第二話 逃走

「よし! これで仕事おーわりっと。どんなもんだい!」


 汗を拭ってサムズアップするアカネ。

 目の前の奇跡に、僕は正直な感想を口にする。


「凄い。この年でこれが出来るのはアカネしかいないんじゃない?」

「そんな事は無きにしも非ずだよ」

「そこは否定しないんだ……」


 アカネはまんざらでもない顔でそう答えた。絵に描いたような調子の乗りっぷりは逆に清々しい。

 しかし僕はそこで、アカネの表情に確かな疲れの色を見る。平然を装っているアカネの体にはやはり反動が来ていたらしい。

 僕は未だに薄い胸を張っているアカネの右肩を、右手でちょんと押した。


「およよ?」


 たったそれだけの衝撃でアカネの体はバランスを失い、後ろ向きに倒れてしまう。

 僕はアカネの体が地面に激突する前に、彼女の腕を掴んで支えた。引っ張り上げて肩を貸す形を作り、そのままアカネを近くの木陰に移動させる。


「ごめんねギンジ。これくらいならいけると思ったんだけど」

「あんなに奇跡を使ったら、そりゃ疲れもするよ。いいから休んで」


 分かった。アカネはそう言うと木の幹に体を預けた。その様子を見るに動けるまで20分は必要そうだ。


 アカネが倒れたのは熱中症のせいではない。神への祈りの力である『信仰力』が無くなったために起こった症状だ。

 この村では普段、この地を崩壊と混沌の渦から守っていると言われている土地神に祈りを捧げて生きている。

 雨が降れば恵みに感謝し、その水が染みた大地に生きる事を誇りにする。そんな考えを大切にしているらしい。

 

 もっとも僕は特殊な事情から、ここ数年神に祈った事もないし、雨が降っても服が濡れて面倒くさいとしか思わないが。


 そしてここからが不思議な話だが、今の信仰を持つ者にはさっきアカネが使ったような『奇跡』を行使する力がある。

 何でも神が祈りの対価として力を分け与えてくれるそうだ。

 つまり信仰深い人ほど強い力を行使できるという事になる――細かく言うと想像力も関係しているらしいけど、奇跡を使えない『無信仰者』の僕にそこまでの事はわからない。

 

