第二章
ものすごい土と草の香りで、わたしは目を覚ました。
……ん? 目を覚ました? そもそもわたし、寝てたんだっけ……? なんだか、まだ頭が上手く働いてないみたいだ。
何度か瞬きを繰り返す。視界に映るのは空だった。抜けるような青空だ。
ああ、いい天気……もう少し、このまま寝ていたい……
…………って、寝てる場合じゃないよ!
ようやく意識がはっきりとしたわたしは、勢いよく上体を起こした。それから、周囲をぐるりと見回す。
「ここ、どこ……?」
わたしがいるのは、緑が生い茂る森のような場所だった。
「なんでいきなり森?」
さっきまで、わたしは黒い不思議な空間にいたはず。それで、屋敷が急に強く光り出して……その光に呑み込まれて――気がついたらこうだ。たぶん、意識を失っていたと思うんだけど……
「そうだ、屋敷は……」
あった。わたしの背後に、屋敷はちゃんと存在していた。鬱蒼とした森の中に、瀟洒なお屋敷が「どん」と建っている、不思議な光景だ。
屋敷があるということは、ここは間違いなくインバーテッド家で……
「あ」
はた、とわたしは重大事に気がつく。
「クロウとシャルティアさん!」
一緒にいた吸血鬼兄弟たち。二人はどこに?
「も、もしかして……」
わたしは最悪の事態を想像して、血の気が引くのを感じた。
あのとき、屋敷が放ったのは光属性の魔力だったと思う。しかもかなり強力なやつ。
まさか、強い光の魔力に呑み込まれた二人は消滅しちゃったりとか……だけどクロウは吸血鬼でも、真祖じゃなくて純血種だから光属性の魔力は平気だって言ってたっけ……弟のシャルティアさんも同じはずだよね、きっと。
わたしは辺りを見渡して、二人の姿を求める。すると――
ガサガサと、近くの茂みで音がした。
「クロウ様? シャルティア様?」
わたしは、音がした方を振り向く。
「……………………え?」
そこには――茂みの中から頭だけ出して、こちらを見つめる存在がいた。
残念ながら、クロウでもシャルティアさんでもない。
一言で表すなら――鳥だった。
モフモフと柔らかそうな、ふくよかな顔。つぶらな瞳にシャープな嘴。茂みから出ている頭部からして、たぶん、すごく大きな鳥だ。
わたしはゴクリと喉を鳴らした。
可愛い顔をしてるけど、襲われたらどうしよう。
巨鳥と見つめ合ったまま、ゆっくり後退る。
「ヒポポー」
「ひっ……」
巨鳥が鳴いた。なんだか変わった鳴き声だ。
後退るわたしを追いかけるように、巨鳥が茂みから抜け出してくる。
想像していた通り、やっぱり大きい。というか……なんか、ふくよか。
「ヒポヒポ」
鳴きながら、巨鳥がこちらに近づいてくる。
よく見ると、普通の鳥とはまるで違う姿をしている。いや、大きさの時点でもう普通じゃないんだけど、もっと根本的にだ。
立派な翼のある猛禽類っぽい上半身に、下半身は馬のように見えた。
「……あれ?」
さらによく見ると、巨鳥の背に人影が……
「……って、クロウ様!?」
巨鳥の背に跨がっているのは、クロウだった。無事……なのかな? ここからじゃよくわからない。ただ、意識はないみたいだ。
なんで巨鳥がクロウを……まさか、エサにするつもりとか? シャルティアさんが見当たらないけど、もう食べられちゃったり……そして、次はわたしも――
「……逃げなきゃ」
わたしは呟く。いや、でも待って。クロウを置いてはいけないよね。なんとかして助けないとだけど……ああもう、なにか戦闘向きの魔法が使えたらよかったのに。
『ルベーリア』は魔法の才能がイマイチだった。しかも戦闘に使えるような魔法も、なにも習得していない設定だったはず。
「ヒポポー」
巨鳥が地面を踏みながら、わたしに近づいてくる。
情けないけど、わたしは足が竦んで動けなくなってしまった。
「ヒポヒポ」
巨鳥が、わたしのすぐ目前までやってくる。
「ヒーポー」
怯えるわたしに、巨鳥が顔を寄せてきた。
そして――
「ヒッポヒポヒポ」
「え……?」
巨鳥がわたしの頬に、頭をぐりぐりと押しつけてくる。
「ヒポヒポヒポポ~……」
「ぐええ……な、なになに、なんなの?」
甘えたような声音で鳴きながら、巨鳥はぐりぐりをやめない。
でもなんか、わたしを食べる気はないみたい……?
わたしはおそるおそる巨鳥の頭部に触れる。
「うわ……すっごいモフモフ……」
なんとも幸せな感触。この世界で記憶を取り戻してから、初めての癒しだよ。
「はぁ~モフモフ~」
「ヒポポ~」
わたしは巨鳥の頭を撫でる。
「……はっ、和んでる場合じゃなかった」
襲ってくるような気配もないし、つい。
「ヒポ?」
巨鳥が不思議そうに頭を傾ける。
「えっと……貴方は、わたしたちを食べたりしない?」
問いかけといてなんだけど、この子が人の言葉を理解できるかわからないよね。
あ、そういえば……さっきは思い出せなかったけど、『サント・ブランシュ』には、動物と会話できる魔法もあった気がする。
しかも、その魔法……他でもない『ルベーリア』が使っていたような?
なんのシーンだったか覚えてないけど、その魔法を使って『ルベーリア』が主人公に蛇かなにかをけしかけようとするみたいな展開があった。
わたしは『ルベーリア』の記憶から、魔法の使い方を知ろうと試みる。
記憶は簡単に思い出すことができた。上手くできるかどうかわからないけど……やってみよう。
わたしは意識を集中して、呪文を口にした
「トッブウド・イタリベーシャ」
……うん、たぶん上手くいったと思う。会話できるかどうか試してみないと、わからないけど。
「こほん」
なんとなく、わざとらしい咳払いを一つ。わたしは再度、巨鳥に語りかける。
「ねえ鳥さん、わたしの言葉がわかる?」
すると、巨鳥は何度か目を瞬かせた。
「わあ……おねえさん、ぼくとおはなしできるの?」
やった! 成功だ!
巨鳥が発しているのは変わらず「ヒポポ」とか「ヒポヒポ」とかって声だけど、わたしには意味がちゃんと理解できる。
「鳥さん、貴方はわたしたちを食べる気……じゃないよね?」
「ええ? そんなふうにおもってたの? こわがらせてごめんよ……」
巨鳥……鳥さんが、悲しげな声を出す。
「よかった……わたしこそ、怖がったりしてごめんなさい」
「ううん、いいんだ。しょうがないよね」
「ところで……鳥さんは、どうしてクロウ様を背に?」
「ぼくは、きみたちをもりのそとまではこぼうとしていたんだ」
森の外……?
「あの、鳥さん」
「どうしたの?」
「森の外にも、世界があるの? 町とか……」
わたしの質問に、鳥さんは瞳をぱちくりさせる。
「あるにきまってるじゃないか。おかしなことをきくなあ」
鳥さんが笑う。
森の外に、世界がある。つまり、わたしたちは封印された屋敷から解放されたんだ。
でも……屋敷の周りは、こんな鬱蒼とした森じゃなかったはずなんだけど……
「きみたち、まいごなんでしょ?」
「え?」
「もりのなかでまいごになって、こんなところでねてたんじゃないの?」
「えぇっと……」
どうしよう。なんて説明したものかな。
「だめだよ、こんなばしょでねちゃ。ここはきけんなんだから」
「危険?」
「うん、ほら」
鳥さんが、わたしの背後を指……じゃなくて翼を向けて示す。そこにあるのは、インバーテッド家の屋敷だ。どういうことだろう?
「あのやしきには、こわいきゅうけつきがねむっているってでんせつがあるんだ。だからちかづいちゃいけないっていわれてる」
……その怖い吸血鬼を今、貴方は背に乗せています。
でも、なんだろう。鳥さんの言い回しに、微かな違和感を覚えたような……
「ほら、ぼくについてきて。もりのそとまであんないするから」
「ま、待って!」
歩き出そうとする鳥さんを、わたしは呼び止めた。
勝手に屋敷の近くを離れたりしたら、クロウに怒られそう。
それに、まだシャルティアさんの無事を確認できてない。
「鳥さん、この辺りにもう一人、倒れてなかった?」
「……あぁ、そういえばいたような」
「本当? どこに?」
「たしか、そのあたりのくさむらにまだころがってるはずだよ」
わたしは近くの草を掻き分けて、シャルティアさんを探す。求めている姿は、すぐに見つかった。わたしがいた場所から少し離れた所の草むらに、シャルティアさんは俯せで倒れていた。
「シャルティア様、大丈夫ですか?」
屈み込んで、シャルティアさんの肩に手を置く。
すると、シャルティアさんは微かに身じろいだ。
生きてるみたいで、ひとまずは安心。
「シャルティアさまー」
「う……」
さらに呼びかけてみると、反応が返ってくる。
シャルティアさんは頭を動かして、わたしに顔を向けた。
「……ルベーリアさん」
わたしの姿を確認したシャルティアさんが、ゆっくりと口を開く。
「ここは……私は、私たちはいったい……?」
「実はですね……」
状況を説明しようとすると、シャルティアさんはいきなり勢いよく立ち上がった。
「兄さんは!?」
シャルティアさんが慌てたような声音でそう発する。
「落ち着いてください。クロウ様も無事ですから。ほら、そこにいます」
わたしは鳥さんの背に乗せられたクロウを指し示す。
「……ルベーリアさん」
「はい?」
「あの……鳥は?」
「それがですね、いきなり茂みから現れたんですよ。でも、わたしたちを襲ったりするつもりはないみたいで……って、シャルティアさん?」
わたしが説明していると、シャルティアさんはフラフラと鳥さんの方へ近づいていく。
クロウの様子をたしかめたいのかな?
そう思っていると、シャルティアさんは鳥さんの前で足を止めた。
「なんて……なんて愛らしい……」
シャルティアさんが小声でそう囁く。
え? 今なんて?
