第二十九話 現実の壁2

 魔王国アズルカナンドは大きく内円と外円の二種類で区別されている。

 内円は同心円状に発展したこの国の中心で、王城や貴族の住む屋敷が存在する。

 賭博場や娼館などの娯楽施設が立ち並び、夜になっても欲望渦巻く魔紅灯の光が消えないという。

 それとは対照的に、戦争で逃げ延びてきた魔族の受け皿として拡張した土地を外円といい、工事も適当なありあわせの家や、回復魔法も覚束ない医者が常駐している貧困街になっている。

 荒れ果てた土地では動植物も育たず、飢餓と疫病で苦しんで死ぬ。


 知識だけでは知っていた。

 ただ、どこか遠い世界の話だと考えていた。


「ギンジ君には、刺激が強すぎたかしら」


 片翼をもがれた鳥型の魔族が、包帯を巻かずに断面を吹きすさぶ風に揺らしている。

 耐え忍ぼうと瞑られている目は片方しかなくて、左目は空洞。

 足元には幼い子供が体を震えさせ、羽毛にひっしとしがみついていた。まだ暑いはずなのに、いや、青い顔をしたその子は足首から先がない。


「あ、あ、あ…………」


 足が棒になって、関節だけがすとんと折れ曲がる。

 その拍子に外套がはだけるが、クルミアが外円に着く直前に『獣耳擬態』の魔具を貸してくれたので騒ぎは起きない。

 しかし気づかれたとしても、沈痛な面持ちの彼らには、もう叫ぶだけの気力は残っていないのかもしれなかった。


 ぴちゃり。


 尻もちをついた手に何かがついた。

 血の気が引いた掌に、それはよく映えた。

 鉄錆のつんとした香り、黒くなる前の新鮮な赤。

 粘り気がある血が糸を引いて僕に挨拶をした瞬間、胃の底から迸る衝動を抑え切れなくなった。


「うぷっ、おげ――」

「ここで吐くんじゃねぇよ」


 助けに入ったのはクルミアではなく、僕を嫌悪しているはずのガロックだった。

 素早く抱きかかえると肥溜めの穴に僕を連行し、胃液と丸薬を垂れ流す様を顔を顰めて見つめていた。


「ぅおぇぇぇぇぇぇ…………はぁ……ぁ」

「……俺はクルミア姫からの定期連絡で、お前の出自やら人となりは聞かされてたんだ。田舎出身の無知で優しい純粋な男だから、あまりいじめるなって」


 えづきの波が一時的に収まり、付着した血を地面にこすりつけていた僕の頬を、ガロックが鷲掴みにする。

 体の向きを変えられて吐き気が再燃するのも取り合わず、ガロックは怒りを露に吠えた。


「だけどよ、俺たちの故郷を奪って得意げな顔をしてる人族に、どうして優しくしてやらなくちゃならねぇんだ!? 戦って傷ついた奴の苦しみも知らねぇで、いっちょ前にゲボだけ吐いて――なあ、教えてくれよ。どうやったら前らみたいな屑が生まれるんだ」


 オーリッド村は北端に位置しており、南で行われている戦争には無関心の者が多かった。大切なのはその年の収穫量で、戦はおとぎ話の世界だった。


「黙んなや。ここで事情を説明するくらい、前線で殺し合いするのに比べたら屁でもねぇんだよ」


 知らぬ所で、命が削られ燃え尽きていた。

 漂う腐臭に息を詰まらせながら、僕は本当にこの惨状を引き起こしたのが人族なのか、答えの出ない疑問を脳裏でころころ転がして。

 風に乗って人と同じ赤い血液が目尻に付着したのと同時に小さく「嘘だ」と呟いた。


「ふざけんじゃねぇぞお前ぇ!」


 加減なしの拳が僕の顔面を打ち抜いて、数回跳ねた後に酸化した岩にぶつかって止まった。

 痛いはずなのに痛くなくて、ただ重たいだけの体を折り曲げて唸る。

 ずきずきするのが内側なのか、それとも更に奥の部分なのか判別がつかない。

 だた現実に帰ってきた意識だけが、ありのままの世界を映している。


「『ごめんなさい』って謝れよ! 詫びて、俺たちの足舐めてから奴隷として死ねよ! こちとらお前の母親も、父親も、親しい奴ら全員に土下座させてから首を撥ねても気が済まねぇくらいなんだぜ!?」


 ガロックは右腕に岩を纏わせていたが、刃を形成していなかった。

 錯覚ではなく、流れる血の多さで薄緋色に染まった大気の奥で、振り抜いた姿勢のまま静止している。


「『嘘だ』なんて言いやがって……俺たちがこんなに苦しんでるのを、人族は知らないってのか……?」


 明瞭に歪んだ彫りの深い顔から、大粒の涙が零れた。

 透明な雫は大地の色を僅かに薄くして、楕円の模様を作る。

 騒ぎを聞きつけて他の魔族が布地の壁から顔を覗かせるも、泣いているガロックの顔を認めるやいなや、幕の内側へ引っ込んでしまう。

 彼らも共通して体の部位が欠けており、虹彩の色が消えかけていた。

 僕はこみ上げる胃液を嚙み殺し、灰色の空を仰ぎ見た。


『天の恵みを神から授かる我々こそが誇りある人族なのです。奇跡の天啓がない者は神の懐に忍び寄る狼藉者。そのような存在は速やかに排除するべきなのです』


 いつかの宣教師が、仰々しい口調でこう語っていたんだよな。

 あいつのせいで僕は村外追放されかけて、アカネが助けてくれなきゃ野垂れ死んでいた。

 太陽の下にいるのに資格が必要なんて狂った考えだと思っていたけど、皆は奇跡が使える自分たちが選ばれた存在だと愉悦に浸っていた。

 空はいつだって平等なのに、人は勝手で傲慢だ。


 ――ああ、そうか。


 きっと僕が迫害されていたのと同じ理由で、魔族も攻撃されてしまったのだろう。

 ガロックに説明できる状況ではないし、言いたくもない内容だったので、僕は静かに目を伏せた。


「……その、ガロックさん」

「……んだよクソガキ」


 ガロックはささくれ立った腕で瞼を擦って、疲労を隠し切れない表情でこちらを睨んだ。

 この発言によっては、僕が肉ミンチにされて肥溜めに捨てられる可能性がある。

 しかし無知でいるよりかは、こうした方が随分とマシな選択であるように思えた。

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