 とにかく信仰力を使い過ぎると、アカネ曰く体が「何とも言えずへにゃへにゃする感じ」になり大変らしい。そして今まさに彼女がそうなっていて、だいぶ苦しそうだ。

 それを見て、僕は奇跡を使わせた事を後悔する。


 奇跡は便利だ。だが、森羅万象を生み出すその力は、持たざる者からすれば異質な能力でしかない。

 そもそも世界を作り変えるような力が、神に祈るだけであっさり使えるのが不思議だ。

 体力――皆は信仰力と呼んでいる――を使い果たしたアカネを見ると不安になる。これが本当に神の力なのかと。


 形容しがたい不安に襲われた僕は、頭をぶんぶんと振って悪い考えを押し出そうとした。

 心配になるあまり、変な考えが浮かんでしまった。大丈夫。今までもアカネは元気になってきたし、それは今日も変わらない。

 体調が良くなったら野菜を叔母さんに渡して、貰った小遣いでお菓子でも食べよう。それで万事解決だ。


 無理矢理ポジティブになった僕は、アカネの介抱の為に動き出そうとした。


「アカネ、今から果実水でも持ってくるからそれでも飲んで元気になって――」

「おやまあ、こんな所で野菜磨きですか。落ちこぼれの癖に随分と呑気なものですねぇ」


 言葉をかき消すように、嫌らしい笑みを浮かべてその男はやって来た。

 夏なのに暑苦しい燕尾服に身を包み、右手には質素な杖を握っている。白みがかった髭をしごきながら、僕の近くまで遠慮なく足を進めてきた。


 彼の名はオルバード。この村で薬剤師をしている男だ。

 初老に近い年齢にも関わらず、着ている服を押しのけるように筋肉が盛り上がっており老いを感じさせない。年齢と体格のギャップも不気味な威圧感を際立出せている。


「またギンジの悪口! 奇跡が使えなくたってギンジは凄いんだからね」


 オルバードに対してアカネはぷんすかと文句を言った。アカネは自分の事を悪く言われても怒らないが、僕の事を貶されるのは許さない。

 ……奇跡を使えないと言われてちょっと傷付いたのは秘密だ。


「おやおや。アカネさんは相変わらずお優しいですねぇ。無信仰者なんてゴミと何ら変わりないって言うのに。ククッ」


 こちらの対応など意に介さずオルバードはアカネに向かって笑いかけた。

 オルバードはアカネにいくら罵られようとも、あの柔和な態度を崩さない。

 しかしそれはアカネ限定の話で、相手が僕となると話は変わってくる。

 さっきまでの笑顔はどこへやら、こちらに向き直ったオルバードは、後半の言葉を侮蔑たっぷりの視線とともにそう告げた。


 これを見れば一目瞭然だが、オルバードは僕の事が嫌いなのだ。

 嫌いという表現すら生易しいかもしれない。僕が生きている事自体が気に食わない、そんな気配を奴からは感じる。


「アカネさん。今日はね、大切な任務があってここに参上したのですよ」


 僕を蔑んだかと思えば、今度はアカネに向かって語り出すオルバード。掴みどころのない会話の仕方も不信感を高めさせる一因だった。

 任務と言うのもおかしい。薬剤師の仕事は薬の調合と販売、村人が野獣に襲われた際の応急処置だけだ。

 外に出る必要はないはず……。


 今のオルバードは普段に増して気持ち悪かった。見た目は清潔そのものな故に、血走った目や、喋るたびぬらりとゆらめく舌がより一層、不快感を与える。

 さっさとどこかへ行って貰わないと、こっちの精神が持たない。


「お前の重要な任務だか何だか知らないけど、僕たちは今仕事中なんだよ。邪魔すんな。それとも僕にちょっかいをかけるのが任務なの? それならお疲れ様とでも言った方が良かったかな」


「いやはや驚きました驚きました。まさかあなたが選ばれるとは思ってもみなかったものですから。いや、血の繋がりとは美しいものです。こんな運命――ああそうですこれは運命! 感謝せねばなりません。このような出会いと、我が身をここへ使わせた全ての御心に、深い深い感謝をね」