「あの、シャルティアさん?」
「……はっ、あぁ……いや、兄さんは大丈夫のようですね」
いや、それで誤魔化されませんよ。
「今、『愛らしい』って言いましたよね?」
わたしの追求に、シャルティアさんは「うっ」と言葉を詰まらせる。
が、それも一瞬。シャルティアさんはすぐに平静を取り戻したようで、にこやかな顔をわたしに向けると一言。
「言ってません」
「……えぇ」
シャルティアさんは、きっぱりと言ってのける。
いやいやいや、絶対に「愛らしい」と口にしていたよね。
「きっと、ルベーリアさんの聞き間違いかなにかでしょう」
爽やかな笑顔で、シャルティアさんが告げる。
なんか静かな「圧」を感じるよ。これ以上、追求するのは怖い気がしてきた。
「……お前ら、なにを騒いでいる」
ふと、不機嫌な声が鳥さんの背から聞こえてくる。
ようやくクロウが目を覚ましたみたい。
「……どういう状況だ、これは」
自分が置かれている状況に、クロウは困惑気味に呻いた。
「なんで俺は、ヒポグリフの背に乗せられているんだ?」
ヒポグリフ? それが鳥さんの名前……というか、種名なのかな。どこかで聞いたような名前だ……なんて思っている間に、クロウが鳥さんの背から下りる。
「しかし……随分と丸いヒポグリフだな」
クロウが鳥さんの頭に軽く触れながら、薄っすらと笑みを浮かべた。
「む、なんだかばかにされてる?」
鳥さんが不機嫌そうな声で鳴く。
「さて。シャル、ルビィ、説明しろ」
「すみません、兄さん。私も目を覚ましたばかりで、よくわかっていなくて……」
そこでシャルティアさんが、わたしに視線を向けてきた。わたしに話して欲しいという意味だろう。
「わたしも、あんまり把握してないんですけど……」
とりあえず、ここまでの経緯をクロウとシャルティアさんに聞かせる。
わたしが話し終えると、二人はそれぞれ、なにやら考え込み出してしまった。
「ねえ、おねえさん」
「うん?」
手持ちぶさたなわたしに、鳥さんが近寄ってくる。
「さっきのおはなし……もしかしておねえさんたち、あのおやしきにすんでるの?」
そっか。会話の内容から、そう結びつけてもおかしくないよね。
「うん。あ、わたしは違うけど、あの二人はそうだよ
「じゃあ、もしかして……あのふたりがでんせつのこわいきゅうけつき?」
「え、あー……」
うーん、なんて答えたものかな。
返答に困ったわたしは、なんとなくクロウとシャルティアさんの様子をうかがう。
「シャル、お前はこの状況をどう見る?」
「そうですね……考えられる可能性は二つ……いえ、三つかと」
「ほう、俺も同じだ。詳しく話し合いたいが……ここでは落ち着かんな」
「では、ひとまず屋敷に戻ってみましょう」
シャルティアさんの提案に、クロウが頷く。
「おいルビィ、いつまでもヒポグリフと戯れていないで行くぞ」
「は、はい!」
わたしたちは、屋敷へ戻ることになった。
◆
謎の森から屋敷に戻ってきたわたしたちは、二階のサロンで腰を落ち着けた。
今度は屋敷に入れなくなってたりしたらどうしようかと少し不安だったけど、杞憂だったみたいだ。
「さて、現状について話し合っていきたいと思うのだが……」
わたしの正面に座るクロウが、口を開く。が、わたしの背後に視線を向けて言葉を止めた。
「……ルビィ」
「なんでしょう?」
「どうして、そいつまでここにいる?」
「ヒポポ」
そいつ、とは鳥さんのことだ。
なぜか一緒についてきてしまった。
今さら言及するなら、屋敷に入る前に止めればいいのにと思わなくもない。
「わたしに訊かれても……ねえ鳥さん、なんでついてきちゃったの?」
「いやあ……ぼく、まえからこのやしきにはいってみたかったんだ」
「……そうなの」
好奇心旺盛な鳥さんなのかな。
わたしはクロウに鳥さんの言葉を伝える。
「だ、そうです」
「……今更だがルビィ、ヒポグリフと会話できるのか?」
「え? あ、はい」
「生まれつきか?」
「いいえ、魔法です。トッブウド・イタリベーシャの魔法を使いました」
なぜかクロウとシャルティアさんが顔を見合わせる。なんだろう。
「いいか、ルビィ」
クロウが、わたしに向き直る。
「な、なんでしょう?」
「トッブウド・イタリベーシャは、あくまで『動物』と会話できるようになる魔法だ」
「え? はい。わかってますけど……」
だから鳥さんと話せるようになったんだし。
「ヒポグリフは動物じゃない」
「……はい?」
わたしは盛大に首を傾げる。
「ヒポグリフは大別すれば、魔物に属する存在だ。だから、トッブウド・イタリベーシャで会話できるようにはならないはずなんだよ」
「じゃあ、どうして会話できてるんですか?」
「それは俺が知りたい」
いや、わたしも知りたいんですけど。
「とはいえ、仮説なら立てられるが。本来、人間が魔物と意思疎通を図ることはない。だから、そういった魔法も存在しない。だが……例外はある」
「例外……ですか?」
「ああ。光属性の魔力を持つ者……つまり聖女だ」
光属性の魔力……
「聖女は魔物とも心を通わせたという話を耳にしたことがある」
「……わたしも、今は光属性の魔力を持ってますよね。だから鳥さんと会話できるようになったんでしょうか?」
「おそらくだが」
うーん、なるほど。まあ、便利だからいいよね。
「……本題に入るとしよう」
と、クロウが仕切り直す。
「まず、今の状況についてだ。はたして聖女の封印は解けたのか否か。解けたのだとしたら、屋敷を囲うこの森はなんなのか……」
「あの、さっき可能性が三つとか話してましたけど……」
「そうだな……シャル、まずはお前の考えを聞かせてくれ」
クロウが、シャルティアさんに話を振る。
「ええ、まず一つ目の可能性ですが」
シャルティアさんが人さし指を立てる。
「残念ながら、聖女の封印は解けていない。我々はまだ、外界と隔絶された場所にいるのでは……という可能性です」
「俺としては、この考えは排除していいと思うがな」
「ええ、同感です」
クロウが意見して、シャルティアさんが同意する。
「あのー……ちょっといいですか」
わたしは、遠慮気味に口を挟む。
クロウとシャルティアさんの視線が、同時にわたしへ向いた。
二人とも、なにも言わない。無言で続きを促している感じ。
「ええと……単純な疑問なんですけど」
「ああ、言ってみろ」
「封印が解けたのだとして……いつ、どうやって解けたんですか?」
黒い空間に進んだだけで、特になにもしていない気がする。
「おそらくですが……地下倉庫にあった札を消し、ルベーリアさんが屋敷の外に出たことによって封印が解けたのでしょう」
シャルティアさんがそう解説してくれる。
「わたしがですか?」
「ええ、光の魔力を持つルベーリアさんが、封印になんらかの影響を与えたのではないでしょうか」
うーん、なるほど。正直、よくわからないけど。
「屋敷とルビィが強い光を放っただろう。あれがまさに、封印が解除された瞬間だったんじゃないか?」
言われてみると、それっぽい光景だった。
「ところでルビィ、気がついているか?」
「え、なんですか?」
クロウが意味ありげな目線で、わたしを見つめてくる。
「自分自身に起きてる変化だ」
「変化……ですか?」
なんだろう。わたし、なにか変わったの? どこらへんが?
わたしは自分の身体を確認してみる。すると。
「あっ」
「気がついたか?」
「はい、魔力の放出が止まってます」
そう、自力じゃ止められなかった魔力が止まってる。つまり、わたしの全身はもう光っていないのだ。
「でも、どうして急に止まったんでしょうか?」
「さてな……なにかしら聖女の封印と関係があったと考えるのが妥当だろうが……詳しくは俺にもわからん」
むむむ……気になるけど、考えても答えは出そうにないよね。
「とりあえず、聖女の封印は解けたという前提で話を進めるぞ」
「はい、わかりました」
わたしはクロウに頷く。
「そうなると、残る可能性は二つですね」
シャルティアさんが再び自身の考えを話し始める。
「二つ目の可能性……封印は解けたが、なぜか屋敷はまったく別の場所に転移してしまっている……というものです」
「元々、屋敷はこんな森の中にはなかったですもんね」
もし、なにかの理由で違う場所に移動したのだとしたら、説明はつく……のかな。
でも……と、わたしは背後にいる鳥さんを見る。
鳥さんの口振りからすると、この屋敷は以前から森にあったみたいだった。
ちゃんと確認してみるべきだよね。
「鳥さん、ちょっといい?」
「なーに?」
「この屋敷って、いつから森にあるのかな?」
「え? そうだなあ……」
鳥さんが考え込むように目を閉じる。
クロウもシャルティアさんも、鳥さんの回答に注目してるみたいだ。
やがて鳥さんは目を開き……
「わかんないや」
ずこーっ。わたしは思わず椅子から転げ落ちるリアクションを取りそうになった。
「でも、ぼくがうまれるまえからあるとおもうよ」
「おいルビィ、ヒポグリフはなんと?」
「鳥さんが生まれる前から、屋敷は森にあったみたいです」
「間違いないか?」
クロウの確認に、鳥さんは「ヒポヒポ」と首を縦に振った。
「でんせつとして、かたられてるくらいだもの」
「なんだか……伝説らしいですよ」
わたしが伝えると、クロウは顎に手を当てて思案顔になった。
「……シャル、どうも三つ目の可能性が濃厚になってきたみたいだな」
「そうですね、兄さん」
兄弟同士のやり取りに、わたし一人置いてけぼりだ。
「三つ目の可能性って、なんですか?」
二人とも深刻そうな雰囲気だから、聞くのが少し怖い気もするけど……
「おいヒポグリフ、この森の外に人間が暮らしている場所はあるか?」
「鳥さん、どう?」
「うん、もりからでて、すぐちかくにまちがあるよ」
「森の外に町があるみたいですけど」
「そうか……ならばルビィ、シャル」
クロウがわたしとシャルティアさんの顔を順に見やる。
「お前たち二人で、その町とやらに行ってこい」
「ええ?」
どうして二人だけ?
「クロウ様は行かないんですか?」
「全員が屋敷を離れない方がいいだろう」
それはそうかもだけど、なんか納得いかない。実は面倒くさいからだけだったり。
「なんだ、なにか文句でもあるのか」
「いいえ、ありません」
わたしは慌てて首を横に振る。
「そういえば……三つ目の可能性っていうのは?」
まだ教えてもらってないんですけど。
「俺とシャルの考えが正しければ――」
それは、とんでもない仮説だった。
◆
サロンでの話を終えると、俺は一人で自室へと戻ることにした。
廊下を歩いていると、不意に眩暈を感じてよろめく。
「…………っ」
壁に腕をついて寄りかかった。
「兄さん、大丈夫ですか?」
背後から声をかけられる。
振り返ると、すぐ近くにシャルが立っていた。
「ああ、平気だ」
俺は何事もなかったかのように、背筋を伸ばす。
「いや、平気じゃないでしょう」
シャルが呆れたように肩をすくめる。
「そろそろ限界なんじゃないですか?」
「……お前も同じだろう」
「私は、まだ大丈夫ですよ。兄さんよりも遅く目覚めたからでしょうか」
「だが、時間の問題か……」
ええ、とシャルが瞑目する。
俺たち兄弟は吸血鬼だ。吸血鬼には、どうしても逃がれられない習性がある。
血だ。その名の通り、血を吸わなければ生命活動に支障をきたす。
正確には、血液に含まれる魔力を吸っているのだが……
「私たち純血種は、代替品で補えないのが辛いですね」
「ああ……」
吸血鬼としての力が薄れた種は、動物の生き血等でも替えが効く。活動に必要な魔力が少ないから、補給する魔力も微量でいいというわけだ。
だが、俺やシャルのような純血種は、そうはいかない。
それなりの魔力が含まれる人間の血等でなければ、糧とはなりえない。
「兄さん、あの女性に役目を果たしてもらってはどうですか?」
シャルが言っているのは、間違いなくルビィのことだろう。今、ここにいる女はあいつだけだ。
「……役目とは?」
「血を捧げる役目ですよ。兄さんも、そのつもりで彼女と行動しているのでしょう?」
「俺は……」
不思議なことに、そんなつもりはまったくなかった。我ながら、どうかしている。
「……違うのですか?」
意外そうに、シャルは目を丸くする。
「どちらにせよ、兄さんや私には彼女の血が必要になります」
「……わかっている」
くそ……まったくもって面倒だ。
◆
話し合いが終わった後、わたしは鳥さんと一緒にサロンで待機していた。
クロウは自室に行くと言って席を立ち、シャルティアさんも後に続いて行ってしまった。
わたしの頭は、さっき聞かされた仮説でいっぱいだ。
もし、本当にクロウとシャルティアさんの考えが正しかったら……どうなんだろう。
わたしとしては、別に驚きはしないかも。
まず乙女ゲームの世界に転生しているって時点で、相当にあり得ない出来事が起こっているわけで。
これ以上なにが起きても、そこまでビックリはしないと思う。たぶん。
すべては町に行けば判明するはず……
ぐぅ。
突然、わたしのお腹が小さく音を立てた。
「おねえさん、おなかがすいたの?」
「うん、あはは……」
すぐ隣にいる鳥さんに、わたしは恥ずかしながら……と、曖昧な笑みを向ける。
シャルティアさんが戻ってきたら、出発前になにか食べさせてもらおうかな。
屋敷の中に、なにかしら食べ物があるはずだよね。もしなかったら、とても困る。
「あ、でも森の中にも食べられる物とかあったりするのかな……」
森で採った木の実を食べるとか、ちょっと憧れたりする。
うぅ……考えてたら、余計にお腹が空いてきちゃった。
「ルベーリアさん」
「シャルティア様」
お腹をさすっていると、シャルティアさんがサロンに戻ってきた。
よし、なにか食べ物がないか訊ねないと。
「あの……」
「ルベーリアさん、少しいいですか?」
シャルティアさんが、わたしの機先を制するように口を開く。
「な、なんでしょう」
「出発前に、兄さんから話があるそうです」
「クロウ様から?」
なんだろう。激励とか……絶対なさそう。
「兄の部屋まで行ってもらえますか?」
「わかりました」
「……あぁ、そうだ。場所はわかりますか?」
「はい、大丈夫ですよ」
起点探しのとき、一度だけ部屋の前まで行った。場所はちゃんと覚えてる。
「では、よろしくお願いします」
「はい、わかりました」
「おねえさん、ぼくもいっていい?」
移動しようとするわたしに、鳥さんが声をかけてくる。
「え、どうだろう」
わたしとしては、ぜんぜん構わないんだけど。
「あのシャルティアさん、この子も行きたいみたいなんですが……」
「いえ、どうぞルベーリアさん一人でお願いします」
きっぱりと言われてしまった。
「ごめんね鳥さん、駄目だって」
「えー」
「このヒポグリフは、私が相手をしておきましょう」
どこか嬉しそうに、シャルティアさんは鳥さんに触れようと手を伸ばす。
――ばしん。
その手を、鳥さんは翼で払いのけた。
「…………」
無言で愕然とするシャルティアさん。
「と、鳥さん、どうしたの?」
「ぼく、なんかこのひとすきじゃない」
ええ……なんでだろう?
「……ルベーリアさん」
「は、はい?」
「ヒポグリフは今、なんと言っていましたか?」
「え、えっと……」
どうしよう。
たぶんだけど、シャルティアさんは鳥さんを気に入ってるよね。
鳥さんを目にしたときの反応が、それを如実に語っていたと思う。
もしかしたら、可愛い生き物とかが好きなのかもしれない。
……そんな相手に真実を伝えるなんて、わたしにはできない。したくない。
「わ、わたし、もう行かないと~!」
それじゃ、と手を上げて、わたしはサロンを足早に去った。
「ル、ルベーリアさん!」
シャルティアさんの声が聞こえたけど、振り返らずに進む。
うう……ごめんなさい。
クロウの自室は、サロンと同じく二階にある。
わたしは廊下を移動して、クロウの自室前までやってきた。
それにしても、話ってなんだろう。まぁ、中に入ればわかるよね。
わたしは木製の扉をノックする。
「入れ」
返事はすぐだった。
扉を開き、わたしは部屋の中に進む。
「失礼します……うっ」
室内を目にしたわたしは、思わず呻いてしまった。
おそらくは、とっても広い部屋。だけど、ほとんどの空間がたくさんの本で埋め尽くされている。
たくさんの本は整理されているわけでもなく、部屋のあちこちに乱雑に散らばったり、積み上げられたりしていた。
室内は埃っぽくて、隅には蜘蛛の巣も……
はっきり言って、クロウの自室は汚い。
なんか意外……きちんとしてそうなイメージなんだけどな。
「おい、なにをしてる?」
部屋の奥にある書斎机から、クロウが声をかけてきた。
「さっさと入ってこい」
「は、はい……」
かろうじて残ってる足の踏み場を通って、わたしは書斎机の前まで進む。
うーん、机の上も本でいっぱいだ。
ざっと見た感じ、ほとんど魔法に関する本みたい。
クロウは読書が好きなのかな。
……いや、ここまで来ると、単純に好きっていうレベルじゃなさそう。
なにかの研究をしている……とか?
