第三十一話 現実の壁4

 そしてクルミアは容器の中身をおもむろに指で掬うと、鼻梁の傷に塗りたくった。


「何をする!」

「見て分からない!? あなたの傷を治すためにお薬を塗ってあげてるのよ!」


 動揺した獣魔族はクルミアの治療を躱せず、肌への接触を許してしまう。

 ぱくりと開いた傷口が紫苑色で覆い隠されたのを見て、周りの魔族にも動揺が広がった。


「や、やめろ! 俺は貴様のような上から見下ろすだけが取り柄の奴に、情けをかけられたくない!」


 周囲の反応にも敏感らしく、鼻に塗られた薬効が染みわたる前に薬を削ぎ落し、毛を逆立てて牙を覗かせる獣魔族。

 興奮した拍子に閉じかけていた傷が開いたらしく、じんわりと赤みがかっていて。

 気炎にも苦し気な息遣いが混じっており、横隔膜が不規則に上下している。


 しかし明らかな絶不調の様子を見ても、野次馬の魔族は顔色を変えず、むしろ賞賛するような雰囲気を醸し出していた。

 僕は貴族がここまで嫌われているとは露知らず、内心で絶句する。

 意地でも施しは受けないと固辞する彼に、クルミアはどう接すればよいのか。


「ふんッ!!」


 結論。頭から軟膏を直撃させる。


 ――いや待て、度肝を抜かれてまともな解説ができなかった。

 詳しく説明するなら、クルミアが手に持っていた軟膏の容器を、中身ごと獣魔族のケモ耳上部におっ被せたという表現になる。


「は……が?」


 熱に反応して溶ける種類だったので、熱帯の地域では殆どが液体になる。

 獣魔族は軟膏が上向きについた耳を伝って額に差しかかった所でようやく、突飛なこの状況を把握したようだった。


「貴族風情が、どこまで俺を虚仮こけに――ぐッ!?」


 怒りに身を任せ頭の薬物を散らそうとするも、時既に遅し。

 クルミアのうねる尻尾が相手の両手を前腕ごと束縛し、重力と同じ方向に力を加えて下半身の動きと共に封じていた。

 次の瞬間には水鳥の捕食を想起させる素早さで、頭に堆積した軟膏を全身の傷口に広げていく。

 唯一自由な舌鋒で引き剥がそうとしても、患部に触れているのとは逆の左手で口をつままれるので如何ともしがたい。


「むーむーむー!!」

「はいはい、静かにしましょうね!」


 暴れるのを他所に、クルミアはものの数秒で処置を終えたようだ。

 恥辱を耐え忍びながら藻掻く獣魔族を解放し、しゃがんで目線を揃える。


「もう、故郷に向ける顔がないぞ……」


 治療されたのがよっぽど堪えたらしく、三本ある内の尻尾がどれも変な方向に折れ曲がっていた。

 初期には力なくしな垂れていたので、止血による効果は覿面だ。

 もっとも、クルミアに助けられた事で心中複雑だろうが。


「死に顔を見せるつもりだったのかしら?」


 飄々とそう答えるものだから、獣魔族の顎は関節症を起こす一歩手前まで開かれる。

 喉の奥がここからでも視認可能になっているので、その奥が血よりも赤き深紅に染まっているのが明白だった。

 再び体内を循環し始めた血がすぐさま脳天へと昇りつめ、灰色の毛と緋色の肌のコントラストが激怒の兆候を。

 拘束から解き放たれた後の絶叫が、想像を介入させない程彼の憤懣を伝えてくれる。


「貴族というのはいつもそうだ! 庶民の都合など一顧だにせず、善意で脚色した悪意を振りかざす! 故郷に錦を飾れという甘言で騙し、戦奴隷として操られた屈辱を、俺たちは絶対に忘れない――――こんな救護如きで、一族の誇りを贖えるものか!」


「――あなたの誇りは、死んでも誰かの助けを求めない事なの!?」


 間髪入れずにクルミアが詰問するものだから、僕はまじまじと彼女の姿を眺めてしまった。

 華美なドレスは埃と血で汚れ、石で破かれた肩口から痛々しい青あざが嫌でも目につく。踵を支えていた柱は折られ、偏平足になりそうな造りに変形している。

 そして普段と特段変わらない小ぶりな口の端から赤い筋が一滴伝っているのを認めて、僕はまた混沌とした心持ちになってしまう。


「……そうだ。特に、お前のような贅沢者の貴族にはな!」


 獣魔族は少し考える素振りを見せてから、唸るような低音でクルミアを拒絶した。

 紫色の歯茎が消耗具合を示しているが、眼力だけは衰えない。

 睨み合いを続けている二人の間に強風が砂粒を巻き込んで吹き、互いの衣服を薙いで通り過ぎる。

 僕の方にまで風が届いて、砂が入る独特の痛みに目を瞑ってしまう。


「ならこうしましょう!」


 腕で顔を覆ってから視力が回復すると、案の定と言うか何と言うか、クルミアがまたしても新たな試みを始めたようだった。

 真っ向からこれだけの敵意を向けられて動じないなら、今朝僕が石の投擲から庇ったのも本当は無意味だったのでは。


 ――ドスン!


 空回りな行動に赤面する僕を他所に、クルミアがガロック雑貨店から持ち出した肩掛け鞄を獣魔族の前でひっくり返していく。

 中に入っているのは数十、いや三桁にも及びそうな軟膏の数々だ。


「おい、これはどういう――」

「私に治されるのが嫌なら、あなたが代わりに自分と他の魔族を助けなさい!」

「――は?」


 一つを拾い上げて獣魔族の手中に押しつけたクルミアは、尻尾を天に向けながら宣言した。

 柳眉が真っすぐ吊り上がっていて、二カ月前に殴られた時もこんな顔をしていたなぁ、と場違いにも考えてしまう。

 そして、昔の振り返りができる程度には空気が凍りついていて。


「ふ……ふざけるなよ!」


 膨らんだ空気に針を刺したのは、獣魔族の裏返った絶叫だった。

 貧血でよろける足腰を押し切って、クルミアの胸ぐらを掴み上げ――


「それはこっちの台詞だっつーの!」


 ようとして、逆に中空に浮かばされてしまう。

 彼女の馬鹿力を知っている僕も、未だかつて見た事のない怒声に気圧されてしまった。


「う――は、離せ……」

「離さないわよ! あのね、貴族が嫌いなのは分かるけど、死んでも構わないなんてどんな了見してるの!」

「お、俺にはウィール族長としての誇りが」

「命を賭しても守りたい誇りなら、そんなものは便所にでも捨てる事ね!」

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