第九話 露天風呂
「はぁ……」
「ちょっと、ため息をついてる暇があるなら集中しなさい」
僕は薪の火に吹きかけていた息を止め、はっと視線を上げる。
「こっちを向くな!」
「ぐふっ」
堂々とした覗き行為にクルミアは顔を赤らめ、僕の脳天に肘鉄を食らわせた。
その拍子に浴槽から漏れ出た熱湯が僕の足にかかり、処置を後回しにしていた内腿の青あざに響く。
勤労な少年にこの仕打ちとは、鬼か悪魔の所業じゃないか。
「頭が割れるぅ、足が痛いー!」
「弱音を吐かないの! 第一、乙女の裸を見ようとしたギンジ君が悪いんだからね」
「そう言ってもさ――――アカネの事を思い出しちゃって」
「アカネ? 人の名前かしら」
重々しい僕の台詞を受けて、クルミアも騒ぐのをやめてくれる。お姉さん口調なのが頂けないけど、それ以外は本当に気の利く人なんだよな。
湯舟に入った体を捻ったのか、またしても熱湯が降り注ぐ。しかし今度は僕も学んで、中腰のままの回避に成功した。
今の現状をお伝えしよう。
節足野郎を倒した僕達はクルミアの家に帰り、入浴を楽しんだ――訳ではなかった。
なんと、クルミア家の中にはお風呂がなかったのだ。
外にあると聞いてノコノコついていけば、漂着物を利用した石造りの建物が見え、クルミアはなぜか自慢げに「ここが我が家の楽園よ!」などとぬかしていた。
水漏れするんじゃないかと心配したけど、魔法でがっちり固定してあるから大丈夫らしい。水も張っていたし、もう何でもありって感じだ。
そう思ったのもつかの間、今度は湯加減が調整できないという問題が発生した。クルミアが力の使い過ぎで、魔法を使えなくなったらしく、
「ぬるいお風呂なんて、脱皮しない蛇以下よ……」
しくしくと泣いていた。
意味不明なボヤキだったものの、追い込んだのは僕の責任なので、どうにか加熱の手立てを考えた。
結果、薪に火をつけ、木筒で空気を送り込みながら温める原始的な方法に落ちついたわけだ。羞恥からためらっていたクルミアも、刻々と冷えるお湯の前には無力である。
「ねぇ、黙ってないで返事しなさいよ」
僕の回想を打ち切ったのは、クルミアがお風呂の縁に体を預ける音だった。
――今更ながら、目と鼻の先で女の子が裸になっていると考えると、これは結構とんでもない状況なのでは?
「ギンジくーん、帰ってこーい」
「はっ、ごめん」
お湯に浸かっていない方がのぼせてどうする。
僕は前を見ないように反転し、すっかり暗くなった水平線を見つめた。波打ち際の潮騒は、火照った心も沖へと連れていってくれる。
完全に抜けきったわけではないけど、ある程度の冷静さを取り戻せただろう。僕はさんざん焦らしているクルミアの質問に答える事にした。
「アカネは僕の幼馴染だよ。小さい頃から同じ村に住んで育ったんだ」
「ふうん。私にはそんな子いなかったから、少し羨ましいわね」
「でも、今は離れ離れだな……」
いちいち暗い方向へ向かってしまう癖を、いい加減どうにかしなければ。
自分が落ち込んでいるとはいっても、初対面同然のクルミアに負の感情ばかりを浴びせるべきではない。
自分が優しそうな相手につけこんで愚痴をぶつけているみたいで、どうにも気分が悪かった。
「うんうん、分かる、分かるわその寂しい気持ち。私も一人暮らしを始めたばかりの頃は、夜な夜な枕を濡らしていたもの」
「ばっ――――ちがっ!」
僕はすんでの所で罵倒を引っ込め、再び赤くなった顔を両手で覆う。
「そりゃまぁ、寂しいってのは否定しないけど! 僕の複雑な気持ちを一人暮らしと一緒にしないでくれ!」
「どこも違わないでしょ? ギンジ君はアカネさんがいなくて寂しい。私はパパとママがいなくてせいせいするけど、やっぱり心細い。ほら、同じじゃない」
さもありなん、といった様子で発せられたであろう言葉に、反論の余地を見出せない――クルミアが親をパパママ呼びしている件は後回しにするとしても。
クルミアは居心地でも悪いのか、体の向きを頻繁に変えていた。その都度、飛び散った水滴が火の勢いを弱めてしまうので、穴を掘ったそばから埋められているような気分になる。
「あーあ、また零した。こりゃいつまで経ってもぬるま湯だね」
「露骨に話題を変えたわね。ま、私はギンジ君が元気でいてくれるなら何でもいいんだけど」
「――――!」
反射的にクルミアの方を向かなかったのは幸いだった。もし目を合わせていたら、僕の歪んだ表情に覗き罰のげんこつが加わって、混沌とした風景が生まれるに決まっていたからだ。