それにしても……本当に散らかってる。
ああもう……片付けたくてウズウズしてきた。
「おい」
椅子に座って机に頬杖をつきながら、クロウがわたしの顔を見上げてきた。
「顔が引きつってるぞ、どうした?」
「へ? いや、なんでもありません、なんでも」
わたしは誤魔化すように手を振る。
部屋の惨状については意識しないことにしよう。
「それで……お話しって、なんでしょうか?」
「単刀直入に言う」
低い声音で、クロウが告げた。
わたしは喉を鳴らす。なんだろう、この緊張感。
「ルビィ」
「は、はい……」
「お前の血を吸わせろ」
「――――はい?」
いきなりの申し出に、わたしは戸惑うしかない。
「な、なんでですか?」
とりあえず理由を訊ねてみる。
すると、クロウは眉をしかめた。
「なんでもなにも、俺が吸血鬼だからだ」
あ、うん。そうだよね。
血を吸うから吸血鬼なんだし。
「それはわかってます。どうして、わたしの血を吸うんですか」
「……説明しないとわからないのか」
クロウが嘆息する。なんか腹立つ。
「吸血鬼は活動するだけで、それなりの魔力を消費する生き物だ。だから魔力が多く含まれる血液を摂取する必要がある」
ふむふむ。それが、この世界における吸血鬼なのか。
「あの……なにか他の物で代用できないんですか?」
吸血鬼を扱う作品には、前世でそれなりに触れたことがある。
そういう作品の中には、血の代わりになる物を摂取したりっていうパターンもあったと思う。
「無理だ」
はっきりと言われてしまった。
「えぇ……でも、魔力が補給できればいいんですよね? なにか方法はないんですか? 例えば、動物の血を保存してたりとか……」
「俺のような純血種より下位の吸血鬼ならば、それで事足りるだろうがな」
出たよ、純血種。ちょっとなに言ってるかわからないです。
「ちなみに……血を吸わないとどうなるんですか?」
「魔力が枯渇して、灰になって消える――と言われているな」
つまり死ぬ、というか消滅しちゃうわけだ。
「その前に、理性をなくす」
「はあ……」
「正直な話……俺は今、その危険が迫っている」
「…………ええ?」
とてもそんな風には感じられないけど。偉そうだし。
でも……言われてみると、心なしか体調が悪そうかも?
「理性がなくなると、どうなるんですか」
「そうだな……まずは吸血衝動を抑えられなくなって、お前を襲うだろう」
「こ、困ります」
わたしじゃ、吸血鬼に……クロウに対抗できないだろう。
「ふ……困る、か。ならば、大人しく血を吸わせろ」
「それも困ります」
「……なぜだ?」
いや、なぜって……
「血を吸うって、あれですよね。首筋とかをこう、ガブッとやるんですよね」
「まあ、そうなるな」
「痛いじゃないですか」
あんまり痛いのは、ちょっと勘弁して欲しい。
「心配するな。そこまで痛みは感じないはずだ。チクリとする程度だぞ」
……本当かなあ。とても信じられない。
「……まずいな」
不意にそう呟いて、クロウはガタリと椅子から立ち上がる。
「ど、どうしたんです?」
「…………」
クロウは無言で、わたしの方へ近づいてきた。
「あ、あの……?」
わたしは、目の前に立ったクロウを見上げる。
「クロウ様……?」
こちらを見下ろすクロウの赤い双眸は、なんだか爛々と輝いているような。
「……ルビィ」
わたしの名前を口にしながら、クロウがこちらに手を伸ばす。
「……っ!」
クロウの手が、わたしの手首を掴んだ。少し痛い。
な、なになに、なんなの?
「ずっと思っていたんだ」
「……え?」
「お前の血は美味そうだと」
妖しげな笑みを浮かべ、クロウがわたしの顔に自分の顔を近づけてくる。
ちょちょちょちょちょおっ!
「ま、待って! まだ許可してないですってば!」
血を吸っていいだなんて、一言も口にしてない。してないよね?
「もう許可など求めていない。どうやら俺は限界だ。このままじゃ理性を失う。このままではお前を襲って、壊してしまうかもしれない。それは困るだろう?」
「う……」
たしかに困るけど。
「血を吸われるのも困ります!」
「どうしてだ? さっきも言っただろう。痛みなら、それほど強くない。……ああ、もしかして、痕が残ると心配しているのか?」
たしかに、それも気になるけど……
「安心しろ、気になるようならば痕は消してやる」
「そっ、そうじゃなくてですね……!」
「ではなぜ、そこまで拒む?」
だ、だって……
「吸血鬼に血を吸われたら……」
「吸われたら……なんだ?」
「わたしも吸血鬼になっちゃうじゃないですか!」
吸血鬼に噛まれた人間って、だいたい吸血鬼になってるよね。
クロウに血を吸わせるために噛まれたら、わたしもそうなってしまうかも。
それはちょっと勘弁して欲しい。わたしは人間をやめたくないぞーっ!
「……ルビィ」
わたしの言葉に、クロウは呆れたような顔になった。
掴まれていた手首が離される。クロウは額に手を当てて、やれやれと大仰にかぶりを振ってみえてきた。
「お前、本当にこの世界の人間か?」
「えっ――」
クロウの言葉に心臓が跳ねる。
もしかして、わたしの秘密がバレた? でも、なんで?
「常識という物がなさ過ぎる。魔法学校でなにを学んでいたんだ?」
あれ……バレたわけじゃないのかな? よかった。
ひとまず、わたしは胸を撫で下ろす。まだ安心できる状況じゃないけども。
「噛んだ人間を吸血鬼に変えるのは、真祖だけが持つ能力だ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。吸血鬼についての常識だ。魔法学校で教わるはずなんだがな」
「あ、あはは……」
『ルベーリア』の記憶にはあったのかも。探る余裕なかったからなあ。
落ち着いたら、『ルベーリア』の記憶を色々と探って、この世界について勉強した方がいいかもしれない。
とりあえず……今は、この状況をどうしよう。
「えと……クロウ様は純血種、でしたっけ」
「そうだ」
「つまり、クロウ様が血を吸っても、わたしは吸血鬼にならないんですね?」
「ならん」
うーん……だったら、いい……のかな。
やっぱり、ちょっと怖いけど……でも、クロウが自我を失う方が困るよね。なにしろ襲われたくないし。
――よ、よし。
わたしは意を決して口を開く。
「ク、クロウ様……っ!」
声を詰まらせた。
クロウが、わたしの顎を指で軽く持ち上げたからだ。
え、え、え、え?
いやこれ、血を吸おうとしているんだよね?
なんというか、その……キ、キスしようとしている風に思えなくもない。
クロウが身を屈め、顔を近づけてくる。鼓動が早鐘を打ち始めた。
落ち着け、わたし。
これは……そう。献血だ。単なる献血だと考えよう。
「お前……いい香りだな」
わたしの耳元で、クロウがそう囁いた。
あ。ごめんなさい、無理です。献血とか思えないです。ドキドキしてしまいます。
クロウがわたしの後頭部に手を回す。
それから一気に引き寄せられたかと思うと――
「いっ――」
首筋に痛みが走った。
クロウが、わたしの首に噛みついている。
二本の牙が、わたしの首に食い込む。
痛みは少ない。でも、血を……魔力を吸われているんだという感覚は強くある。
ゴク、と嚥下する音が聞こえてきた。
クロウが、わたしの血を飲み込む音。
「あ……」
全身から力が抜ける。
わたしは、思わずクロウに手を回してしがみついてしまった。そうしないと、立っていられなさそうだったから。
どれぐらい、そうしていたんだろう。
数秒か、数十秒?
満足したらしいクロウが、わたしの首から顔を離す。
口元が少し赤く染まっている。わたしの血だ。
「思った通り……いや、それ以上だ」
クロウが赤く染まった口の端を吊り上げる。
「お前の血は魔力が濃くて美味い」
そんな感想を告げられても、どう反応すればいいの?
「は、はあ……そうですか、それはよかったですね」
俯きながら、わたしはそう返した。
◆
私は、兄さんの部屋へ向かうルベーリア・オズボーンの背中を見送る。
あの女が大人しく血を捧げてくれるといいが。
「ヒポポ」
私の隣にいるヒポグリフが、ルベーリアが去った方を見つめながら鳴いた。
このヒポグリフ、随分とあの女に懐いている様子だ。
なんて……
「なんて羨ましい!」
サロンに私の声が響く。
いけない。思わず興奮してしまった。
「ヒポ?」
ヒポグリフが、不思議そうな視線を私に向けてくる。
ああ……やはり愛らしい。
平均的なヒポグリフに比べて少し、いや、かなりふよくかな所がまた堪らない。
柔らかそうな羽毛に触れてみたいが……きっと叶わぬ願いだろう。
この私、シャルティア・インバーテッドは可愛い生き物が好きだ。
だが、どういう理由か昔から可愛い生き物には避けられてしまう。
さっきのように、触れようとしても払いのけられたり、逃げられるのが常だった。
それでも……触れたい。
私は、ヒポグリフへと慎重に手を伸ばしてみる。
ばしん。
ヒポグリフの翼が、私の手を叩く。
「……ヒポヒポ」
警戒するような鳴き声。
それでも諦めきれない私は、再び手を伸ばす。
ばしん。
私の手が再度、ヒポグリフの翼によって跳ね除けられた。
「ヒーポー……」
威嚇するような目つきを向けられてしまう。
まだだ。まだ諦めるのは早い。
私は三度、ヒポグリフに手を伸ばし……
ばしん。
軽く手を動かした段階で、ヒポグリフは私の手を翼で叩いた。なんという反応速度。
「ヒポポヒポポヒッポポ!」
感心する私の額に、ヒポグリフはその嘴を突き立てる。
痛い。だが……この子は逃げないでいてくれた。
もっと時間を掛ければ、いつかはきっと……
◆
わたしがクロウの自室からサロンに戻って来ると……
「やめてっていってるでしょー!」
鳥さんがシャルティアさんの額に嘴アタックをお見舞いしていた。
なに? この状況……
「あっ、おねえさん!」
唖然とするわたしに気がついた鳥さんが走り寄ってくる。
「おねえさーん!」
わたしの背後に回って、鳥さんは怯えた様子で頭をぐりぐりと背中に押しつけてきた。
「おおふ……ど、どうしたの鳥さん?」
「あのきんぱつが、しつこくぼくにさわろうとするんだよ~」
あの金髪とは、間違いなくシャルティアさんだろう。
「よ、よしよし」
とりあえず、わたしは鳥さんの頭を撫でる。
「……わたしが触るのはいいの?」
「おねえさんなら、だいかんげいだよ!」
「そうなんだ。じゃあなんで、あの人は駄目なの?」
わたしは、額をさすりながらこちらを見つめるシャルティアさんに目を向ける。
「あのきんぱつは……なんか、うさんくさい」
たしかに、ちょっと否定できないかも。
わたしが苦笑していると、シャルティアさんが近くまでやってくる。
「あの、シャルティア様……大丈夫ですか?」
「なにがでしょう?」
シャルティアさんは、にこやかにそう返してくる。
いや、なにがでしょうって……
「おでこですよ。鳥さんに思い切り突かれてましたけど」
「はは、まったく問題ありませんよ」
たしかに見た感じ、怪我とかはないみたいだけど……我慢してるふうでもない。
「私は吸血鬼ですから。軽い怪我ならば、すぐに癒えます」
「なるほど」
吸血鬼といえば再生能力ってイメージは、たしかにあるかも。
「それよりもルベーリアさん、兄さんとの『話』は無事に終わりましたか?」
シャルティアさんの口調、どこか含みがあるような。
たぶん、クロウがわたしに血を要求するって知っていたんだ。
まあ、そりゃそうだよね。
「はい、クロウ様はもう大丈夫だと思いますよ」
きっと、シャルティアさんはクロウを心配していただろう。
「……そうですか。ありがとうございます」
シャルティアさんは安堵したように息を吐くと、わたしに一礼する。
「い、いえ……」
わたしは曖昧な笑みを浮かべる。
お礼を素直に受け止められない。
なんというか……よくわからないけど、いけないことをしたような気分が胸にあるからだ。
わたしはクロウに血を吸われた瞬間を思い出して、顔が熱くなる。
あれは……なんか、いけない。背徳感めいたものがあるよね……
わたしは何気なく、クロウに噛まれた首筋に指で触れる。
「ルベーリアさん?」
「あ……はっ、はい!」
シャルティアさんの声で、わたしは我にかえった。慌てて首から手を下ろす。
「ぼんやりしていたようですが、平気ですか?」
「すみません、大丈夫です」
「本当に? 兄さんに血を捧げたのでしょう。しばらく休んだ方がいいのでは?」
たしかにクロウは、結構な量の血をわたしから吸った。最初はちょっとふらついたけど、今はもう平気だ。なぜなら。
「休まなくても平気です。クロウ様から特殊な薬を飲まされたので」
吸血後、貧血と魔力不足で倒れそうだったわたしに、クロウは瓶に入った水薬を与えてくれた。
なんでも彼が研究して、自ら調合した薬らしい。
それは、わたしの首筋についた痕を治すための薬だった。少しだけ、魔力を回復してくれる成分が入っているとかなんとか。
その薬を飲むと、わたしはとりあえず動ける程度には回復した。
で、自力でサロンに戻ってきたのだ。
「ああ……あの薬ですか」
シャルティアさんが納得した様子を見せる。
「ふと思ったんですけど、クロウ様はあの薬で魔力を回復できないんですか?」
「現状、できません。あの薬は『人間』にしか効力がないようです。だからこそ、ルベーリアさんに頼ったわけですし」
たしかに、そっか。
ということは、これからもわたしはクロウに血を吸われてしまうのだろうか。
うーん、それはちょっとなあ……まあ、今は考えるのはよそう。
それに屋敷を出て町を調べたら、状況は変わるかもしれない。
「シャルティア様、町の調査に出発しましょう」
「薬で回復したとはいえ、まだ本調子ではないのでは?」
言われてみると、まだ少し倦怠感がある。
「少し休んでからでも構いませんよ」
シャルティアさんが椅子を勧めてくれる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
わたしはシャルティアさんが勧めてくれた椅子に腰を下ろした。
そこで、ふと思い出す。
「あ」
「どうかしましたか?」
すっかり忘れていたけど、わたしはお腹が空いていたんだった。
「あの……シャルティア様」
おずおずと、わたしはシャルティアさんを見上げる。
「なんでしょう」
「その……なにか食べる物とかないですか?」
「食べる物……ですか?」
「はい。実は、お腹が空いてて」
目を覚ましてから……いや、よく考えると前世の記憶を取り戻して以降、なにかを口にした覚えがない。
「……そういえば、私もなにか食べたいですね」
「ええ?」
シャルティアさんの言葉に、わたしは首を捻る。
「なにか?」
「いやその、気を悪くしたらごめんなさい。吸血鬼もなにか食べたりするんだなって……」
なんとなく、血だけ吸ってればいいのかと。偏見かな。
「ああ……血はあくまで効率のいい魔力の補給ですからね。普通の食事も必要ですよ」
「そうなんですね」
「ええ。私は厨房を見てきます。ルベーリアさんは休んでいてください」
「あっ、はい。わかりました。お願いします」
薄い笑みを浮かべ、シャルティアさんがサロンを立ち去る。
「……あれ、そういえば」
シャルティアさんは、血を吸わなくて大丈夫なんだろうか。
たぶんクロウと同じ純血種……だよね。
それなら、シャルティアさんも人間の血が必要なはず。
もしかしてわたし、シャルティアさんにも血を吸われちゃう……?
