第十話 特訓開始
つんつん、つんつん。
「うう――し、尻尾が迫ってくる……」
つんつん、つんつん、ちくちく。
「違う、僕は胸を見たかったわけじゃないんだ……」
ベシッ!
「ほぉい!」
「あ、起きた」
僕は罠にかかった兎のような動きで飛び上がり、顔についた砂をはたく。海水を吸ってしつこく手に残る泥は、手頃な位置にある物体にこすりつける。
今一つ回らない頭で白い棒きれを掴む。おや、陶器みたいにスベスベだ。汚れ取りとしては失格だけど、まあ何度か往復させればいい。
さすさす、さすさす。
「きゃ、ちょっとやめ……やめてっ!」
「ほぐっ!」
頬に熱い衝撃と、背中にこれまで以上の泥が付着した感触。なんだって僕は、寝起きの一動作すら満足に行えないのだろう。
幸か不幸か脳の覚醒という面ではこれ以上ない一打だったので、ようやく一日を始められそうではあるが。
昨日は悪魔と天使の両方に会った激動の日だった――悪魔がオルバードで、天使がクルミアだ――さて、今日はどうなる事やら。
「ギンジ君って一度
「クル、ミア、さん?」
真夏の太陽をものともしない白磁色の肌を、羞恥と怒りで赤く染めたクルミアが、寝起きの第一風景になった。僕が擦りつけた泥を手首のスナップで弾き飛ばし、スリット入りドレスにかかるのを無視して二撃目の拳を用意している。
お互いの距離は殆どないに等しい。僕は寝起き頭に、ようやくクルミアが怒っている理由が分かってきたので、仕方なしにその攻撃を引き受けようと考える。
肘を中段に構えたのに合わせて、なけなしの腹筋に力を込める。一応鍛えていたし、内臓くらいは守ってくれ。
「おいしょぉ!」
「…………っっっ!」
肋骨の中間地点を見事に打ち抜かれ、息が吸えなくなる。義父と喧嘩して殴られた時よりも強く、臓器の位置がずれたかと思わせる高火力だった。
クルミアが怒っている理由――それは僕の行いに他ならない。尻尾ではなくお尻を観察し、会話ではなく全裸に集中してしまった、不埒極まりない態度。
一晩外の風にさらされてから考えると、殺されてもおかしくない変態っぷりを披露していたのが分かる。
「はい、これでおしまい」
…………おや?
「も、もぉ殴らないの……?」
「そうね。昨日と合わせて三回分殴らせてもらったし、これで手打ちにしてあげるわ。それとも、足りなかったかしら?」
僕は頸椎がねじ切れんばかりに首を振って、もう一息分の空気を肺に送り込む。
「……胸とかっ、お尻とかぁ、ジロジロ見てごめんっ」
呼吸難から語尾を崩しながらも、僕は最初に言うべきだった謝罪を口にする。怒涛の展開に、機を逃してしまっていたとも言えるけど。
「し、ジロジロ……? うーん、やっぱりもう数回お灸を据えてあげなくちゃ駄目なのかしら?」
「いやっ、その、言葉の綾ってものがありまして……」
どこまでも失言ばかりの僕は、体よりも先に口を鍛えるのを優先した方がいいのかもしれない。
東から上る太陽に冷や汗まみれの顔を照らされながら、訪れる破滅の未来に腹を震わせる。殴られた部分が対クルミア警告装置になり、鳩尾から下腹部にかけて、さざ波のような振動が広がった。
「ふふっ、冗談に決まってるじゃない」
「はへ?」
クルミアの表情筋が唐突に緩む。瞬きをする間に、険のあった眉尻も定位置に戻り、おかしくてたまらないと、品のある笑い声を響かせる。
情けなくも腰を抜かしていた僕を両手で立ち上がらせ、気楽そうに黄緑色の幾何学模様を呼び出す――魔法だ。
「はいっ、これで痛くなくなったわね。今回はこれで許してあげるけど、次やったらだだじゃおかないから、忘れないように」
「うん、ごめ…………!」
あくまで気楽に、水に流すかのような一言に、僕はすっかり気を抜いていた。年不相応の口調もいつも通りで、魔法を使う手順も大体同じ。
けど、治療の為にすぐ近くまで来た時に、桜色に紛れて充血した目と、すぐ下に紺鼠の隈があるのを見て、途中で言葉が固まってしまう。
あれは、僕のせいだ。
泣き明かした人の顔を間違える筈がなかった。昔のアカネとそっくりだから。
許してあげる。
全く、どういう風に育ったらここまでのお人よしになれるんだか。
「ギンジ君? まーた考え事?」
ここで言葉にするのは簡単だ。食い下がればクルミアは絶対に答えてくれる。
それで僕の気持ちが晴れるならやればいい。
「いーや、違うね」
「??」
断言してから、小首をかしげたクルミアの小脇を通り抜ける。
さくさく、と水を吸っていない砂の、霜柱みたいな音を楽しみつつ、膝を曲げないで歩いてみる。泥と砂の境界線は分かりにくいけど、確かに存在していた。
「僕、強くなりたいな」