 話にならなかった。

 耳も貸さず自分の世界に浸り込んでいる。表情をコロコロ変えながら語り、恍惚に悶えるオルバードに、僕は背中が震える程の悪寒がした。


「アカネ、こっちだ!」


 僕は咄嗟にアカネの手を掴み、オルバードから距離を取ろうとした。原始的な恐怖が足をもつれさせ危うく転びかけるが、何とか踏ん張りながら八百屋の裏手へと走っていく。


 昔、アカネの母に「うちの子が危なくなったら守ってあげてね」とお願いされた事がある。

 その頃の僕はまだ8歳で物事の分別がはっきりとはついていなかったけど、アカネの母――リチュアルの真剣な目は僕の心を揺さぶった。


 あれから9年、リチュアルはこの世にいない。町にコップを買いに行くと言ったきり彼女は帰って来なかった。

 もしかしたら生きているのかもしれない。僕はそう言ってアカネを励ました。

 村の人々も悲嘆に暮れるアカネを見て、捜索の奇跡を使える神父を雇いリチュアルを探させた。


 数日後、神父は苦い顔をしてアカネにあるものを渡した。それはアカネが行商人から買って、リチュアルにプレゼントしたひまわり色のネックレスだった。

 アカネは血がべったり付いて変色したネックレスを胸に抱き、一日中涙を流した。


 僕はそんなアカネを見て、リチュアルの願いを叶えようと思った。

 僕がアカネを助けるんだ。苦しい時はアカネの傍にいて、どんなことからも守ってみせる。


「奇跡も使えないのに、どうやって守るの?」

「体で受け止める」

「……やっぱりギンジは変だよ」


 でも、ありがと。アカネは最後に泣きながら微笑んだ。


 今、その覚悟が試されている。決意を胸に抱えて更に奥へと、八百屋の裏手の坂を駆け降りる。

 離さないようにしっかり握った手のひらからアカネの熱が伝わった。暖かい、太陽みたいな温もりだ。


「ギ、ギンジ!? どうしたの急に走り出して。私まだ休みたいよ」

「いいから! アカネも見ただろ。オルバードの奴、いつもより変だ」


 アカネは僕の言葉に目を白黒させかと思えば、頬を小さく膨らませてシマリスみたいな顔をした。


「それだけでこんな態度を取るのは流石に失礼だと思うなー。いくら嫌いでも礼儀は大切だよ」


 その言葉に僕は呆然として立ち止まる。失礼だって? オルバードの言動だって失礼そのものだったじゃないか。


「アカネはお人よし過ぎるよ! あいつはアカネを舐めまわすような顔で見た。それだけで十分だ! 変態に礼儀は要らない」

「それはギンジの勘違いでしょ! 私だってオルバードさんは好きじゃないけど、それでもこの村でたった一人の薬剤師さんなんだから……ね? 一緒に謝ろ?」 


 宥めるようなアカネの口調に僕は小さな苛立ちを覚えた。アカネを守ろうと思って動いたのに、どうしてその本人に咎められるのか。

 返事をせずに八百屋とは逆方向へと歩いた。信仰力が切れたアカネは「あぅ」と大した抵抗も出来ないまま引きずられていく。


 むかむかしているのに、アカネの手は暖かいままだった。僕は小さな罪悪感と共にずかずかと進む。


「ギンジ、怒ってる?」

「怒ってない」

「嘘だ。怒ってる時いっつも無口になるもん」

「……僕はアカネが心配なんだ」


 ぽつりと呟く。僕のか細い声を聴いたアカネも、くりっとした目をいつになく真剣にして耳を傾けてくれる。


「心配っていうかさ、怖いんだよ」

「何が?」


 間髪入れずの問いに少し考えた後、ふと納得した声色でこう続ける。


「アカネがいなくなるのが怖いんだ」


 アカネはそれを聞いて何を思ったのか、僕の頭へ手を伸ばしてぽんぽん、と撫でた。

 頭一つ分高い僕に触れるため、精一杯の背伸びをしている。

 前髪をゆっくりと繰り返し梳く動作に、僕は時間の流れが緩慢になったような気がした。


「私はいなくなったりしないよ。だからね、ん-と、とにかく大丈夫!」


 アカネは最後に僕の頭を軽く叩いて、花が咲くように笑った。リチュアルの時に作った無理矢理の笑顔じゃなく、自然とこぼれた表情。

 それを見て、ささくれ立った心が自然と収まっていく心地がした。

 僕は唇を小さく持ち上げ、アカネの頭を撫で返す。


「そっか。大丈夫なんだ」

「うん!」

「じゃあ……帰る?」


 そういうと、アカネはゆっくり首を振って前へ進んだ。八百屋とは逆方向だ。


「今は、もうちょっと歩きたいかな」

「仕事はいいの?」

「いーの!!」


 アカネは楽しそうに走り出す。

 信仰力が無くなってからの回復速度が凄まじい。奇跡も目を見張るものがあるし、やっぱりすごいな――


「おーい! 置いてくよー!」


 少し離れた場所からアカネが手を振っている。僕はその声を聴いて、全ての不安や苦悩を棚に上げることにした。

 僕はアカネの方へ足を踏み出して


 吹っ飛ばされた。

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