でも特に辛そうな様子はなかったよね。今はまだ平気なだけだろうか。
……とりあえず、わたしからはノータッチでいこう。
血を吸われるのには、やっぱりちょっと抵抗があるし。
とはいえ、放置してたら自我をなくしちゃうんだっけ。
うーん、難しいなあ。なんとか血を吸われずに、あの二人に魔力を補給する方法はないのかな……
考えてはみたものの、特に冴えたアイディアは出ないのであった。ちーん。
「お待たせしました」
そうこうするうち、シャルティアさんがサロンに戻ってきた。
「すみません、ルベーリアさん。すぐに食べられそうな物は、これしか見つかりませんでした」
シャルティアさんが持ってきた白いお皿を、わたしの前に差し出す。
「こ、これは……」
お皿の上に乗っているのは、焦茶色をした一口サイズの丸っこい物体が数粒。
ゴクリと喉を鳴らして、わたしはシャルティアさんに問う。
「もしかして……チョコレート、ですか?」
「はい、チョコレートです。お嫌いですか?」
「いいえ!」
わたしは激しく首を横に振る。
甘い物、大好き! という訳でもないけれど、チョコレートは好きだ。
「それはよかった。では、どうぞ」
「は、はい、いただきます!」
わたしはお皿の上に乗ったチョコを一粒、指で摘まんで口にする。
ほんのりと苦くて、甘い味が口内に広がる。
どうやらビターチョコらしい。うん、甘過ぎなくて美味しい。
「それから、これを……」
シャルティアさんが鳥さんの方をチラチラと見ながら、わたしに大きな葉っぱで包まれたなにかを手渡してきた。
「これは?」
「ヒポグリフにあげてください」
「はあ」
なんだろうこれ?
わたしは、葉っぱの包みを開く。その中身は……
「干し肉?」
平たく大きな干し肉だった。
「生肉があれば、それを与えるべきなのですが」
「そうなんですね」
わたしは干し肉をちぎって、鳥さんに差し出す。食べてくれるかな。
「わーい、いただきまーす」
鳥さんは嬉しそうに寄ってきて、わたしが手にした干し肉のかけらを嘴で器用に食べた。
「どう? 美味しい?」
「うん、おねえさんにもらったから、よけいにおいしいよ~」
「またまた、鳥さんったら~」
持って来てくれたのはシャルティアさんだけどね。
それにしても、いつまでも「鳥さん」って呼び方はなんだか味気ない。
「ねえ鳥さん、鳥さんには名前とかないの?」
「ひぽぐりふってよばれるよ~」
「ええと……そういう種類としての名前じゃなくって、鳥さん固有の名前とかはない?」
「う~ん?」
鳥さんが考え込む。
「あ、むれのなかまからは『ずんぐり』ってよばれてたかな~」
それは……名前じゃないね、うん。
「今更だけど鳥さん、仲間の所に帰らなくていいの?」
「あ~、いいのいいの。ぼく、おねえさんといたいから」
「そ、そう?」
鳥さんには森の外まで案内してもらわなきゃだから、いてくれるのはありがたい。
「ところで鳥さん、もしよかったら名前を考えてもいいかな?」
「なまえ? それって、ぼくの?」
「うん、そう」
「おねえさんがつけてくれるの?」
なんだか鳥さんが目を輝かせている。
「よかったら、だけど」
「ぜひぜひ、つけてよ~」
「よーし、じゃあ考えるね」
どんな名前がいいだろう。
「鳥さんは、なにか希望とかあるかな。どういう感じがいいとか」
「そうだなぁ……ぼく、ものがたりのおうじさまみたいなのがいいな」
「王子様?」
ちょっと意外なリクエストがきた。
うーん、王子様みたいな名前か。
王子様……王子様……
あれ、どんな名前が王子様っぽいんだろう。考えてみると、結構難しいかも。
んんんん……王子……王子……王……
「そうね……じゃあ、アレキサンダーでどう?」
「ええ~」
わたしの提案に、鳥さんが微妙な反応をする。
アレキサンダーは、お気に召さなかったみたいだ。
わたし的にはカッコイイと思うんだけどな。
「ルベーリアさん」
「え、はい」
突然、シャルティアさんが口を開く。
なんか目が据わっていて、ちょっと怖い。
「察するに、ヒポグリフに名前を与えようとしているみたいですが」
「ええ、そうですけど……駄目、でしたか?」
なにか怒っている様子だし。
「いえ、駄目ではありません。しかし……」
「しかし……?」
「アレキサンダーはないでしょう」
シャルティアさんにまで否定されてしまった。なんなの。全世界のアレキサンダーさんごめんなさい。
「なら、シャルティア様はなにがいいと思いますか? ちなみに鳥さんの希望は『物語の王子様』っぽい名前です」
「ほう、王子ですか……ならば、シャルティア二世はどうでしょう?」
「……はい?」
「自分で言うのもなんですが、『シャルティア』という名前は、どこか王子らしさがあると思うのですよ」
たしかに、そういう気がしないでもないけど。
「鳥さん、どうかな」
「ぜったいやだ」
鳥さんはぷい、と顔を背ける。
まあ、そりゃそうだよね。
「シャルティア様、却下だそうです」
「そ、そうですか……」
見るからに落胆するシャルティアさん。ちょっとかわいそうかも。
でも、シャルティア二世はアウトだよ。
「なんだ、お前らまだ居たのか?」
そう言ってサロンにクロウが姿を現した。
さっきの出来事を思い出してしまい、顔が熱くなる。
わたしは恥ずかしくて、クロウをまともに見ることができなかった。
……いや、なんでわたしが恥ずかしがらなきゃいけないんだろう。
うんうん、意識しないようにしよう。
わたしは気を取り直して、クロウに向き直る。
「チョコか……シャル、俺にもくれ」
「どうぞ、兄さん」
クロウはシャルティアさんが差し出したお皿から、チョコを摘まんで口に含む。
あの口で、わたしの首に……って、なに考えてるんだ、わたし!
頭を抱え、ぶんぶんと振り回す。
「ルビィ、なにをしている?」
「……はっ、いえ、なんでもありません」
「そうか? ところで、お前らなにを話し込んでいたんだ?」
「実はですね――」
シャルティアさんはクロウに鳥さんの名前を考えていたと説明した。
「なるほど、ヒポグリフの名前か……どうでもいいが、シャルよ」
「なんです?」
「シャルティア二世という命名はどうかと思うぞ」
クロウはちょっと引き気味でシャルティアさんにそう告げた。
「そ、そうですか……」
ショックを受けるシャルティアさん。この人、意外と愉快かも。
「お前らしくはあるがな」
「そうだ、クロウ様はなにかいい案はないですか?」
「俺か?」
そうだな、とクロウは腕を組む。
「バルバトス、なんてどうだ?」
厳ついよ! わたしは思わず胸中で叫ぶ。
「ど、どうかな鳥さん」
「う~ん……つよそうでかっこいいけど、ぼくのかわいいいめーじとは、ちょっとあわないかなあ……」
「そ、そう……」
その通りだけど……かわいいっていう自覚はあるんだね。実際かわいいから、いいんだけども。
「なんだ、バルバトスは気に入らんのか?」
「はい、駄目みたいです」
「ほう、贅沢な鳥だ」
そう言うクロウだけど、特に気分を害した様子はないみたいだ。
それにしても、思ったよりも命名に手こずってるなあ。
うーん、鳥さんは自分でも言うように、かわいいイメージだよね。
てことは、かわいい名前が合うような気がする。
わたしは、改めて鳥さんの姿をじっと見つめてみた。
「な、なあにおねえさん、そんなにみられたらぼく、はずかしいよ~」
照れた様子で身体を揺らす鳥さん。うん、かわいい。
全体的に丸っこくて、ふわふわしていて、まるでそう……たんぽぽの綿毛みたいな。
「……あ!」
わたしは閃きを得て声を上げた。
「ポポちゃんっていうのは、どうかな。たんぽぽの綿毛みたいで、かわいい鳥さんのイメージにぴったりだと思うんだけど……どうでしょう?」
わたしはクロウとシャルティアさんを見る。
「さてな、いいんじゃないか?」
「たんぽぽの綿毛……ポポ……愛らしい……」
特に異論はなさそう。問題は、鳥さん自身が気にいってくれるかだ。
「ど、どうかな?」
「ぽぽ……うん、かわいくて、すてきだとおもうよ~!」
「本当に? それならよかった」
「ありがとう、おねえさん~」
「ううん、改めてよろしくね、ポポちゃん」
「こちらこそ、よろしくだよ~」
そんなわけで、鳥さんの名前はポポに決定した。
◆
鳥さん――ポポちゃんの案内で、わたしとシャルティアさんは森を進む。
時間はシャルティアさんによると、まだ朝らしい。
わたしたちが森で目を覚ましたのは、早朝だったみたいだ。
「ちゃんとついてきてね~」
ポポちゃんが、はりきって先頭を進んでいく。
わたしの隣を歩くシャルティアさんの腰には、細身の剣が提げられていた。たしか、レイピアっていう剣だっけ。
「これが気になりますか?」
わたしの視線に気がついたシャルティアさんが、そう訊いてくる。
「はい、まあ」
「並の人間や魔物が相手ならば素手でも問題ないでしょうが、なにがあるかわかりませんからね。用心に越したことはないでしょう」
森を進むこと十数分。
「さ、ここからさきはもうかいどうだよ~」
わたしたちは、森の外までやってきた。
「ぼくはここでまってるからね~」
「え、ポポちゃんは来てくれないの?」
「あはは、おねえさん、おもしろいね~」
また面白いって言われた。
「ぼくがまちにいったら、おおさわぎになっちゃうよ~」
「そうなの?」
「うん、いちおう、ぼくはにんげんにとってはこわいそんざいみたいなんだ。まあ、かわいくておおさわぎになっちゃうかのうせいもあるけど~」
「あはは」
その光景、ちょっと見てみたい気がするな。
「じゃあポポちゃん、行ってくるね」
「うん、まちはかいどうをすすんでいればみえてくるはずだよ~」
「わかった、ありがとう」
ポポちゃんを残して、わたしとシャルティアさんは街道を進む。
「魔物とか、出たりしないですよね……?」
「どうでしょう。気配は感じないようですが……しかし」
シャルティアさんが、周囲を見渡す。
「やはり、まるで見たことがない風景ですね」
「そう、ですね」
わたしはゲーム上での設定を思い出す。
元々インバーテッド家の屋敷があったのは、大きな都市の一角だったはず。
今さっき通ってきた森や、こんな街道が存在するのは変だ。
「やっぱり、あの仮説が正しいんでしょうか」
「個人的には、その可能性が高いと思っていますが……ともかく町に行けば、なにか掴めるでしょう」
その後、わたしたちは特に何事もなく町の入口まで辿り着いた。
二人で、開かれた門を見上げる。
「それなりに栄えた町のようですね」
「ええ」
シャルティアさんの感想に、わたしは同意を返す。
門の脇に、槍を手にした番兵らしき人が立っている。どうやら、わたしとシャルティアさんに注意を向けているみたいだ。
「いつまでも立ち止まっていたら、怪しまれてしまいますね……進みましょう」
「あ、はい」
シャルティアさんとわたしは、門番の近くまで歩いていく。
「旅の方ですか?」
目の前まで来ると、門番がそう声をかけてきた。
立ち止まり、シャルティアさんが門番に笑顔を向ける。
「ええ、そうです」
わたしたちは今、共に外套を羽織っている。旅人に見えなくもないはず。
「町には滞在するご予定で?」
「どうでしょう、まだわかりません」
「そうですか……ここはいい町ですから、どうぞごゆっくり」
「ええ、ありがとうございます」
門番は普通にいい人って感じだ。特に怪しまれている様子もなさそう。
わたしも小さく会釈をして、そのまま門を通過する。
ちょっと緊張したけど、町に入れてよかった。
「わあ……」
町は全体的に石造りで、いかにもファンタジーっぽい。
人も結構いて、活気のありそうな雰囲気だ。
通りには、おしゃれな雰囲気のお店も並んでいる。
特に、テラス席のあるカフェっぽいお店なんて素敵だ。
「ルベーリアさん、観光に来たわけではありません。さっそく情報を集めましょう」
あちこち眺めていると、シャルティアさんに窘められてしまった。
「はい、すみません……でも、情報を集めるってどうやってですか?」
「こういう時はやはり、あそこでしょう」
……どこ?
シャルティアさんとわたしがやって来たのは、町の中心地にある酒場だった。
うん、たしかに情報収集といえば町の酒場だよね。
なんかゲームぽくてワクワクしてきた。
「行きましょう、シャルティア様!」
わたしは意気込んで、店の扉に手をかけようとする。
「少し待ってください」
そんなわたしを、シャルティアさんが冷静に止めた。
「なんですか、シャルティア様」
「……それです」
「はい?」
うーん、「あそこ」とか「それ」とか迂遠な表現が多いな、もう。
「どれですか?」
「貴女の私に対する呼称です」
「はあ……呼び方が駄目なんですか?」
シャルティアさんが静かに頷く。
それから、わたしに顔を寄せて、小声で話を続ける。
綺麗な顔が間近に急接近してきて、こちらとしては落ち着かないんだけど……。
「あまり、私の名を出さないようにして欲しいのですよ」
「どうしてですか?」
「念のため、です。ヒポグリフ……ポポは、私たちの屋敷が伝説として語られていた、と言っていたのですよね? 怖ろしい吸血鬼が眠っていると」
「はい、言ってましたけど……」
「つまり、もしかしたら私の名前も伝わっているかもしれない」
「あ、そっか……」
まだ確証が得られたわけじゃないけど、おそらくこの世界は……
「……『伝説の吸血鬼と同じ名前』の人物がいたら、注目されてしまうでしょう?」
「はい、たしかに」
「ですから、ここでは私の名前を口にしないで欲しい」
「わかりました。でも、それじゃなんて呼べばいいですか?」
名前を呼べないというのは、結構不便だと思う。だから、なにか別の呼び方を決めておきたい。ポポちゃんに続いて、また名前の話かって感じだけど。
「そうですね……シャル、ならばまだ平気でしょう」
「では、シャル様で」
「様もやめましょう」
「……いいんですか?」
まあ心の中じゃ、そもそも様付けじゃないんだけど。
「構いませんよ」
「それじゃあ……シャルさん」
「はい……ああ、そうだ。私もルビィさんとお呼びしていいですか」
「え? もちろん大丈夫ですけど……それも念のためですか?」
わたしの……ルベーリアの名前なんて、誰も知らないと思うけどな。
「いいえ、違います」
シャルティアさん改め、シャルさんが首を横に振る。
じゃあ、なんでいきなり?
「実のところ、ルベーリアさんというのは長いと思っていたんです。この際ですから、私もルビィさんと呼ばせていただこうかと」
「……ふふ」
シャルさんの説明に、わたしは笑ってしまった。
「どうかしましたか?」
「いえ、クロウ様も同じような理由で、わたしをルビィと呼び始めたので」
見た目も雰囲気もまるで違うけど、兄弟なんだなぁなんて感じてしまった。
「そうだったんですか」
シャルさんも口元を綻ばせる。
「……さて、それでは行きましょう」
「はい」
今度こそ、わたしは酒場の扉に手をかける。
重い木の扉を開いて、わたしとシャルさんは酒場に入店した。
店内は喧噪と言ってもいいぐらいの活気と、酒精の匂いに満ちている。
まだ昼間なのに、酒盛りするお客さんでいっぱいだ。
「いらっしゃい」
店の奥……カウンターに立つ男性が、わたしたちに声を投げかける。
長身でガッシリとした、ナイスミドルって感じの男性だった。
整ったダークブラウンの髪。口元と顎の髭は、よく手入れされている。
うん、絵に描いたようなイケオジだ。たぶん、酒場の店主だろう。この風格でそうじゃなかったら驚く。
わたしとシャルさんは、店の入口からカウンターにまっすぐ向かう。
「お二人さん、初めて見る顔だね」
カウンターの前に立ったシャルさんとわたしを見て、店主がそう口にした。
うーん。改めて耳にすると、声まで渋い。
「ええ、旅の途中で立ち寄らせてもらったんですが、少し話を聞かせてもらってもよろしいですか?」
シャルさんが、すらすらと淀みなくそう切り出す。
わたしは極力黙っておくことにしよう。
あんまり口を開くと、ボロを出してしまいそうだし。
「構わんよ。まあ本来なら情報料を頂くところだが、初回だからサービスだ」
「それはどうも」
店主の台詞に、シャルさんは薄い笑みを返す。
酒場で情報料……ますますゲームとかのお決まり感が出てきた。
「とはいえ、だ。ウチも商売なんでね、なにか注文はしてもらわないとな」
やっぱり、そうなるよね。
「そうですね、では……赤ワインはありますか」
「おう、あるよ」
赤ワイン……なんとなく、いかにも吸血鬼が飲んでそう。
「お嬢ちゃんはなんにする?」
「へっ?」
いきなり水を向けられて、間の抜けた返事をしてしまった。
「え、ええと……」
困った。わたしは、お酒が苦手だったりする。
「お酒以外の飲み物って、ありますか」
「あるよ」
よかった。わたしは胸を撫で下ろす。
「なにがありますか?」
「そうだなぁ……果実のジュースなんてどうだい?」
なんの果実かわからないのが、ちょっと気になるけど……ま、いいか。
「じゃあ、それを」
「あいよ、少し待っててくれ」
言い置いて、店主は二人分の飲み物を用意し始める。
「お待ちどう」
一分もしないうちに、赤ワインと果実のジュースがカウンターに差し出された。
わたしはオレンジ色の液体が注がれた木のジョッキを手に取る。
「ちなみに、これってなんの果物ですか?」
「ああ、自家製のポッコリさ」
ポッコリ……初めて聞く果実だ。少なくとも、わたしはだけど。
「なんだお嬢ちゃん、ポッコリを知らないのかい」
顔に出ていたのか、店主がそう問いかけてくる。
少し迷うけど……ここは正直に答えよう。
駄目なら、シャルさんが止めるはずだし。ちらりと隣を確認すると、シャルさんは赤ワインのグラスに口をつけていた。
「はい、知りません」
「旅をしてるんだったか。じゃあきっと、この辺りに来たのは初めてなんだろう。ポッコリは、ここらの特産品だからな」
「そうなんですね。どんな果物なんですか?」
「こいつだ」
でん、と店主がカウンターの上に果物を置く。
「わぁ……」
思わず感嘆の声をもらしてしまった。
オレンジ色の大きな果実だ。ボウリングの球ぐらいあって、ヘタの部分あたりが、ぽっこりと出っ張っている。
……あ、だからポッコリなのかな。
でもこの果物、どこかで見たような気がする。というか間違いなくデコポンだよね。こっちのは、かなり大きいけど。
でも、ちょっと安心したかも。見た目がデコポンだし、このジュースもきっとオレンジジュースに近いはずだよね。
「いただきます」
わたしはポッコリジュースを一口飲んでみる。
「……美味しい」
程よい酸味と甘み。爽やかな柑橘の香りが鼻へ抜ける。
ちょっと……ううん、かなり気に入ってしまった。
「うまいだろう?」
夢中で飲むわたしの様子を見ていた店主が、ニッと口の端を吊り上げる。
「は、はい……」
なんとなく恥ずかしくなって、わたしは曖昧な笑みを返した。
「店主、そろそろ話をさせてもらってもいいでしょうか」
空になったワインのグラスを静かに置いて、シャルさんが口火を切った。
「おう、いいとも」
店主は、どんと来いといった風に頷く。
シャルさん、どんな質問をする気なんだろう。
「町の近くにある森についてなのですが」
「…………!」
そうシャルさんが切り出した途端、店主がハッとした顔になった。
「……『魔の森』について、なにが知りたいんだ」
あの森、そんな物騒な名前で呼ばれてるの?
「まさかとは思うが、あの森に近づいたりしてないよな?」
近づくどころか、その森から来ましたなんて言えない……
「危険な場所なんですか?」
シャルさんが逆に訊ね返す。
「ああ、危険だと言われている」
「実際、なにかが起こったりしたのですか?」
「近頃はなにもないが……昔はな。あの森には、伝説があるんだよ」
わたしとシャルさんは顔を見合わせる。
「……その伝説というのは?」
「森のどこかに吸血鬼の眠る屋敷がある……って伝説だ」
ポポちゃんも同じような話をしていた。
森を抜ける途中でポポちゃんに詳細を教えてもらおうとしたんだけど、あの子は「そういう伝説が存在する」ということ以外は知らなかった。
「その屋敷ってのを探して森に入った者が二度と帰って来ない……なんて出来事が、何度もあったらしくてな。いつしかあそこは『魔の森』って呼ばれるようになったそうだ」
その人たち、どこに消えてしまったんだろう。
「なるほど……ところで吸血鬼の伝説について、もう少し詳しく教えてもらってもいいでしょうか」
「ん、ああ……大昔に、それはもう悪い吸血鬼の一族ってのがいたそうでな」
……うん、きっとインバーテッド家のことだよね。
わたしはシャルさんの表情を窺う。
爽やかな笑みを浮かべているけど……大丈夫かな。怒ったりしてないよね。
「悪さを繰り返す吸血鬼たちを、光の聖女様が屋敷ごと封印した……聖女様の伝説にそういう逸話が残ってるんだ」
光の聖女様って……『サント・ブランシュ』の主人公、プリムラのことかな。
すごいな、伝説の存在になってるんだ。
……って、そうだ。確認するべきところはそこだ。
「あの……大昔っていうのは、どれぐらい前かわかりますか」
しまった。思わず自分で質問しちゃった。シャルさんに任せる気だったのに。
「うーん、そうだなぁ……」
店主が腕を組んで考え込む。
「だいたい、二百年ぐらい前じゃないか」
その答えに、わたしはただ驚くしかなかった。
◆
酒場を出たシャルさんとわたしは、町の広場に移動した。
近くにあったベンチに、二人で並んで座る。
「二〇〇年……ですって」
「二〇〇年……ですか」
わたしとシャルさんが、どちらからともなく呟く。
「仮説は正しかったわけですが……しかし、二百年ですか……」
シャルさんが空を仰ぐ。
わたしたちに起きている現状に対する、三つ目の可能性。
クロウとシャルさんが立てた仮説というのは――
わたしたちが封印されている間、屋敷内は時間が止まっていた。
つまり、外の世界では時が流れていたということになる。
それも、かなりの年月が経ったと考えていい。
だから、屋敷もすっかり森に囲まれたのではないか――
そういう仮説だった。
わたしも、ポポちゃんの言い回しに違和感を覚えたりしたのだ。
仮説は正しかった。
わたしたちが封印されている間に、とんでもなく時が流れてしまった。
この世界は……わたしたちが目覚めたのは『サント・ブランシュ』から、二百年後の世界なんだ――
「シャルさん、これからどうしましょう」
「まずは私の持っている硬貨を、この時代の硬貨に換金したいですね」
酒場で飲み物の代金を支払うときに判明したんだけど、二百年前の硬貨はこの時代だと稀少価値が高いそうだ。
シャルさんが出した銅貨に、店主は目を丸くしていた。
「私としたことが、迂闊でした」
結局、店主は「飲み物代はサービスにしとくから、また来てくれ。うちは食事もうまいんだ」と言ってくれた。いい人でよかった。
「……それと、もう少しこの世界についての情報が欲しいですね」
「なら、もっと酒場で聞き込みすればよかったんじゃ」
「あまり色々と質問しては、怪しまれるかもしれないでしょう」
あ、なるほど……
「とりあえず、町の中を巡ってみましょうか」
「はい、わかりました」
二人、同時に立ち上がる。
「…………っ」
立ち上がった瞬間、シャルさんがよろめいた。
「シャルさん、大丈夫ですか?」
思わず身体を支えようと近づくわたしを、シャルさんは片手をあげて制する。
「平気ですよ、少し立ちくらみがしただけです」
「でも……もうちょっと、ここで休んで行きましょう」
「いえ、それより……ルビィさん、お腹が空きませんか」
「え?」
突然なにを……でも、言われてみると空いたかもしれない。そういえば結局、シャルさんが持ってきてくれたチョコレートしか食べなかったんだ。
「ええと……空きました」
「私もです。きっと立ちくらみも、そのせいでしょう」
「そ、そうなんですか?」
「ええ、ですから……ひとまず、ちゃんとした食事を摂りましょうか」
ちゃんとした食事……うう、それは抗えない提案です。
「とはいえ、どこで食べましょう。さきほどの酒場は食堂も兼ねていたようですが……」
「でも、なんとなく戻りづらくないですか?」
「……それもそうですね」
「あ、そうだ……」
さっき通りを歩いている時、よさげな雰囲気の店があったのを思い出す。
カフェみたいなお店だったけど、きっと食事もあるよね。
「ルビィさん、なにか心当たりでも?」
「あ、はい。実はさっき……」
わたしはシャルさんに説明する。
「では、その店に行ってみましょうか」
「わかりました」
「場所は覚えていますか?」
「だ、大丈夫です」
……たぶん。
お店には、なんとか迷うことなくやって来られた。
「ここですか。たしかに、いい店構えですね」
シャルさんも、お気に召したみたいだ。
わたしは店内を覗く。何組かお客さんはいるけど、特に混雑はしていない。
「ルビィさん、入りましょう」
「あ、はい」
シャルさんとお店に入る。
「いらっしゃいませ」
感じのいい店員さんが出迎えてくれた。
「お好きな席にどうぞ」
ニコニコと店員さんがそう告げる。
「どうしますか、ルビィさん」
「じゃあ、せっかくですから……」
わたしとシャルさんは、外のテラス席に案内してもらった。
テーブルについて、メニューに目を通す。
飲み物、食事、スイーツ……結構、色んな種類があって迷う。
ふと視線を感じて、品書きから顔を上げる。
シャルさんが、微笑を浮かべてこちらを見ていた。
「あ、ごめんなさい……なかなか決められなくて」
「いいえ、構いませんよ。それに、遠慮はいりません。好きな物を好きなだけ注文してください」
おお、なんとも豪快な発言。まあ、お金ならたくさんあるもんね。
このお店に来る道中、シャルさんは骨董品店で手持ちの銅貨を一枚だけ換金していた。
一枚だけなのに、この時代のお金に換算すると、そこそこな額になったみたいだ。
「本当にいいんですか?」
「ええ、どうぞ」
「それじゃあ遠慮なく……」
店員さんを呼んで、注文する。
しばらくすると品物が運ばれてきて、一気にテーブルが賑やかになった。
シャルさんが注文したのは、ハムとタマゴのサンドイッチ。飲み物は温かい紅茶だ。
「それだけで足りるんですか?」
サンドイッチは大き目だけど、二きれしかない。
「逆に……本当にそれを食べきれるんですか?」
わたしの前に並んだお皿を見ながら、シャルさんは苦笑気味に言う。
パスタ、ハンバーグ、スープにライス。食後のスイーツにケーキと、酒場にあったポッコリのジュースも頼んでしまった。
「ぜんぜん問題ありません」
腹ペコだし、これぐらい余裕だ。
「いただきまーす」
わたしは手を合わせ、そう声に出す。
それからナイフとフォークを持ち、料理に手をつけ始めた。
まずはハンバーグを切って、口に運ぶ。
「おいしい……」
しみじみと呟く。すごく久しぶりに、お肉を食べたような気がする。実際、二百年間は食べてなかったわけだけど……自分の体感的にもって意味で。
わたしは夢中で他の料理も食べていく。
またもや視線を感じて、わたしは手を止めた。
……シャルさんが、こちらをジッと見つめている。
なんだろう。もしかして、わたしのも食べたいとか……
「……食べますか?」
わたしはおずおずとシャルさんに料理を勧める。
シャルさんは呆気に取られたような表情をした後、ふっと笑みを浮かべた。
「……面白い女性(ひと)ですね、貴女は」
え、なに。唐突にまた来たよ、面白いシリーズ。わたし、なにかしたっけ?
