言ったであろう。ほら、口を貸せ」
「そういう訳じゃ――」
その時、足にじんわりとしたものが広がる。見下ろせば、パステルカラーのスカートの色が濃くなっている部分があった。そして独特のアンモニア臭。うん、あんまり臭いっわけじゃないんだけどね。赤ちゃんだし。でもそういうもんじゃないよね。
「間に合わなかった……」
ぶるぶるっと赤ちゃんが震えて、また気持ちよさそうに寝息を立て始める。そうか、おしっこ気持ちよかったか……。ミルクいっぱい飲んだもんね。飲んだら出すよね。うんちじゃなくてこっちも良かったよこんちくしょー。
私がため息吐いていると、ジンさんが言う。
「……汝の求めるものを用意してやりたいのは山々なのだが、我には汝のような知識がない。ゆえに、汝の記憶を探って先程のミルクとやらも生成した」
「へぇ?」
なにやら語りだしたので、投げやりに相槌を打つ。だけどジンさんの顔は真剣だった。
「うむ。だが記憶を探るにも条件があってだな。探っている間は汝に触れていなければならん。接触深度が深ければ深いほど、短時間で済む。汝が眠っている間にゆっくり記憶を探っていたのだが、足りない情報が多いことが発覚した」
なんじゃい接触深度って。
だけど何となーく、言いたいことがわからないわけでもない。
「……つまり、手を握るとかだと情報共有に時間がかかるから、キスしたと?」
「そういうことだ」
「それならそうと言ってください」
まぁ、言われたからと言ってキスに抵抗ないわけじゃないんだけど。……初めてだったし。
え、でも、なに? じゃあこれから何か欲しい物があるたびにチュッチュしなきゃいけないの?
私の目が泳いでいたのか、ジンさんが訊いてくる。
「我らは夫婦であるがゆえ問題ないと思ったのだが……嫌か?」
いやぁ、そりゃあ夫婦ってことになったらしいですけども。それに、こんな美丈夫相手で嫌がれるほど大それたスペック、私にはありませんけども。
でも出会ったばかりだし、破廉恥な女だって思われるのは遺憾だし。
おそーるおそるジンさんを見ると……眉間にしわが出来ていた。真顔がすごく威圧的で図体がデカイ分、すごく求心的に見える。金色の瞳がどことなく丸い。透き通るような銀髪が儚すぎる。やめて、その罪悪感を抉るわんちゃんのような可愛い顔やめて……。
「そういう事情なら……どうぞ……?」
「そうか。理解のほど感謝する」
私が許可すると、ジンさんは容赦なく唇を重ねてきた。
えええい、ままよ! だけど……その舌を入れてくるのは腰がムズムズする……。
私がしばらくグッと耐えていると、ぷふぁっとジンさんの顔が離れた。そしてジンさんは即座にパチンと指を鳴らす。すると、赤ちゃんのおしりの当たりがふっくらした。おくるみから水色の洋服に着替えている。おお、偉い。ちゃんと上下繋がってるロンパースじゃん。ぱちぱちボタンを外して覗くと、ちゃんと見覚えのある紙オムツを履いている。
そして私の濡れたスカートも変わっていた。厚手の麻のスカート。デザインや色はレトロだけど、腰についた大きなリボンが可愛い。
ジンさんが「ふむ」と頷く。
「こんな感じで大丈夫か? 汝の格好は少々こちらの世界のテイストに合わさせてもらった。不満なら家の中では好みに沿うようなものを用意するが、外に出る時は俺の用意するものを着てもらえると助かる」
「あ、はい。ありがとうございます。では、家では動きやすいようゆるいズボンを用意してくれると嬉しいです。ジャージってわかりますかね?」
「……もう少し、口調をラクにしてもいいのだぞ?」
「え?」
いきなり言われた苦言に私が目を丸くすると、ジンさんは顔を逸らす。
「……我らは夫婦だ」
やけに『夫婦』にこだわるなぁ……て思わないでもないんだけど。
それならそうと、私にも言いたいことがある。
「では、その『我』とか『汝』って呼び方も変えてもらえませんか?」
「不満か? 高尚で精霊らしいと思っていたのだが」
「夫婦に高尚さはいりません。すごく話しづらいです」
すると、ジンさんは素直に頷いた。
「わかった。尽力しよう――家はこっちだ」
そして、先に歩きだす。あーもう、一歩一歩が大きい!
桜舞う桃色の森の中、正直足場がいいわけじゃない。だから転ばないように大きな背中を追う。私が転んだら、赤ちゃんも一大事だからね。
そんな必死な私のことなんか知ったこっちゃないって様子でジンさんは進んでいく。
「もうっ」
だけど多分、悪い人じゃないんだろうな。真顔が怖いけど。けど表情がコロコロ変わる。生真面目で、変な人。
私は赤ちゃんを抱き直して、そんな旦那様に懸命についていく。
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