一際強い風がうなじをなぞって、髪の毛を巻き込んで流れていく。寝ぐせも相まって、強烈なうずまきを作っている頭頂部を梳こうと手を伸ばす。
「ぷっ、ふふふ……あはははははは!!」
気障っぽく手を挙げた僕の後ろで、鈴の音と錯覚するような笑い声がした。
振り向くと、クルミアが全身をくねくねしながら、腹を抱えるという高等芸当をこなしていた。
波の満ち引きに合わせて、笑顔を精一杯封じ込めてから、また我慢できずに声を上げる。あっけにとられ口を半開きにしている僕に、クルミアは再び吹き出し、唇を上下左右に動かす。
「普通この流れでいきなり【強くなりたい】なんて言う!? ……あ、ダメ、ギンジ君の顔見てたらまた笑えてきちゃう……っぷぷ!」
「…………あ」
クルミアが笑っている理由に思い至った僕は、自分の意志とは関係なく赤くなった頬を押さえて、冷まそうとする。
しかし悲しいかな、指の先まで火がつきそうなくらい熱くなっていて、冷却機能には期待できそうもない。
潮騒と共に、クルミアの笑い声がいつまでも続く。殴られるよりも、よっぽど身に堪える罰だった。
「ひーひーっ……はひ……………」
結局数分間もクルミアは笑みを絶やさず、僕が海水に溶けそうな程の恥辱を味わわせてくれた。まぁ、女の子の裸を見てしまった罰としてはこれくらいが妥当……なのかな?
クルミアは目尻にたまった水滴を上品な仕草で拭ってから、口角を定位置に戻そうと苦心している。筋肉痛にでもなったのか、顔中が痙攣していた。
しかし、それでも年長者の風格というか、醸し出される気配が損なわれていないのが不思議ではあった。尻尾からフェロモンでも出しているのかもしれない。
「はふぅ……まさか、初めての人族がこんな変なのになるなるとはね」
「言い返せない僕って……」
「ふふっ、カッコ悪いわね」
太陽の光がクルミアの髪の毛を反射して、海に光の雨が降り注ぐ。それに呼応するみたいに、森の奥から獣の鳴き声や、木々の梢がこすれる音がした。
非日常に誘い込まれたような気がして、僕はいじらしい笑みのクルミアから不意に視線を逸らす。
「でも、ギンジ君の気持ちはよーく分かったわ。――――だから、いますぐ強くなりましょう」
「へぬ?」
目線の先には、何もなかった。クルミアも、彼女を照らしていた太陽も、潮風を漂わせていた海も、砂も、貝も、そして、地面さえも。
ただしっとりした白い世界が、僕の前に突如として現れていた。
肘を誰かに掴まれて、力を入れる前に体勢を崩される。あっと言う間もなく、底なしの白霧へと体が包まれて――
「どうかしら? 私の『五里霧中』を受けた感想は」
「は、ほ?」
さっきから二文字しか話していないのは、僕の知能指数が突然下がったからではない。むしろ、突然変わったのは景色の方だ。
太陽も、海も、砂も――ってこれはもういい。
くるりと一周して見渡しても、天井知らずの高木が見えるだけ。日の光は、葉っぱに遮られて地上までは届いていないようだ。
目が慣れるまで待つと、次に見えたのは足元に生える螺旋形に積み上がった石と、意志を持って動いているとしか思えない刺々しい植物。
閉鎖的と錯覚させる空間に、時折聞こえる人ならざるものの叫び声が、僕を竦ませた。
「クルミア、これはどういう――」
「私の話は無視? んー、ま、この状況じゃ仕方ないか」
少し怖くなった僕は、隣にいるクルミアになるべく平静を装って声をかける。
彼女は僅かにむっと眉を寄せてから、すぐさま得意げな顔になって、最後には不安げな表情になっていた。この心理を僕に教えてくれる人がいたら、金一封を差し上げたい。
クルミアは両手を広げ、胸いっぱいに空気を吸い込む。それから爪先を直立させて回って見せると、勢いそのままに僕へ人差し指を向けた。
「ギンジ君にはここ『泣き虫の森』で修行をしてもらいます」
「……ちょ、ちょっと、いきなり何言ってんだよ。もっと丁寧に教えてくれないと――んぐ!」
余計に混乱を膨らませた僕は、クルミアの元へにじり寄る。元々オーリッド村でしか暮らしてこなかったので、急激な環境変化に追いつけていないのだ。
しかし、顔色を変えて次なる追及をしようとした口に、背後に忍んでいた尻尾が蓋をしてしまう。
「んぐ……ぎ! む……!」
「いきなり連れてきたのは申し訳ないと思ってる。けど、もしギンジ君が助けてもらった恩を少しでも感じているなら、私に協力して」
「んむ……?」
有無を言わさぬ怪力で張りついた尻尾を剝がそうと、握力を総動員して力んでいた僕に、お風呂の時よりは確固とした、けれどどこか切迫した声が聞こえた。
朝からずっと、もしかすると昨日から見せていた物憂げな態度と今の発言。関係ないはずかなかったけど、こうも呼吸器を圧迫されると考えもまとまらないし、