「な、なんですか急に……」
「いいえ、気にせず食事を続けてください」
「は、はあ……」
いや、気になるよ。……食事は続けるけど。
「あれ」
よく見ると、シャルさんはすでに自分の食事を終えているみたいだった。
食べるの早いなぁ……。きっとシャルさんも、すごくお腹空いてたんだな、うん。
なんて納得しつつ、わたしは自分の食事を再開する。
それからわたしは、スイーツまで綺麗に平らげた。
「ごちそうさまでした」
お腹いっぱい。満足、満足。
◆
ルベーリア・オズボーンに対する私の印象を簡潔に表すなら……
不思議な女性、というのが適切だろう。
本来、貴族として立場が上のはずである私や、兄……クロウ・インバーテッドに対して物怖じしない態度で接してくる。
もっと根本的に、吸血鬼である私たち兄弟をまるで怖れている様子がない。
今も、私の眼前で食事をする彼女は、どこまでも自然体だった。
「あむあむあむ……本当においしい~」
……あまりに自然体すぎる。というより、まるで伯爵令嬢らしくない。
などと考えながら食事をしていたら、私は自分が頼んだサンドイッチを瞬く間に食べ終えてしまった。
一緒に注文した紅茶のカップに口をつける。
……サンドイッチも、この紅茶も、そこそこの味といったところか。
手持ち無沙汰な私は、夢中で料理を食べるルベーリアを観察する。
口いっぱいに料理を頬張るその姿は……貴族令嬢として見ればはしたないにも程がある物だった。
しかし……
「はあ……幸せ」
心底から満たされているような表情。
口内にたくさん含んだ物を懸命に咀嚼する様は、なんというか……
愛らしいかもしれない。
そんな自分自身の思考に、私は驚きを禁じ得なかった。
正気か、シャルティア・インバーテッド。そう自問する。
私が人間に対して、そのような感情を抱くなど――
「……食べますか?」
ふと、ルベーリア・オズボーンが声をかけてくる。
どうやら、こちらの視線に気がついたらしい。なぜだか私が、料理を欲していると勘違いされてしまったようだ。
……本当に、おかしな女性だ。
私は自然、小さな笑いをこぼしてしまう。
「……面白い女性(ひと)ですね、貴女は」
私がそう口にすると、ルベーリア――ルビィは、苦い笑みを浮かべた。
「な、なんですか急に……」
「いいえ、気にせず食事を続けてください」
「は、はあ……」
こちらを窺いつつ、ルビィは食事を再開した。
そんな様子を見ながら、私は紅茶を飲む。
なぜだか不思議と、味が良くなったように思えた。
◆
いきなりだけど、わたしは迷子になってしまった。
「ここ、どこだろう……」
寂れた通りで一人、呆然と立ち尽くす。
シャルさんとはぐれてしまったのは、町を巡っている途中だった。
食事を終えたシャルさんとわたしは、お店を出ると当初の予定通り、町の中を見て回ることにした。
そうして二人で市場に行って……色々なお店を覗いているうちに、気がついたら一人になってしまっていたのだ。
焦ったわたしは人混みの中、シャルさんを探して歩き回ったんだけど……いつの間にかまったく違う場所に来ていた。どうしてこうなった。
こうなるなら、市場で大人しくしていればよかったかもしれない。
「そうだ、市場に戻れば……」
駄目だ。もはや道がわからない。適当に歩いてたら辿り着くかな。
いや、そもそも人に道を訊いたら済む話だよね。
そう思って辺りを見渡してみるけど……
「人が、いない……」
でも、誰かいそうな建物は近くにあった。
大きな円錐形の屋根に十字架が立った建物……たぶん教会だ。
あそこなら、迷子のわたしに道を教えてくれるはずだよね。教会だけに。
……くだならいこと思ってないで、さっさと行ってみよう。
わたしは通りを歩いて教会に近づいた。開かれた門を抜けて敷地内に入る。
教会の庭には修道服を着たシスターらしき一人の女性と、数人の子供がいた。
子供たちは芝生の上に座っていて、目の前に立つシスターを見上げている。
「シスター、はやくはやく」
子供の一人が、なにかを待ちきれない様子で声を上げる。
「はいはい、わかってますよ」
シスターは困ったように笑みながら、手に持っていた本を開いた。
読み聞かせかな?
「ええと……どこまで読んだかしら」
「聖女様が、悪い吸血鬼の屋敷に乗り込んだところー」
「ああ、そうだったわね」
うん? 聖女に吸血鬼って、もしかして。
わたしは足を止めて、シスターの話に耳を傾ける。
「聖女プリムラと魔法学校の仲間たちが吸血鬼の屋敷に乗り込むと、そこには……」
プリムラ……やっぱり、『サント・ブランシュ』の主人公だ。
すごいな、子供に読み聞かせる本にまでなってるのか。
そういばゲームのエピローグにも、大人物になったような描写があったような気もするな。
「吸血鬼の親玉、黒の王が復活していたのです」
黒の王……アルバート・インバーテッド。クロウとシャルさんのお父さんだ。
本来なら、わたし……『ルベーリア』は彼を復活させる生贄として、命を落とすはずだった。
それが、どういうわけだか生き延びて……聖女の封印に巻き込まれちゃって……
封印が解けたと思ったら二〇〇年後だった、と。
改めて考えると、よくわからない状況だよね。
「怖ろしい化物のように暴れ回る黒の王。聖女プリムラと魔法学校の仲間たちは力を合わせて、黒の王と激しい戦いを繰り広げます」
魔法学校の仲間たちっていうのは、たぶんゲームの攻略キャラたちだよね。
「戦いの末、プリムラは仲間と協力して黒の王を屋敷や、他の吸血鬼ごと封印するのでした」
めでたし、めでたし……巻き込まれた身としては、めでたくないけど。
「吸血鬼との戦いが終わっても、聖女プリムラの冒険は終わりません。むしろ、これが始まりだったのです」
え、そうなの?
「悪の魔法使い……人狼族……封印されし邪竜……プリムラは仲間たちと数々の戦いを繰り広げるのですが、それはまた別のお話しです」
おしまい、とシスターが締めくくる。
子供たちが「えー」と声を上げると、笑顔で「続きはまた明日です」となだめすかした。
わたしもちょっと聞きたいかも。プリムラって、そんなに色々と活躍したんだ。
ふと、シスターと目が合う。
ニコリと微笑まれたので、こちらも笑みを返した。
別のシスターがやって来て、子供たちを教会の建物に引率していく。
子供たちを見送ると、読み聞かせをしていたシスターは、わたしの前までやってきた。
「こんにちは」
柔和な声音で、挨拶を口にする。
「こ、こんにちは」
なんだか変にドギマギしてしまう。
近くで見ると、シスターはとても綺麗な人だった。
年齢は、わたしより少し上ぐらいかな。
背丈も一緒ぐらい。ゆったりとした修道服だから身体のラインは判然としないけど、たぶん細身。
頭巾から見える前髪は栗色で、瞳の色は緑だ。
よく見ると、左目の下に小さなホクロがある。
目鼻立ちの整った顔は清らかな雰囲気。もちろん化粧なんてしていないはずなのに、見惚れるほど綺麗だった。これが、すっぴん美女か……。
「あの……どうかなさいましたか?」
「へ?」
シスターが不思議そうな目を向けてくる。
いけない、いけない……見惚れている場合じゃなかった。
「なにか困り事でしょうか」
シスターが優しげな笑みをたたえる。
おお、全身から包容力が溢れ出てるよ。
それにしても……シスターは、どうして声をかけてきてくれたんだろう?
「はい……あれ、でもよくわかりましたね、わたしが困ってるって」
「ふふ、勘です」
シスターの口調には、少し悪戯っぽい響きがあった。
「か、勘ですか」
「はい。教会に来られる悩みを抱えた方は、なんとなくわかるんです」
「ははぁ……なるほど」
つまり、経験に則った勘なわけだ。
「それで……貴女は、どうされましたか?」
「あ、はい。実は……」
ちょっと恥ずかしい気もするけど、わたしはシスターに自分が道に迷ったと説明する。
「わかりました。では、わたくしが市場までご案内いたしましょう」
胸に手を当てて、シスターはそう言ってくれる。
「い、いいんですか?」
正直、そうしてもらえるとかなり助かる。
口で道順を説明されても、一人でちゃんと市場まで行ける自信がない。
「ええ、もちろん」
「それじゃ、お願いします」
「お任せください。あ、そうだわ。神父様に声だけかけてくるので、少しだけここでお待ち頂けますか」
「わかりました」
シスターはこちらに背を向けて、教会の建物へと歩いていく。
その後ろ姿も美人で、ついつい目を奪われてしまった。
まっすぐな背筋で、歩き方も綺麗だ。
「なんというか絵になるなぁ……」
さてと。待ってる間、どこかで休ませてもらおうかな。
ずっと歩きっぱなしで、さすがにちょっと疲れちゃったし。
辺りを見てみると、ちょうど近くにベンチがあった。
よし、あそこで座って待っていよう。
一人で頷いて、わたしはベンチに向かおうとする。
「ガウ!」
不意に背後から犬のような声が聞こえて、わたしは足を止めた。
後ろを確認しようと振り向く。
「きゃっ!」
なにかに衝突して、わたしは石畳に尻餅をついた。
「い、いたたたた……」
情けない声を出すわたしの眼前に、いきなり手が差し出される。
目線を上げると、そこには見知らぬ男性の姿があった。
男性は無言で、こちらに手を伸ばしてくれている。
わたしはおずおずと腕を伸ばし、遠慮がちに男性の手を取った。
すると男性は、わたしを力強く引っ張り立ち上がらせてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「……大丈夫か?」
「は、はい」
お尻はちょっと痛いけど。
「そうか」
「あの、ごめんなさい」
「あ?」
「いやその、ぶつかっちゃったので……」
わたしが振り向きざまに衝突したのは、きっとこの男性だ。
いつの間に背後に立っていたのだろう。まるで気配とかしなかったけど。
「怪我とかしてませんよね?」
「別になんともねえよ」
ぶっきらぼうに答えて、男性はそっぽを向く。
「よかったです」
わたしは、ほっと胸を撫で下ろす。
男性がチラリと目線だけをこちらに向けた。鋭い、琥珀色の目をしている。
「お前、この教会の人間か?」
「いいえ、違いますけど……」
「そうかよ」
男性は所在なさげに頭をかいた。
なんだろう。それにしても……よく見るとイケメンだ。
年齢は、わたし……『ルベーリア』と同じぐらいかな。
銀色の髪に、端正な顔。長身で均整の取れた身体をしている。
青色のロングコートに、黒いロングブーツといった感じの出で立ちなんだけど、それよりも気になるのは背中の大きな剣だ。
全体的な雰囲気も、只者じゃないって感じ。
この人、いったい……
「ガウガウ!」
うん? さっき聞こえた犬の鳴き声だ。
「あら……」
男性の足元にいる、小さな影に気がつく。
白いフワフワの毛を持った、可愛らしい子犬だった。
犬種は、なんだろう。シベリアンハスキーかな?
とにかく、この子が声の主で間違いないだろう。
「可愛い……貴方の犬ですか?」
「違えよ」
「え? 違うんですか?」
その割には足元にお座りして、嬉しそうに尻尾を振っているけど……人懐っこい子なのかな?