消えていく口内の苦みを感じながら、改めて目の前の少女に対する疑問が沸き上がってきた。
見ず知らずの、しかも多くの確執を持った人間を助けた理由。ふとした瞬間に感じる、似合わないようで様になっている大人びた態度。聞きたい事はいくらでもあった。
まずは、何より先にお礼を口にしようと思うけど。
「その……ありがと」
「ふふ。クルミアお姉ちゃんにもっと甘えてもいいのよ」
自分の照れ照れした話し方があまりに女々しくて嫌になりかけたけど、クルミアの調子に乗った返事がいい具合に打ち消してくれた。これも計算の内、なんて事は流石にないはず。
尻尾の動きがいい証拠だ。浴槽を叩いているのか、魔法で補強していなければ粉々になっていそうな音がする。
「冗談は一旦ここまでにして。次は親睦を深める質問タイムにしましょうか」
「お姉さんは本気でしょ……?」
「はいそこ! 私語を慎む!」
ビシッ! という音が聞こえそうな勢いで、僕の眼前に蛇柄尻尾が現れる。
お姉さんの押し売りには目をつぶるとして――ここにはこだわりがあるらしい――個人的にはクルミアの意見に賛成だった。ここまで勢いできたはいいもの、不明瞭な点が多すぎるのだ。
「僕も聞きたい事が山ほどあるし、いいよ。クルミアもあるの?」
「もっちろん。なにせ初めての人族だもの! 百個くらいあるわ!」
百はちょっと勘弁願いたい。数個に凝縮してくれないと、夜が明けるまで質問攻めを受けそうだ。
クルミアは陽気に、おそらくは魔大陸産であるメロディの鼻歌を口ずさみ、聞きたい事を整理しているようだった。僕の方はおおよそ決まっているので、しばし待つとしよう。
「――よし、決まった! 質問その1! 人族が使えるって噂の奇跡を見せて頂戴!」
「嫌だ!」
想定しうる中で最悪の内容を出してきやがった。しかも質問じゃないし。
「どうして? 人間は奇跡が使えて当たり前って聞いたわ。大した力でなくてもいいから、もったいぶらずに見せて?」
わざとでないと分かっていても、僕はクルミアにグーパンをかましたい衝動を抑える事ができない。なんて凶悪な発言だ。
僕の事を侮辱している気配は微塵も感じられないので、本当に気になっているんだろうけど、どうしたものか。
どうするもこうするも、素直に話すしか道はない。けど、理屈では分かっていても感情がそれを邪魔するのだ。
誰にだって経験があるに違いない葛藤を瞬時に巡らせ、うんうん唸ってから――僕はやはり理屈を飲み込むべきだという結論に至った。
クルミアには二回も命を救われた恩があるし、この人なら僕の話を茶化さず受け止めてくれるかもしれない。
もし馬鹿にされたら泣くだけ泣いて、また立ち上がれるさ――たぶん。
「……長い話になってもいいかな?」
「ん、よく分からないけど、ギンジ君がそうしたいなら聞いてあげるわよ」
「ありがと」
お礼を言ってばかりだな。僕もいつか、クルミアに感謝される日が来るんだろうか。
頭の片隅でそんな事を考えつつ、僕は自分の半生と今日の出来事をなるべく簡潔に語る。
奇跡を使えない無信仰者である事。そのせいで周囲からの迫害を受けて育った事。
僕が弱かったせいで、アカネを助けられなかった事。
聞きやすいように感情的な部分はなるべく省いて、淡々と話すようにした。
口にしていて気分のいい内容でもなかったし、気の回るクルミアなら十分に伝わるはず。
アカネの話題では少し熱が入ってしまったけど、それくらいは問題あるまい。
「――――そんな訳で、奇跡を見せようにも無理なんだ。がっかりさせちゃったならごめん」
「…………」
クルミアは押し黙っている。
むむむ、やはり僕の口調から隠しきれないマイナスオーラを検知したのだろうか。
やはり「僕は無信仰者の無能だけど、人生元気にやってます! ぶい!」的な、勢いで押し切る系の言葉遣いをするべきだった。
ふと、僕の頬に生暖かい水滴がついた。例に漏れず今回もお風呂の零れ湯と思われるが、初期と比べて随分冷めている。
これは本腰入れてやらないと、井戸水と同じ湯加減になってしまう。いや、水と同じならもはやお湯ではない、ただの水だ。
急かすように頬へ次弾が撃ち込まれる。どうしてかほんの少し温度が上がっていた。
潮風で一時的なブーストがかかったのだろうか。どちらにせよ、この好機を逃す手はない。
よし、気まずい時間を火力増強に費やすとすウホァ!
