第三十二話 現実の壁5
クルミアは獣魔族を藁の床に放り投げ、腕を組んで見下ろす。
「あなたが死んだら、同族は誰を頼ればいいの!?」
その一言を聞いた途端、獣魔族の目がはっと見開かれ。
怒りが怒りを呼ぶ惨状が嘘のように静かになる。
「ウィール族長って言ったわね。嫌いな貴族に何回も教えちゃうくらい大切にしてる役職をほっぽり出して――同族を見捨てて楽になるつもり?」
かと思いきや、クルミアが獣魔族を煽って台無しにした。
「俺はッ、俺はァァァ!!」
押し黙っていた獣魔族は瞳孔を開き、再びクルミアに向かって突貫した。
不思議なのは、クルミアの方にも避ける意志が見受けられない事だ。
仁王立ちのまま、丁寧に磨き上げられた爪の照準を合わせられても動じず、獣魔族は身長差をそのままに相手の頭に突き刺そうとする。
慌てて仲裁しようとするも、魔法も短距離走も人並みの僕には到底不可能だった。
「グ……ガ……?」
瞬きが許されない突然の切迫は、しかし最後まで完遂されなかった。
獣魔族は三歩進んだ時点で体制を崩し、前のめりで力を失う。
本人すらも何が起こったのか理解していない様子で、敵意と迷いが混ざった眼光を残したまま。
「ほいっと」
クルミアがすぐさま反応しなければ、疲労困憊の獣魔族はそのまま気絶していたかもしれない。
爪が当たって服が破けるのも厭わずに抱きかかえると、仰向けに寝かして膝枕の姿勢を作る。
「俺は……お前が嫌いだ」
「嫌いで結構。私は仲間と矜持を天秤にかけてどっちを取るのか、きちんと選んで欲しかっただけ」
獣魔族は元の掘っ建て小屋に連れていかれ、うず高く設えた麻枕に横たえられた。
表情は苦渋で歪んでいようとも、もはや抵抗する気力は消え失せているようだ。
首を僅かにもたげて積まれっぱなしの軟膏に失笑し、諦めたように天井の木目を数え始める。
「その薬は置いていくわ。どう使うかはあなたが考えなさい」
クルミアはその様子をやっぱり少し悲しそうに見てから、寝息を立てそうな獣魔族に背を向けた。
「名前を……教えろ」
獣魔族が最後に、思いもよらない一言を告げる。仏頂面でクルミアとは真反対を向いているものの、彼女に興味をもったのは間違いなかった。
ぴくりと背中が撥ねて、今度は少し嬉しそうなクルミアが、横臥している所まで小走りで近づく。
魔族の常識には当てはまらない行動にどよめきが広がるが、それを打ち消すような大声が彼女によってもたらされ。
「私の名前はラミーリィ・クルミアルド! いずれ女王となり、貴族の世界を根本から変える女よ! 覚えときなさい!」
一瞬の静寂の後に阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
クルミアルドとは即ち、この国を統治する最高権力者たちの家名なのだ。
僅かな上流階級が裕福な暮らしを送れる仕組みを確立し、帳尻合わせで庶民には圧政を強いる諸悪の根源が、名乗りを上げればどうなるか。
「クルミアルドって、バーグの家名だったよな!?」
「馬鹿、バーグ王だろ! い、いえ別に俺はこいつと何の関係もない通りすがりの……」
「俺たち友達だろ!? 裏切る気かよ!」
「話を合わせろよ! 打ち首になりてぇのか!」
「あっ、すまん」
嚙み合わせの悪い会話が聞こえてきたけど、僕は全く笑えなかった。
内容が物騒なのはもちろん――声を潜めて怯える魔族が印象的だったから。
一様に顔を青くさせ、震えているだけなら可愛いものだ。中にはズボンを湿らせ、蹲り嘔吐してしまう者もいる。
「で、でもラミーリィは絶縁されたはずじゃ……」
「そうなのよ!」
「ヒィッ!!」
クルミアだけが、ここでも己を貫き通した。
暑さと興奮、もしくは緊張で珠の汗を浮かべる彼女は、顰めき合う集団から情報を抜き出し、びしりと話主へ指を指す。
射貫かれたツノの生えた男に沿って魔族の人垣が割れ、当人は縮こまってしまう。
「でもね、まだ私はクルミアルドを捨てないわ! この国を変えるには王座がどうしたって必要になるもの!」」
「失礼しましたぁぁぁ……罰則だけは勘弁をぉぉぉぉ……」
殆ど聞こえていないだろう男に向かって宣言するクルミア。
どうして家名を省略してまで呼ばせるのか、その謎が氷解した瞬間でもあった。
「皆も今は辛いだろうけど、私が女王になったら戦争もすぐに終わらせて、平和な国を作るから! もう少しの辛抱よ!」
「お許しぃぃぃ…………は?」
――溶けた氷はすぐに固まった。
男は顔を覆った手の隙間からクルミアを覗き、信じられないものを見るような目をしてか細い絶叫を収める。
そろりそろりと離散していた魔族たちも後ろ足をぴたりと止め、戦々恐々としていた様子が嘘のように素早く翻った。
各々の顔には深い憎悪が刻み込まれ、等しく全方位から照射される。
「おい、今なんつった……?」
「平和がどうとか語ってたよな」
「どの口がほざいてやがる」
「クルミアルド家の妄言だわ」
「何かの罠かもしれん、気をつけろ」
よく見ると各々の足は細やかに震えていて、疲労と恐怖からか立っているだけで辛そうだ。
元の居場所へと戻りたいだろうに、誰も欠けずに一致団結するくらいにクルミアの発言が度し難いのか。時には肩を貸し合って背筋を伸ばす。
握った拳から血を流している者、頭の包帯がドス黒く変色している者、歩ける魔族が続々と参加していって。
自然と弧を描いた包囲網が狭まっていき、沈着だったクルミアの足も半歩だけ下がった。
「そういやさ、こいつはクルミアルド家を追放されたんだよな?」
それを好機と捉えた集団の一角から、爆弾のような一言が投下された。
呟きと呼ぶには余りに大きく、全体に向けて訴える火種。
ちりちりと黒い炎が燃え広がって爆ぜるまで、そう長くはかからない。
「それなら貴族でもないし、何をしたってお咎めはないんじゃないか?」
「落ち着け、もし噂話が広まっただけならお終いだぞ」
「き、貴族に手を出すなんて私には……」
逡巡する層が最後の砦だったのに。
「貴族が俺等の住む外円まで来た事なんて、一度もないじゃん――ここでやってもバレねぇよ」
八本腕の蜘蛛男がそう扇動した事によって、あえなく瓦解してしまった。
腕と同じ数の複眼をぎょろつかせ先頭に躍り出ると、おもむろに帯刀していたファルシオンを抜き身にする。
幅広の片刃を陽光に反射させると、武器の優位性を確かめるようにクルミアの胸元へ突きつけた。
側面についた視界には、ある種の興奮にあてられて伝播した熱気が。正面には沈痛かつ必死なクルミアの表情が見えているのだろう。
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