可愛いな……シャルさんがいたら、とんでもなく喜ぶんじゃないかな。
「いや、そうじゃねえ」
「はい?」
「こいつはオレのだ」
「え、どっちなんですか」
さっきは違うって言ったじゃない。
「だから違うってのは、こいつは犬じゃねえって話だ」
顔をしかめながら、男性はそう説明する。
「犬じゃない?」
「ああ、こいつは狼だ」
狼? 狼って、あの狼? ウルフ?
「……またまた、見かけによらず冗談がうまい」
「冗談じゃねえよ。ていうか見かけによらずってなんだ、オイ」
こんなに可愛いのに、狼……うーん、信じられない。
わたしは屈み込んで、ワンちゃん……じゃなくて狼ちゃんに「おいでおいで」と手招きしてみる。
すると、狼ちゃんはテテテとわたしの前まで走り寄ってきてくれた。
「ガウガウ」
わたしに向かって、小さく鳴き声を上げる。
なにかを喋っているようにも思えるけど……
トッブウド・イタリベーシャを使えば、この子とも会話できるんだろうな。
でも、魔法って人前で使っても大丈夫なのだろうか。
わたしの知る『サント・ブランシュ』の世界では、魔法っていうのは当たり前に存在している物だったと思う。
でも、ここは二〇〇年後の世界だ。
もしも魔法が当たり前じゃなくなっていたら?
……うん、念のため魔法は使わないでおこう。
狼ちゃんとお喋りできないのは、かなり残念だけれど。
せめて頭だけでもナデナデしておこう。
わたしは手を伸ばし、狼ちゃんの頭をそっと撫でる。
「ガウガウガウ」
狼ちゃんは目を細め、尻尾を左右にフリフリ。
喜んでくれている、のかな?
「……珍しいな、こいつがオレ以外に懐くなんて」
不意に男性がそう呟いた。
「そうなんですか?」
「ああ」
ちょっと意外かも。すごく人懐っこく見えるんだけどな。
やっぱり、お喋りできないのは残念……そうだ、名前ぐらいは聞いておこう。
「お名前はなんていうんですか?」
「あ? ……ミカエラだ」
「へぇ~、ミカエラちゃんですか。名前も可愛いんですね」
わたしは狼ちゃん……ミカエラちゃんの頬を撫でる。
「ガフフフッ」
なぜかミカエラちゃんが変な声で鳴いた。どうしたんだろう。
鳴き声っていうか、まるで笑い声みたいだったような。
「おい……」
「え?」
男性が出したのは、なんだか怒っているような戸惑っているような、微妙な声色だった。
「どうかしました?」
「……ミカエラは、オレの名前だ」
「――あっ」
そういう。なるほど。
「なんか、ごめんなさい」
とりあえず、わたしは謝る。
「ちなみに、狼ちゃんのお名前は?」
「クソ、始めからそう訊きやがれよ……ライオネルだ」
「ライオネル」
思ったよりも勇ましいお名前だった。
「ライオネルか……じゃあ、ライちゃんだね」
「ガウ!」
「勝手に縮めるな」
「そうなると貴方は……ミカちゃんですね」
「やめろ」
心の底から嫌そうな反応をされてしまった。
「……ところで、名前は?」
「わたしですか?」
「ああ、こっちだけ名乗るのは不公平だろうが」
たしかに、それもそうかもしれない。
「ルビィです」
フルネームを名乗るのは避ける。ちょっとだけ気は引けるけど。
「……ルビィか。あんまりボサっとしてんなよ、ルビィ」
「気をつけます……」
背後に音もなく立たれたら気をつけようがないけど。
「じゃあな。行くぞ、ライオネル」
「ガウ!」
ミカエラさんが歩き出す。その後に、ライちゃんも駆け足でついて行く。
一度だけこちらを振り返ったライちゃんに、わたしは小さく手を振った。
「教会に行くみたいだけど……どんな用事なんだろう?」
どこからどう見ても、聖職者って感じではない。
お祈りとか、懺悔をしに来たとか?
うーん……失礼だけど、それもなさそう。
「ま、いいか」
これ以上、考えてもしょうがないだろう。
ミカエラさんとライちゃんの後ろ姿を眺めていると、ちょうど教会の扉からシスターが出てきた。
シスターがミカエラさんの前で立ち止まり、頭を下げる。
ミカエラさんは、そのまま教会の中に消えていった。
本当に何者なんだろう。
そう思っていると、シスターがわたしの前までやってくる。
「お待たせしました」
「いえ、ぜんぜん大丈夫です」
気になるし、シスターに訊いてみようかな。
「シスター、さっき教会に入った男の人って……」
「ミカエラ様ですか?」
「はい、そのミカエラさんって、どういう人なんですか?」
シスターは頬に手を当てて、小さく首を傾げる。
「実は、わたくしもよく知らないのです」
「そうなんですか」
「ええ。神父様のお知り合いのようで、時々教会にいらっしゃるのですけれど……あまりお話をしたことはありません」
そうなのか。ただまあ、悪い人ではなさそうだけど。
「ミカエラ様が、どうかなさいましたか?」
「あはは、大きい剣とか背負ってるから気になっちゃって」
「たしかに、あの剣はわたくしも常々物騒だなと思っているのですけど……」
なんだろう。ミカエラさん、なにか気になるんだよなあ。
特に銀色の髪と琥珀色の瞳が、誰かに似ているような気がする。
誰なのかは思い出せないけど。
◆
シスターの案内で、寂れた通りを歩いていく。
「そういえば貴女……えっと……」
わたしの目を見ながら、シスターは固まった。
もしかして名前かな。
「ルビィです」
「ルビィさん。素敵なお名前ね」
「ありがとうございます」
真正面から素敵な名前とか言われると、なんだか気恥ずかしい。
「わたくしはミリアといいます。改めて、よろしくお願いしますね」
シスター……ミリアさんが、たおやかに微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
あ、しまった。
わたしも「綺麗なお名前ですね」とか付け加えるべきだったかな。
実際、綺麗な響きの名前だし。
「それでルビィさん」
悶々としている間にも、ミリアさんは会話を続ける。
完全にタイミングを失ってしまった。
「な、なんでしょう」
「ルビィさんは、どうしてリスルムに?」
「リスルム?」
やや遅れて、それがこの町の名前だと思い至る。
「えーっと……わたし、旅をしていて、この町にはたまたま立ち寄ったというか」
「そうなのですね。さきほど、はぐれてしまったと仰っていた方と旅をなさっているのですか?」
ミリアさんが言っているのは、シャルさんのことだろう。
さっき状況を説明するときに「人とはぐれちゃって」と、わたしが話したのだ。
「ええ、そうです」
「ルビィさん。どうですか、この町は」
「いい町だと思います」
本心からそう感じている。
酒場の店主も、ミリアさんもいい人だし。
ご飯も美味しかったし。
「ふふ、そう言っていただけると、わたくしも嬉しいです」
会話をしながら歩くうちに、わたしたちは市場の前までやって来ていた。
「ありがとうございました」
ミリアさんに頭を下げる。
「もう大丈夫ですか? よければわたくしも一緒に、お連れの方を捜しましょうか?」
「いえいえいえ、そこまでしてもらったら悪いですから!」
さすがに遠慮してしまう。
「本当に大丈夫ですか?」
ミリアさんは、どこか不安げな眼差しだ。
わたしって、そんなに頼りなさそうに見えるのかな。
だとしたら……もうちょっと、ちゃんとした方がいいのかもしれない。
「ええ、平気です。お世話になりました」
背筋を伸ばし、改めてお礼の言葉を口にする。
「……わかりました。機会があれば、いつでも教会に立ち寄ってくださいね」
お互い手を振って、別れる。
わたしは、ミリアさんが雑踏の中に消えるのを見届けた。
さて、シャルさんはどこだろう。
わたしを置いて、屋敷に帰ってたりして……それは、ちょっと笑えない。
「ルビィさん」
不意に背後から声をかけられた。聞き覚えのある声だ。
わたしは振り返りる。はたして、そこに立っていたのは、満面の笑みを浮かべたシャルさんだった。
「いやあ、随分と捜しましたよ」
にこやかに言って、シャルさんはわたしに近づく。
「シャ、シャルさん……?」
安堵したのも束の間、わたしは思わず後退る。
「おや、どうしたんですか?」
笑顔が怖い。これ、絶対に怒ってるよね。
う、うう……ここは素直に謝ろう。
「ごめんなさい!」
わたしは頭を下げる。
「…………いえ」
しばらく沈黙した後、シャルさんが口を開く。
わたしは、おそるおそる頭を上げた。
そこにあったのは、苦笑するシャルさんの顔だ。
「こちらこそ、すみません。私が不注意でした。……とにかく、無事でよかった」
「いやいや、わたしがボンヤリしていたからです」
「いえ、私がルビィさんから目を離したせいです」
なんだこれ。なにを主張し合っているんだろう。
おかしくなってきて、つい吹き出してしまう。
「笑い事ではないのですが」
「はい、ごめんなさい」
そういうシャルさんだって、ちょっと表情が緩んでます……と思ったけど、余計なことは口にしないでおこう。
「ルビィさん、お互い気をつけましょう」
「わかりました」
「ところで、はぐれている間は不用意に街の人と接触したりしませんでしたよね?」
わたしはシャルさんから盛大に目を逸らす。
「ルビィさん?」
「え、えーっと……」
でも、ミリアさんとミカエラさんは不可抗力だと思う。
「ふ、二人ほど」
「はぁ……詳しく聞かせてください」
わたしはシャルさんに、はぐれている間の出来事を話した。
「なるほど。それぐらいならば、問題はなさそうですね」
「ちなみに、ミカエラさんという人が連れていたワンちゃんがとっても可愛かったんですよ」
あ、違った。ライちゃんは狼だ。
「よし、今すぐ教会へ行きましょう」
シャルさんが無駄に真剣なトーンで言い放つ。
わりと予想通りの反応だった。
「と言いたいところですが、そろそろ屋敷に帰りましょう。残念極まりないですが」
シャルさんは深く嘆息する。
どんだけ落胆してるの。気持ちはわかるけど。
「あ、帰る前に少し市場で買い物してもいいですか?」
「構いませんが、なにを買うのです?」
「晩御飯の食材です」
「ああ……」
納得したようにシャルさんが頷く。
「それなら屋敷の厨房に、いくらかはありましたが」
「本当ですか? どれくらいありました?」
「いや、正確な量までは……」
ならやっぱり、食材は買っておいた方がいいだろう。
今夜だけじゃない。明日からも必要なんだから。
そうと決まれば、お店に突撃だ。
◆
教会に入ったオレは、まっすぐに礼拝堂へと向かう。
会いたい人物は、きっとそこにいるはずだ。
「さっきのお姉さん、面白かったね」
後ろをついてきているライオネルが、楽しげに声を弾ませた。
オレは狼であるライオネルと会話を交わすことができる。
いや、狼だけじゃない。昔から、色んな動物と会話することができた。
「珍しいな、お前が気に入るなんて」
ライオネルはオレ以外の人間に、ほとんど気を許さない。
今日は槍でも降るんじゃねえか。
「あのお姉さんは、いい匂いがしたんだ」
「いい匂い? 食うのか?」
「違うよ! 肉食だけど、人間は食べないし!」
知ってる。単なる軽口だ。
「なんだろう……説明は難しいけど、優しくてあったかい匂いだよ」
「ふーん……」
まるでわからねえ。変な女って気はしたが。
「そっちも楽しそうに話してたじゃない、ミカちゃん」
「は? 気のせいだろ。あとミカちゃんはやめろ」
からかうような口調のライオネルを睨む。
くそ、あの女……妙な呼び方しやがって。
そうこうするうちにオレたちは礼拝堂の奥まで進み、目当ての人物の前に立った。
「おや、ミカエラくん」
こちらに気がついたそいつが、少し意外そうな声を出す。
カソックを着た、温厚そうな顔をしている男だ。
年齢を聞いたことはねえが、見た感じ三十代ぐらいだろう。
こいつは服装の通り、この教会の神父を務めている。
「珍しいですね。『依頼』がないのに、町へ顔を出すなんて」
「……まあな」
普段、オレは「依頼」がなければ町には訪れない。
他人は苦手だし、住人が狼のライオネルを怖がるからだ。
たまに、さっきの女みたいに犬と勘違いするやつもいるが。
「どうかしたのですか?」
「ここらで最近、変わったことは起きてねえか」
オレの質問に、神父は顎に手を当て考え込む。
「変わったこと……例えば、どのような?」
「まあ、オレが出向いてくるようなもんだな」
神父は緩やかに首を横に振った。
「いや、最近だと魔物やらの被害は出ていないはずだよ」
「そうか……」
オレは魔物狩りを生業としている。
代々、そういう家系に生まれたからだ。
どうもオレの家は聖女プリムラの子孫……らしい。
同じく魔物狩りだった両親から聞かされた話だから、嘘か本当かはわからない。
ただ、聖女プリムラもオレみたいに動物と会話ができたという言い伝えがある。
だからなんだという話なんだが。
「もしかして、なにか感じたのかい?」
神父が眉をひそめ、オレに訊ねる。
「ああ」
昔からオレは、よくない気配に敏感だった。
魔物だの亡者だのが出やがるときは、決まって胸糞悪い感覚が纏わりつく。
そんな嫌悪感を、町の周囲に感じ取ったのだ。
「ふむ……なら、気をつけておくよ。町の衛兵にも警戒をするように伝える」
「そうしてくれ。ところで、この辺りにはたしか曰く付きの場所があったよな」
「魔の森と、魔法使いの塔跡かい?」
「ああ、そいつだ」
どっちも聖女プリムラの伝説が残ってるとか聞いたような気がする。
魔の森には吸血鬼を封印したって話だったか。
魔法使いの塔跡は、聖女と戦った悪の魔法使いの根城だったらしい。
「そこがどうかしたのかい?」
「どっちが町から近い?」
「うーん……両方そう変わらないと思うね。でもまあ、どちらかといえば魔法使いの塔跡が近いんじゃないかな」
「わかった。じゃあな」
別れを告げて、神父に背を向ける。
「ミカエラくん」
歩き出したオレに、神父が声を投げかけてきた。
「ありがとう」
なんの礼かは知らないが、オレは立ち止まらずに背を向けたまま片手をあげて応える。
そのまま、礼拝堂を後にするのだった。
「なにカッコつけてんの?」
「うるせえよ」
礼拝堂を出た途端、ライオネルが絡んでくる。
まったく口の減らないやつだ。
「行くぞ」
「ねえ、なんとかの跡ってとこになにしに行くの?」
「魔法使いの塔跡な。念のための確認だよ」
ライオネルが不思議そうに頭を捻る。
「確認って?」
「あそこには妙な噂もあるみてえだしな。夜になると亡霊が出るとかなんとか」
「ふーん。じゃあ、その亡霊がミカエラの感じた気配の正体なのかな」
「わからねえ」
だから、それを確かめに行く。
なにもなければ、それでよし。
もしもなにか出やがったときは……オレは背中に背負った剣の柄を握る。
なにが出ようと、叩き斬ればいい。
「ちょっとミカエラ、こんな場所で剣なんか抜いたら危ないよ」
「抜かねえよ」
「じゃあなんで柄を握ってんの?」
「いやこれは」
「あ、わかった。またカッコつけてたんでしょ」
違うし。気分を高めてただけだし。
「本当にミカエラってば格好付けなんだから」
「……ライオネル、今晩飯抜きな」
「なんで!?」
そんなやり取りをしながら町を出て、魔法使いの塔跡を目指す。
できれば何事もなけりゃいいんだが。
◆
市場で買い物をしていたら、すっかり夕暮れ時になっていた。
荷物を持ったわたしとシャルさんは町を出て、街道を歩く。
屋敷に帰る頃にはもう日が沈んでいそうだ。
「……ふう」
ちょっと荷物が重いかも。
はりきって買いすぎたかな。でも食べる物は必要だもんね。
でも、シャルさんにも持たせちゃったのは申し訳なかったかな。
「シャルさん、荷物重くないですか?」
少し前を歩くシャルさんに声をかける。
……あれ。返事がない。聞こえてないのかな。
「おーい、シャルさーん」
「……ああ、すみません。少しボンヤリしていました。どうかしましたか?」
今度は反応があった。でも、なんだか様子がおかしい気がする。
わたしは歩調を早めて、シャルさんの前に回り込んだ。
驚いたように、シャルさんが足を止める。
「ルビィさん?」
わたしは、じっとシャルさんの顔を覗き込む。
夕日が差して少しわかりにくいけど、ちょっと顔色が悪い気がする。
「シャルさん、もしかして体調が悪いんじゃないですか」
「……いいえ、私はすこぶる快調ですよ」
「本当にですか」
ずい、とシャルさんに寄った。
「……ええ、本当です。まったく問題ありません。ほら、早く帰りましょう」
わたしを避けて、シャルさんは前に進もうとする。
「待った!」
行かせるか、と再びシャルさんの前に回り込む。
「少し休憩しましょう」
「しかし、もう日が暮れて……」
「ちょっとぐらい平気ですって」
これ以上ポポちゃんを待たせるのは、気が引けるけども。
「シャルさんが倒れても、わたし運んで行けませんよ」
胸を張って宣言する。
「つまり困るので、休みましょう。ほら、ちょうどあそこに、おあつらえ向きの場所がありますし」
わたしが指さした先にあるのは、いい感じの木陰と椅子代わりにできそうな岩だ。
「……わかりました」
困ったように微笑みつつ、シャルさんは了承してくれた。
二人で木陰まで歩いていく。岩はひとつしかない。
「シャルさん、座ってください」
「ありがとうございます」
シャルさんは荷物を置いて、岩に腰かけた。
わたしも荷物を地面に下ろして、うーんと伸びをする。
ちらりとシャルさんに目を向けてみた。
「……は……は……っ」
あれ、なんだか悪化してる……?