「――はぐっ!」
「きゃっ!」
――――尻尾に噛みついてみると、意外とあっさり解放してくれたぜ。
「私が真面目に話してるのに、ギンジ君はそうやってちょっかいをかけるんだ……」
「待て待て、一旦落ち着こう。……とりあえず場所云々は別にして、なんでクルミアはそんなしょぼくれた顔してるんだ?」
「だって、私がギンジ君を無理矢理連れてきたから嫌だったのかなって……」
なんの躊躇いもなくそう口にするのを聞いて、僕はクルミアが理知的な見た目にそぐわず、抜けている所があるのだと知った。嘘をついている、なんて勘繰りは正直者を塗って固めたような彼女に対して失礼だろうし。
それとも、冷静な思考ができないくらいに焦っているのだろうか。
「急に連れてこられて驚いたけど、僕の修行のためって言われたら怒るわけないだろ」
「えっ、どうして……?」
「落ち着いて。――だってさ、クルミアは僕が【強くなりたい】って言ったからここを教えてくれたんでしょ?」
「そうだけど……」
「だったら、何もおかしな事はないじゃないか」
「…………」
僕の口下手がまたこんな所で作用しているのか、いまいち釈然としないやり取りになってしまった。至極真っ当な言い分だったと思うけど、クルミアはまだ納得してくれていない。
すれ違う言葉を交わしているだけじゃ、察しの悪い僕がその気持ちを汲み取ってあげれない。
うやむやにしたくない、今度はそう素直に思えた。感情をぶつけるのが怖かろうとも、一歩踏み込まなないと後悔する。予感めいた直感。
弱気を押し潰し、僕はクルミアの手を握りしめた。下心はないぞ、賭けてもいい。
所在なさげに揺れ動く目を見て、僕は相槌を打つ間も与えずに心の裡を吐き出す。
「僕にはクルミアが何を考えてるのか分からない。けど、僕がクルミアを信じてるっていうのだけは分かって欲しい。命を救って、おっかない怪物も倒してくれてさ――その上、全部を知っても僕を笑わなかった。恩を感じてるなら協力してって? そんなの言われるまでもない。修行するのがクルミアのお願いなら、むしろ頼むのは僕の方だ」
息継ぎもほどほどに、僕は体に籠った熱を言葉に乗せ続けた。
「僕は、クルミアと一緒に強くなりたい」
クルミアははっと目を見開いてから身じろぎをして、手を離そうとした。負けじと僕も指を絡ませて、手首ごと固定する。
ロマンチックな恋人繋ぎとは違って、ただ動けないようにするだけのもの。
けど、触れていれば心は伝わる。少なくとも、僕はそう信じていた。
「……私、ほんとは悪い魔族で、ギンジ君を育てて食べちゃおうとしてるかもしれないのよ?」
「クルミアがいなかったら昨日死んでただろうし、それならそれで本望だ」
「…………ギンジ君を利用して、自分の願いを叶えようとしてるかも」
「利用されるだけの価値があるなんて、僕は自分が誇らしいよ」
言い切ってから、固唾を呑んでクルミアの様子を伺う。
言葉の限りを尽くしたとて、全てが届くわけではない。瞑目し、呼吸の間隔を伸ばしたクルミアがどう感じたのか、地面に寝そべる尻尾からも読み取れなかった。
「「…………」」
森と寄り添う静寂を感じる頃、息遣いと共に開かれた目からも、得られる情報は何一つとして――――いや、
「……分かった。私が一からみっちり教えてあげる」
虹彩に秘められた決意を僕が汲めなかっただけか。
爛々と、までは言わずともより一層の輝きを見た僕には、もう推測するだけの資格がなかった。肩まで伸びた髪をかき上げ、不敵な笑みを浮かべたクルミアにする詮索など、存在するはずがない。
「やるからには全力だけど、ギンジ君はついてこれる?」
意気消沈していた彼女はなりを潜め、前屈気味の姿勢でからかうように手を伸ばす。上目遣いと握手を一緒にやろうとしたみたいで、落ち着いたようでまだ割り切れていないのかな――っと、また僕の癖が。
差し出された線の細い指と白磁の掌を見て、人間と魔族、両者共通の文化を感じ入りつつ、僕は手をとる。
「上等。僕だって、中途半端な結果に終わる気はないよ」
世界で初めて魔族と手を繋いだ人間として後世に語り継がれずとも、僕はこの日を忘れない。きっとクルミアもそうだろう。
気分が高揚すると全てが美しく見えるもので、さっきまで肌を焦がしていた緊張感が消え、閉鎖的な空間に落ち着きすら覚えている。
かと言って、油断は禁物。今までの傾向からしてクルミアは即断即決タイプなので、人心地つく前にとんでもない提案をしてくるに決まって、
「それじゃ、まずは魔法使いになるための修行から始めましょうか」
…………ほらね?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます