第三十話 現実の壁3

「僕にクルミアの事を詳しく教えて下さい」


 首を動かすとまた胃液が落ちてしまいそうなので、目だけで懇願する。

 僕は硬く水気のない地面に爪を立て、困惑しているガロックの反応を待った。


「――ハァ? どういう義理があってお前に教えてやらなくちゃならねぇんだ」

「そこをどうにかお願いします!」


 案の定拒否された。しかしここまでは織り込み済みである。

 僕は停滞しろと訴える足を無視して、ずずいとガロックの足元まで迫った。

 突然の奇行に体をのけ反らせるガロックだったが、涙袋を腫らした顔のまま僕の首を掴み直す。

 締め技が好きなようだ。


「いい加減にしねぇと首へし折んぞ。クルミア姫の命令とはいえ、俺が守る保証はどこにも――」

「今のままじゃ駄目なんだ!」


 アカネを戦争に連れていくと聞いてから、クルミアに魔族と人族はどのように争っているのかを教えてもらおうとした事がある。

 顔をくしゃくしゃにして「また今度説明するわね」とはぐらかされたけど、僕はあの瞬間に、どれだけ彼女を傷つけたのだろう。

 クルミアを暗くさせていたのは、僕の不躾な発言のせいによるところが大きかったのだ。

 意味深な言葉の数々も、受け身にならずに行動すればもっとよい返事ができたかもしれない。


「クルミアに気を遣われてばかりで、無理に明るく振舞わせてた。本当なら謝りたいよ――けど、言葉よりも行動で示さないと」

「ッチ――」


 ガロックの舌打ちに怯まず、最後まで伝える。


「僕はクルミアに、心の底から笑ってほしい!」


 静寂が辺りを満たすよりも早く、最後の発言が癇に障ったらしいガロックが僕の顔を殴っていた。

 火花が散って、揺れた脳みそが平衡感覚を失う。

 鼻が折れ曲がったのではないかと疑う激痛に耐えつつ、膝をついて四つん這いの姿勢になった。


「おめぇはさっきから滅茶苦茶な話しかしてねぇな。まず、今更取り繕たってクルミア姫との溝が埋まるわけないだろうが。人族の身分を忘れてんじゃねぇぞ、この怠慢野郎」


 視界が回復しない中、頭上から煮えたぎる溶岩のように熱く、それでいて極寒の凍土を想起させるガロックの叱責が降り注ぐ。

 なんとか言い返してやりたかったのに、呂律が回らず呻き声が漏れるだけ。

 しかもガロック弁に一理あると思ってしまった自分がいて、殊更に言語機能の回復を遅くさせていた。

 鼻血を手で拭っている僕の前から、ガロックが足早に立ち去る気配がして。


「ま、待って」

「待たねぇよ間抜け」


 制止も振り切り、巨体なのに軸の通った無音で雑貨店へと帰ろうとするガロック。

 オルバードに負けた時の無力感が肩に伸し掛かって、涙袋に溜まった水分を零さないよう必死になる。

 ここで泣いたら弱虫そのもの。非があるのは僕の方なんだから、被害者ぶるのは愚かを通り越してそれこそ屑だ。


「あとな――」ガロックの靴音が消え、爪先と砂利が擦れて土埃をあげた。

 追加の暴言がやってくる。慣れているはずなのに、どうしてか途方もなく怖かった。

 砂塵の一粒が眼球に忍び込んで、涙と一緒にごろごろ動き回る。


「そいつを知りたいなら、直接その目で確かめろ。ぶつかる痛みをなくそうなんて、甘ったれた事考えんな」


 ――――え。


 ぼやけた視界で見上げるのと、ガロックが助言らしき置き土産を残したのは、ほぼ同時だった。

 呆然として目を瞬かせる僕を認めた大男は、苦虫を食い潰したような顔をして背中越しにこう語った。


「もう一遍でもクルミア姫を悲しませてみろ、そんときゃお前を骨も残さず殺してやっからな」


 ガロックは入り組んだ路地に迷いなく向かい、すぐさまその姿を消してしまう。

 僕は笑う膝に鞭打って、クルミアの元へ急いだ。


 *


「余計なお世話だ! さっさと失せてくれ!」

「あっ……」


 僕がクルミアに合流してからの最初の光景は、彼女が持ってきていた薬を傷だらけの獣魔族が叩き落とす瞬間だった。

 獣の特徴を色濃く引き継いでいて、僕の申し訳程度の擬態とは違う。

 狼のような毛は豊かに波打ち、手足からは鋭い爪が研ぎ澄まされて光っている。

 全身のあちこちに裂傷が目立つものの、これなら魔法を使わずとも軟膏だけで治りそうだ。


「でも、放っておくと化膿して病気になっちゃうわ」

「本陣でふんぞり返って指揮も禄にできない貴族様に施しを受ける程、俺はまだ落ちぶれちゃいないんだ! ウィール族長としての誇りだってある!」


 しかし魔族自身が治療を断れば、治る傷もそのままである。

 長方形の容器が硬い地面に音を立てて転がり、空虚な反響を辺りに広げた。

 振られた爪はクルミアの手首にも当たったらしく、動脈から止めどなく血が溢れている。

 止血もせずただ落ちた軟膏を眺める彼女からは、諦観が漂っているように見えた。


「……かじゃないの」

「あぁ?」


 貴族装束に身を包んだクルミアに視線が殺到する中、肩を震わせながらの呟きが獣魔族にもたらされる。

 気力がないのか石は飛んでこないものの、敵意の濃度は内円付近と比べ物にならなず。

 まずは僕がいない時の様子を観察しようと考えていたのに、朝令暮改で駆け寄りたくなってしまう。

 こんな逆境の中、いくらクルミアといえども平常心を保てるはずがない。


「はっきり話せよ貴族のお嬢様。口は開くためにあるんだぜ?」


 嘲るような気配。

 毛むくじゃらのせいで表情は伺えないが、顔の部位をありありと想像できる類の。

 首を傾げる仕草は村にいた犬そっくりでも、見分するような厭らしさは拭えなかった。


 僕は心臓が奇妙な脈動を刻んだのを受け取って、厚くなった胸筋に手を添えた。

 ――どうしてだろう。

 自分へなら平気のはずが、何故か体が熱くなる。放っておくなと声がして、腕に不思議と力が籠る。

 持て余した意識の正体を深く考えずに、僕は熱に浮かされた心奥の指示に従おうとする。


「馬鹿って言ったのよ! この分からずや!」

「なっ!?」


 そうして上がった右足は、しかし前へ置かれず垂直方向に回帰した。

 尻尾でびしりと獣魔族を指して、泣いているのかと想像した顔は憤怒一色。

 面食らって驚きの声を上げた獣魔族に並んで――例えるなら温泉だと思って入った風呂が、実は冷水だったのと同じくらいの衝撃を――僕も受けていた。

 クルミアはそんな僕たちの様子などお構いなしに、拾い上げた軟膏を魔族の鼻づらに突きつける。





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