シャルさんは胸を押さえ、辛そうな呼吸をしていた。
「ちょ、ちょっとシャルさん、大丈夫ですか?」
「……は……来ないでください!」
鋭い声音に、わたしは身を固くした。
「……はぁ……は……あっ……ルビィさん……理解しているかわかりませんが、私も吸血鬼なんですよ」
――ああ、そうか。
無意識に考えないようにしていたのかも。
シャルさんだって、クロウと同じなんだ。
吸血鬼は、活動するだけで多くの魔力を消費してしまう、らしい。
だから魔力が多く含まれる血液を吸わなければならない。
そうしないと理性をなくしちゃうんだった、よね。
なら、わたしが今やるべきことはひとつだけだ。
「あの、シャルさん……」
口を開くと同時。
わたしの背後でカラスのような鳴き声が大きく響いた。
驚いて、思わず身体ごと後ろを振り向く。
するとそこに立っていた木から、大きな鳥が羽ばたいて行った。
「び、びっくりした……」
心臓がバクバクいってる。
さて話の続きを……と向き直ろうとしたところで、不意に後ろから抱きとめられた。
「シャ、シャルさん……!?」
戸惑うわたしの顎に、シャルさんの手が触れた。
なにこの状況。さっきより心臓が暴れてる。
「……はっ……あ……」
シャルさんの口から、苦しそうな息がこぼれる。
「ちょ、ちょっと……シャルさん?」
「ルビィさん、すみません……貴女に負担をかけるのは心苦しいのですが、しかし……私はもう限界のようです……」
か細い声で口にしながら、シャルさんはわたしの外套の掴み、首筋を露出させた。
「シャ、シャルさん……!」
わたしは身体を動かして、シャルさんを引き離そうと試みる。
たしかに血を提供しようとはしたけど、こんな強引な形でなんて考えてなかった。
なんとか抵抗してみるけど、シャルさんはビクともしない。
そうするうちに、シャルさんが頭を動かす。
わたしの首筋に顔を近づけて、シャルさんは口を開いた。
鋭い牙が、わたしの首にブツリと食い込む。
「い……た……」
鈍い痛み。血を、魔力を吸われている感覚。
じゅる、ごく……と、血を啜り嚥下する音が耳朶に響く。
「――……っ」
なんだか恥ずかしい気持ちになり、わたしは両目をきつく閉じた。
やがて、シャルさんはゆっくりとわたしから離れる。
振り向くと、シャルさんは恍惚とした表情で口元の血を拭っていた。
「ル……ルビィさん……」
ハッとした顔になって、シャルさんはわたしに近づこうとする。
わたしは反射的に、身を強張らせた。
シャルさんが動きを止めて、眉尻を下げる。
「……すみません、私は……」
「……いえ。大丈夫、です」
わたしは、なんとか笑ってみせる。
とはいえ、ちょっと怖かったというのが本音だけど。
「シャルさんは、もう平気ですか」
「は、はい、おかげさまで……」
気まずそうに、シャルさんが答える。
「ならよかった」
そこで脱力感に襲われて、ふらつきを感じた。
「ルビィさん!」
駆け寄ってきたシャルさんが、わたしを支えてくれる。
「本当に申し訳ありません、私のせいで……」
謝るシャルさんに促されて、今度はわたしが岩に腰かけた。
うーん、クラクラする。
クロウに吸われたときより辛い。
「……大丈夫ですか?」
「すいません、ちょっと大丈夫じゃないです」
わたしはきっぱりと答える。
「シャルさん、休んでいってもいいですか? また帰りが遅くなっちゃいますけど」
「もちろん……そもそも私の責任です」
シャルさんは目を閉じて、わたしに頭を下げる。
うーん……この世界の吸血鬼ってもっとこう、「人間はエサだぜゲハハハハ!」みたいな印象だったんだけどな。
いや待てよ、クロウとシャルさんはそうでもなかったっけ?
記憶が曖昧だ。それに頭がボンヤリしてる。
……あ、そうだ。
はたと思い出して、外套のポケットに手をいれた。
「あった」
ポケットの中から、それを取り出す。
手のひらサイズの小さな瓶だ。
中に詰まっているのは透明な液体。
「ルビィさん、もしかしてそれは……」
「はい。クロウ様にもらった薬です」
クロウから血を吸われた後に飲んだ薬。
この薬には噛まれた傷の治癒と、魔力を回復する効果がある。
出発前に、念のためにと渡されていたんだった。
きっとクロウは、シャルさんがこうなることを見越していたんだろう。
瓶の栓を抜いて、中身を一気に飲み干す。
うぅ……やっぱり苦い……。
でも効果は抜群だ。シャルさんに噛まれた傷が、たちどころに治っていくのがわかる。眩暈もマシになってきた。
「……ふぅ。シャルさん、少し休んだら出発しましょう」
「平気なのですか?」
「はい、歩けるぐらいには回復するので」
前回もそうだったし。
「あ、でも……」
わたしは地面に置かれた荷物に目をやる。
さすがに持って帰るのは、まだきついと思う。
「荷物でしたら、私が持ちます」
察しのいいシャルさんだった。
「でも、結構ありますよ?」
「問題ありません。これぐらいは、させて頂きたいのです」
決然と言われて、わたしは頷く。
しばらく休んでから、わたしたちは出発するのだった。
森の入口に着く頃には、すっかり日が沈んでしまっていた。
「あ、おねえさーん!」
「ポポちゃん!」
モフモフの丸っこい姿が、わたしたちを出迎えてくれる。
「……ああ、やはり愛らしい」
背後でシャルさんがそう呟いていた。
本当に好きだな。気持ちは大いに理解できますけど。
「……あれ?」
ポポちゃんが、わたしに顔を近づけてくる。
「うん? どうかした、ポポちゃん?」
「おねえさん、どこかけがでもしたの?」
「え?」
心配そうな眼差しで、ポポちゃんがわたしを見つめてくる。
ウルウルとした瞳が、わたしを……わたしを……!
うん。落ち着こう。
「怪我なんてしてないよ」
あ、いや、待てよ。
わたし、シャルさんに噛まれたじゃない。でも、その傷はもう薬で治ってる。
だから、やっぱり怪我はしていないはずだけど……
「でも、おねえさんからちのにおいがするよ。それに、えりのところもよごれてるし」
あ、本当だ。外套の襟に、わたしの血が付着している。
「……もしかして」
ポポちゃんが、ギロリとシャルさんを睨めつける。
「きんぱつきゅうけつきに、ちをすわれた?」
ポポちゃん、鋭い。
「おねえさんにつらいおもいをさせるなんて……ゆるさなーい!」
ドガガガガ! と、ものすごい音が響く。
シャルさんの額を、ポポちゃんが嘴で何度も突いた音だ。
「ぐはぁ!」
持っていた荷物を宙に放り投げながら、シャルさんが仰向けに倒れた。
うわぁ、めちゃくちゃ痛そう。
「だ、大丈夫ですか」
倒れたシャルさんを覗き込む。
「ふふ……怒った姿も愛らしい」
あ、なんかまったく問題なさそう。
額がすごく真っ赤になってるけど。それだけで済むっていうのもすごい。
「おねえさん、やしきまでぼくにのっていって!」
「いいの?」
「もちろん!」
まだ歩けるぐらいの元気は残っているんだけど……ポポちゃんに乗せてもらえるというのは魅力的な提案だ。
ポポちゃんが少し身体を屈めてくれる。
「それじゃあ失礼して……よっと」
すごい。見た目通り、乗り心地もフカフカだ。
「なんて羨ましい……!」
音もなく起き上がっていたシャルさんが悔しそうに呻くのだった。
ポポちゃんの上は、とても快適だった。
「とうちゃーく」
暗い森の中を進み、屋敷の前に帰り着く。
「よいしょ」
わたしは、ポポちゃんから降りる。
「ありがとう、ポポちゃん」
「どういたしまして~」
ポポちゃんの頭を撫でる。うーん、やっぱり癒されるなぁ。
「……何事もなかったですね」
シャルさんが安堵したようにそう口にした。
そういえば、森に入ってからやたらと周りを気にしていたみたいだったけど……
「どうかしたんですか、シャルさん?」
「ルビィさんは、なにか感じませんでしたか」
「いえ、特には……ちょっと不気味だなってぐらいですね」
「そうですか……」
「え、なにかあるんですか?」
シャルさんが背後を振り返る。
「昼間とは違い、なにか妙な気配があるような気がしまして」
「それって、魔物ですか?」
「おそらくは……」
言葉の歯切れがよくない。確信が持てていないような感じだ。
「おかしいなぁ」
と、ポポちゃんが漏らす。
「どうしたの?」
「このもりに、まものなんていなかったはずなんだけどなぁ」
「そうなんだ……あれ、でもポポちゃんは?」
「ええ?」
「ポポちゃん……ヒポグリフは大別すれば魔物だってクロウが言っていたような」
「ははっ」
あれ、もしかして笑って誤魔化した?
「ルビィさん、ポポはなんと?」
「この森に魔物なんていなかったはず、だそうです」
「ふむ……もしかしたら、これもまた聖女の封印が関係しているのかもしれませんね」
「聖女の、ですか?」
「ええ。この森には聖女の封印が存在していた。それが、魔物除けになっていたのではないかと」
なるほど。でも封印が消えちゃったから、魔物が寄ってきたのかな。
「……いきなり襲ってきたりしないですよね」
「おねえさん、まものがでても、ぼくがおいはらうよ!」
なんとも頼もしい。
「屋敷の近くにいる限りは大丈夫でしょう。ですがルビィさん、決して一人で出歩いたりしないように」
「わ、わかりました」
魔物が出ても、今のわたしには対抗手段がない。
……この世界で生きていくなら、なにか考えないと駄目だ。
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