第三話 別れは突然に
「かはっっ……」
僕は地面を転がる。うずくまり、必死に呼吸を整える表情は苦悶に満ちているに違いない。
鳩尾を殴られたのか、お腹が熱かった。息を吸いたくても体が痙攣するばかりで空気が入らず、意識を失った方がましだと思える地獄を味わう。
「無様ですねぇ。最も、あなたにはお似合いの格好ですが」
地面の感覚を失う朦朧の中、視界に燕尾服の男が移り込んだ。
「オル……バード」
よく見ると、オルバードが着けている手袋が破れていた。
オルバードはその手袋を無造作に放り捨て、僕の頭を強く踏みつける。
「何を……」
「おっと、こんなに近くで話しかけないで下さい。あなたの汚らしい唾液が付いてしまいます」
実際は唾を吐く余裕すらない息も絶え絶えの状態だが、それでもオルバードは気に入らない。
どうにか口を開いた僕の顔を黒光りした靴で繰り返し踏みつけ、目が開けられないほど痛めつける。
「おぞましい! リチュアルの残り香が、ワタクシをこんなに苛立たせる! 畜生が、畜生が畜生が――」
意識はおろか、命までをも刈り取ろうという強烈な蹴りが僕を襲う。抵抗しようにも、酸素を失った体は自由が効かない。
体が痛む度に、目の前から光が消えていく。
「やめて!!」
そこにアカネが割り込んだ。
僕を抱きかかえるようにして暴虐から守ったアカネは、オルバードを鋭く睨みつける。
「オルバードさん。どういう事ですか!」
「はて、何の事でしょう」
「どうしてギンジをこんな風にしたのかって聞いてるんです!」
オルバードは顎に手を添えると、薄ら笑いを浮かべて肩をすくめた。
「そこに
「……!」
その答えを聞いた瞬間、アカネはオルバードを全力で殴った。
少女の力とは思えないほどの速度と威力を持つ拳が、オルバードの頬へと吸い込まれていく。
オルバードはその拳を受け止めたものの、衝撃まではいなしきれなかったようだ。手が小刻みに震えている。
「本当、憎たらしいガキ共ですよ」
笑みが消えた。
氷点下まで冷え切った表情が彼の本性なのか。気圧されて動きを止めたアカネを蹴り飛ばし、僕と同じように頭を踏む。
「っ……」
「選ぶ権利をあげましょう」
オルバードは左手を僕に向けて、どす黒い塊を作り出した。
耳をつんざく高音を発するそれは、誰が見ても怖気ずくに違いない圧倒的な力を秘めている。
「ワタクシについて来るか、この男を見捨てるか選びなさい」
「え……?」
アカネは困惑した表情で固まっている。アカネがオルバードの要求と僕の命を天秤に掛けて、前者を選ぶ事はまずない。
だが、ここで断れば、オルバードがどんな行動を取るのかは想像出来ない。僕はアカネにこれ以上傷ついて欲しくなかった。
「私にどうして欲しいの?」
一瞬で答えを出せる訳もなく、アカネはどっちつかずの言葉を投げかけた。
黒い物体の余波で地面がえぐれ、三人に土塊がぶつかる。
その内の一つがアカネの額にぶつかって血が流れたが、本人はそれすら気にならないようだ。
「あなたには聖女として、この世界に蔓延る悪魔を滅ぼして頂きたいのです」
「聖女?」
アカネがオウム返しに尋ねると、オルバードは再び貼り付けた笑顔を浮かべる。
いや、作り笑いではない。見るとオルバードの顔は赤くなって、興奮しているように見えた。
「そうです! 選ばれたんですよアカネさん。あなたには奇跡の才能がある。ちんけな村に収まっている場合じゃないんです」
オルバードは役者じみた動きで両手を天に振りかざした。
「今! この世界は神々の抵抗もむなしく、魔の者たちがを我々を脅かそうとしています! 人々は故郷を追われ、明日も分からぬ不安な日々を過ごすばかり――神に祈るばかりの毎日です。祈ることは素晴らしい。ですが、それだけで良いのでしょうか!?」
感情の高ぶりに合わせて、黒塊の大きさも増していく。
アカネはただ茫然として、オルバードの話を聞くことしか出来ない。
その隙を狙って、僕はオルバードとの距離を詰める。
僕は体中から血を流して息も絶え絶えの状態だが、這う事くらいは出来る。オルバードは予想通り、アカネに話しかけるのに夢中で気付いていない。
僕の視界はほぼ潰れている。蹴られた衝撃で、あばらも折れてしまった。
肺に突き刺さる痛みは人生で感じたことのない類の鋭さだ。
けど、そんなことは関係ない。アカネは絶対に助ける。
僕はオルバードを睨みつけ、決死の覚悟で向かう。
「神の手を煩わせ、安寧を享受するだけではいけません! 神の力を行使するなら、その見返りとして戦うべきなのです! 無信仰の塵芥はともかくとして、アカネさん。あなたほど相応しい人間はいませんよ! さあ、ワタクシと一緒に神敵を打ち滅ぼしましょう!!」
オルバードが右手を差し出した。答えを待たずに、その手はアカネの肩に置かれる。
体をよじって逃れようとしてもがっちりと掴まれて叶わない。
アカネの顔が恐怖に引きつり、か細い悲鳴が漏れた。
「いやっ、離してっ!」
「離しません。元より、選択肢なんてなかったんです。あなたはワタクシと一緒に教会に行き、世界の救世主になるんです――」
オルバードが暴れるアカネを煩わしそうに抑える。