「決めた!!」
「げほげっ!」
僕はかつてない量のお湯を口に受け、ついむせてしまう。こまごましたのは許していたけど、桶一杯分は許容範囲外だ。
このままだと全部溢れて空焚き風呂になりかねない。
「ポタポタポタポタ零し過ぎだ! ――――よ?」
拳骨が飛んでくるのも忘れて上を向いた僕に、予想だにしない光景が待ち受けていた。
「どしたの……?」
クルミアが全裸で仁王立ちをかましていたのだ。
僕の頭に尻尾を乗せ――肘置きみたいな扱いだ――節足野郎を倒した時と似た、それでいて微妙に違うドヤ顔をしている。本当にどうした。
「私がギンジ君の力になってあげる」
一応の説明はなされたものの、およそ理解不能な内容だった。
あと、さっきから否応なしにクルミアの肢体が目に入って、僕の脳がぶっ壊れそうだ。本人は気づいていないみたいだけど、この角度は精神衛生上非常によろしくない。
その…………クルミアって意外と着痩せしてたんだな。
「よく分からないんだけど……!?」
散らばりかけた理性を総動員して(む、胸に視線が吸われる……!)落ち着いている風の態度を装う。――顔だ、顔を見るんだ僕。
「えーー、分からなかったの? だからね、私がアカネさんを取り返すお手伝いをしてあげようって話よ」
「な……なな……」
さっきまでの煩悩が一気に遠ざかっていく。続いて顔が熱く火照る感覚。
「ひひ、人の話ちゃんと聞いてた? 僕そんな事言ってないよね?」
何故だ。昔話をするおじいちゃんの如く、客観的な語りをしたのにも関わらず、どうしてバレている。
「うん。言ってなかった。だからそれとなく聞いてみたけど――もしかして図星?」
「あああああああああ!!」
僕は両手で頭を抱えてその場で絶叫する。
材料は鎌をかけられた事実と、それにまんまと引っかかった己の浅はかさ。加えて、羞恥と自己嫌悪の隠し味が僕を身悶えさせる。
覚悟を決めたからには周りの反応なんて関係ないはずなのに、どうしてかクルミアに知られたのは凄く恥ずかしい!
「大丈夫だよ」
僕の肩に優しく暖かいものが触れ、軽い口調でも気持ちの籠った声が、ほんのりと耳朶をくすぐる。
そっと手をどければ、肩に移動した尻尾と慈愛に満ちたクルミアの顔が見えた。
「ごめんね、からかうつもりはなかったの。その……私も同じだからさ、なんとなくギンジ君の考えてる事が分かるって言うか、分かっちゃう的な……さ、そういう話」
何のこっちゃ……?
儚げな表情に変わったクルミアに、僕は声をかけ渋ってしまう。どこか諦めを含んだ様子に、つい自分を重ねてしまったからだ。
「クルミア……?」
ほとんど息みたいな囁きが炎に当たって、火の粉を空に漂わせた。
その拍子に意識が森の奥へと向かい、虫の鳴き声が耳に反響した。シュリリリリリィ、と数音交わった、変にむかつく音色だ。
出番を待ちわびていたのか、次第に音量を上げていく異音演奏団。オーリッド村では鈴虫が幅を利かせていたが、魔大陸ではこんな不協和音が存在するのか。
顔をしかめていると、似たり寄ったりのしわ寄せフェイスをしていたクルミアがいきなり大声を出す。
「あーもう! とにかく、私がギンジ君を応援するって決めたの! 文句ある!?」
「え!? 文句は……ないけど」
「ならよし!」
恐ろしいまでのゴリ押しだった。僕以外なら通用しないだろう。
僕はいいのかって? ふっ、いいのさ。
「じゃ、明日は作戦会議ね!」
「う、うん……」
クルミアは言い終わるや否や、湯船からそそくさと上がってしまう。その姿がどうしても空元気を出しているようにしか見えなくて、声をかけようとも考えた――けど、結局は口も開けず、ただ頷くだけに終わってしまう。
(黙っておけばいい。どうせ僕にできる事なんて、何一つありはしないんだから)
「……うるさい」
こんな卑屈な考えが頭を過るのは、人間として当たり前なのか。はたまた、人間扱いされてこなかった無信仰者だからこそ、悪魔みたいに汚くなれるのか――――
「ひゃええええええええええ!?」
そこで嬌声にも似た絶叫がして、僕を現実の世界へ連れ戻す。この声は恐らくクルミアだろうけど、一体何が起こったんだ。
「あ、あたし、あた、たあた……私裸じゃん!?」
嘘だろ……。この人、自分がお風呂に入っていたのを忘れてたのかよ。
ワナワナと震えて――そうだな、直接的に言うのであれば、クルミアは己の上乳を見て激震していたのだ。
そういや、胸が多きい人って自分の足元が見えないって言うけど、クルミア視点では今どんな感じになってるのかな。
なんて益体もない知識を思い出し、僕は興味本位で(ここ重要)クルミアの様子を伺い、
「ギンジ君…………?」
般若よりも恐ろしい顔をした女帝と目が合った。
「こ、これは違うんだ。そう、僕は、僕は……」
「なあに?」
「おっぱいに興味があったんだ!」
しまったァ! 焦り過ぎて本音がそのまま口からポン!
「こんのぉ!」
僕はこの時、本気で怒ったクルミアを初めて見た。尻尾が直線になり、
「ふんっ!」
しかる後に僕の鳩尾に究極の腹パンをめり込ませ、
脳を揺らされ急激に遠のく意識の中で、僕は今日の光景を一生忘れないようにと、星空に祈った。
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