落ち着く気配もなく叫ぶのに嫌気が差したのか、黙らせるために右手からも奇跡を構える。
今度は無色透明の四角形がオルバートの手から生み出された。空間をえぐり取るように出現したそれを、アカネの体へと近づけていく。
――今だ。
「オルバードォォォォォォォォ!」
僕は服のすそに爪を立てるようにしてオルバードに飛び掛かり、その体を引っぺがそうとする。
今にも抜け落ちそうな力を振り絞って体重ごと寄りかかると、オルバードの体に僕の血がこびりついた。
「ガキがぁ!」
オルバードはアカネを乱暴に蹴り捨て、僕に向けて両腕を突き出す。
二つの手に貯められた奇跡がそのまま黒の波動となって体を覆い、爆音が世界を包み込んだ。
「待って――!」
アカネはそこでゴム鞠のように吹き飛ばされ、全身を強打した。
強い衝撃の後、魂が抜かれたような虚脱感に抗えず、そのまま意識が遠のいていく。
「おやぁ。まだ寝てもらっちゃ困りますよ」
「っくっ……」
髪を鷲掴みにされ、気絶すら許されなかった。
アカネはあまりの不条理に視界がぼやけ、頬から雫が伝う。
土煙が次第に晴れて、クレーターと化した地面が見える。見えてしまう。
地表は黒いマグマでドロドロに溶けていた。ふつふつと煮えたぎる音すら聞こえる。
そこには何も残っていない。ただ、ぽっかり空いた暗闇があるだけだった。
「なんでっ、ギンジも私も何にもしてないのにっ」
「ふむ」
「答えてよ!」
オルバードはアカネに向き合い、なぜかにこっと笑って頭に手を置いた。
殺されると思ったアカネはぎゅっと目を瞑る。
しかし数秒経っても変化がないので、恐る恐る目を開けると、アカネの傷がきれいさっぱり治っていた。
「アカネさんのおっしゃる通りです。つい感情的になってしまいました。聖女であるあなたに傷を負わせるなんて信徒失格です」
ですがね、と続けてオルバードは目を見開く。人一倍大きな黒目がアカネを飲み込むように捉えて離さない。
「それもこれも無信仰の人間と関係を持つのがいけないんです。いいですか、信仰はあるものの奇跡が使えないというのにはまだ救いがあります。しかし
「おかしいよ、そんなのないよ!」
オルバードに話が通じない事をアカネも既に理解していた。だが、言わずにはいられないと、アカネはかぶりを振って叫ぶ。
「ギンジは、お前なんかに殺されていい人じゃない!」
そう言って、アカネは血が止まるくらいにきつく指を結び、奇跡を発動させた。
目を血走らせ、憤怒の形相で奇跡を練り上げる。体力を一滴も残さない勢いで、アカネは水を召喚した。
アカネの目の前で水がねじれ、渦を巻いて槍を形作った。その渦をより早く、鋭く磨いてく。
いくら才能があるとは言っても、人間の信仰力には限界がある。アカネの力は槍の形成だけで底を突いた。
「あぁぁぁぁぁぁぁ……!」
それでも止まらない。
今のアカネからは神への信仰心などこれっぽちも感じられない。その姿は相手を消すためだけに力を行使している風しか見えなかった。
注ぐ、注ぐ、注ぐ。命の水を、豊穣の証を、人殺しの力へと変換する。
そこでアカネの心臓がズグンッ! と大きく跳ね上がった。
心臓から光の線が伸びている。光は胸から腕へと伝って水槍に繋がり、それと同時にアカネの体が飲み込まれた。
アカネはあっけなく水槍の制御を失った。
練り上げたはずの力が解けて、消えていく。アカネにはその光景が、とてもゆったりしたものに見えた。
アカネの体から力が抜ける。
「あれ?」
オルバードが近付き、アカネはようやく自分が倒れていることを理解した。
さっきと同じ、舐めるような目でアカネを見たオルバードは、ぱんぱん、と乾いた音で手を叩いた。
どうして拍手されたのかも分からないまま、アカネは屈辱に顔を歪める。
「怖い顔をしないで下さい。これでも褒めてるんですよ。今のを打たれたら流石のワタクシでも危なかったでしょうね」
オルバードはアカネのズボンを掴むと、物を扱うような動きで肩にかけた。
「今ので確信しました。やはりあなたはここに留まるべき人じゃない……聖女様の奇跡を待ち望んでいる人は大勢います。この一瞬の時間すら惜しいのです」
その扱いは聖女聖女と口で讃える割にぞんざいだった。その冷たい動作に、アカネは無力感に打ちひしがれた様子で嗚咽する。
「ギンジ、ごめんっっ、ひっぐっっ……ごめんっ」
アカネが泣くのもなんのその、オルバートは冷めた足音を鳴らす。
アカネの脳内に響き渡ったその音からは、罪悪感の欠片すら感じられなかった。
「ねぇ! なんで平気な顔してるの!? ギンジを殺しておいて、ねぇ!」
ぽすぽす音を立てて燕尾服を殴る。力が入らず、可愛い音しか出ないのが余計にアカネを苛立たせた。
それに対してオルバードは面倒くさそうに、ずり落ちかけたアカネを持ち直すだけだ。明らかに情緒のネジが外れている。
ぽすぽす。ぽすぽす。
叩く力が次第に弱まっていく。アカネは限界寸前の所まで消耗していた。
握り拳の形を保てなくなり、暴れさせていた足も勢いを失っていく。
ぽ……す。
アカネの全身がスイッチを落とすように弛緩した。
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