1章 魔大陸冒険編【ギンジ視点】
第四話 死ぬまで生きる
熱い。
その思考だけが僕の脳内を埋め尽くしていた。
這うように進む黒炎が、蛇のように僕を体をまさぐる。それは意志を持っているとしか思えない動きで、人体の急所を的確に燃やしていた。
肉の香りが鼻梁をくすぐる。残念ながら食欲をそそる類ではなく、鼻の奥に残る嫌な香りだ。これが人肉の匂いなのか。
手足を駄々をこねる子供のように振り回し、蛇を捕らえようとしても、するりと躱されてしまう。しかも、移動するたびに燃え広がるので厄介この上ない。
動けば動く程に、状況は悪くなる一方だ。
僕はそこで女神の贈り物を発見した。水だ。水がある。
オーリッドの村に湖はない。天然の水辺に出会いたければ、西へ数日間歩き続けなくてはいけないほど、あそこは水に恵まれていなかった。
とはいえ、今の僕に考える余裕などない。火事場の馬鹿力で
「いっつつつっつつつっつてぇっぇぇぇぇぇ!!!」
それと同時に、僕の喉から絶叫が放たれる。
肌を焼かれる以上の拷問が僕を待ち受けていた。毛穴という毛穴に針を突き刺し、劇薬を注入しました、と言われたら信じてしまう程の痛みに襲われている。
水から出ないとまずい。その判断まで至っても体は動かない。
神経回路が切断されたみたいだ。
僕の顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃだ。叫んだ時に水を飲んでしまったらしく、喉の内側まで激痛まみれ。
今日一日で一生分の痛みを味わったのではなかろうか。
正解かもしれない。僕の一生はここで終わるのだ。
証拠と言わんばかりに、指先から感覚が消える。無痛になって嬉しいはずなのに、本能は怯えていた。
「ああ……」
この感覚が心臓まで来たら死ぬんだろうな。僕は意外に冷静だった。
脳みそが鎮痛剤を処方してくれたのかもしれない。腕の感覚を失い、肩まで死の風が吹いても、心だけは凪いでいた。
僕の視界が暗闇に覆われる。網膜まで焼き切れてしまったのかもしれない。
水音だけが耳に響いているものの、これも次第に聞こえなくなるはずだ。
ふと、揺らめくロウソクの火が見えた。今にも燃え尽きそうな儚い輝きに、裸の少年が覆いかぶさっている。
もういいよ、消しちまえよ。そうやって頑張ったってほら、蠟が溶けたらお終いだ。燃料切れなんだよ。
「らしくないぞ」
らしくないって何だよ。お前に僕の何が分かるって言うんだ。
もう疲れたんだ。オルバードにも生きる価値がないって言われたし。実際その通りだと思うよ。
アカネを守るだなんて格好つけておいて、いざって時にはただの役立たずだっただろ?
口だけの人間なんだよ、僕は。
「なら強くなれよ。アカネに胸を張って会えるくらいに、成長して見せろよ」
薄っぺらい台詞だと、普段の自分なら思っただろう。表面だけ取り繕った、人を励ますための適当な返事だと。
でも、僕の心は揺れた。根性論を語っているに過ぎない少年の言葉が、どうしてこんなに響くのか。
少し語気を弱めて返事をする。どうしようもなく声が震えた。
「……僕には無理だよ。強くなるとか、成長するとか。だってさ、奇跡が使えないんだよ? 人間なら当たり前の1ピースが僕には欠けちゃってる」
言ってから、しまったなと後悔した。口に出せば出すほど自分の欠点が浮き彫りになり、絶望に抱かれてしまう。
まあ、それでもいいか。嘘ではないし。自分には誰かを救うとか、助けるとか、出来る器じゃなかったんだ。
「それでも!! お前ならやれるって信じてんだよ!」
少年は否定する。
声につられて、僕は少年を見た。少年もまた、顔を上げて目を合わせる。
少年は僕と瓜二つどころか、全く同じ顔をしていた。
「僕には分かる。お前は確かにそうやってよく落ち込むけど、実は負けず嫌いで、人の為にも自分の為にも頑張れるいい奴だって」
そう言って少年ははにかみ、ロウソクから離れて僕と向かい合う。
少年の言葉は僕の胸にすっと溶け込んでいった。
どうしてだろう、鼓動がおかしい。一定のリズムを刻むはずの心臓が、喉から飛び出す勢いで鳴っている。
少年はいきなり僕の後頭部に手を回して、頭突きを繰り出した。
「痛!」
僕は少年と、
「ごちゃごちゃ考えなくていい! もっと正直になれ!」
正直になる。僕はそう言われてから、おぼろげだった未練の正体に気付いた。
僕は感情の濁流を抑え切れずに、消え入るような声で言葉を紡ぐ。
「悔しかった」
「何!? もっと大きな声で!!」
圧迫的な煽りを受け、僕は自分の枷が外れるのを自覚した。やけっぱちに頭を上げて、お返しにと強く叩きつける。
僕を拘束していた腕が振りほどかれ、ギンジはよろよろと後ずさったが、膝をつかずに不敵な笑みを浮かべた。
僕はそこで頭の血が頂上へ達し、毛細血管を破く勢いで裏返った声を出した。
「アカネを守れなくて、オルバードに負けて悔しかったぁぁぁぁぁ!!!」
僕はオルバードに手も足も出なかったし、アカネを助けることも叶わなかった。けど、何よりも僕は、無力な自分が情けなかったんだ。
死にたくなるくらい、悔しかったんだ。
ギンジが低い姿勢のまま、僕に体当たりをかます。僕は踏ん張れず、尻もちをついた。
腰にギンジが乗りかかり、僕の頬を殴打する。
「そうだよ! 僕ならそう言うよなぁ!」
光源がロウソクだけの薄暗い空間で、骨を叩く重低音だけが響く。
おかしいな、痛いのに気持ちいい。新たな性癖に目覚めたのかも。
腹筋を使ってギンジを浮かせ、間隙を縫って胸を突き飛ばす。さっきと似たような動きでギンジはよろけた。
ふらつく向きさえ一緒だった。
口に鉄の味が広がる。どうやら鼻血が出ているらしい。
僕はお構いなしに、態勢を立て直そうとするギンジに飛び掛かった。くんずほぐれつ、転がりながら殴り合う。
「悔しいなら鍛えろ! そんでもってアカネを助けに行け!」
「もう十分鍛えたよ! これ以上どう強くなれって!? …………それに、アカネが無事かどうかだって分からないじゃないか!」
「またそうやって弱気になる……じゃあ聞くけどさ! お前は本当にそれでいいと思ってるの!?」
いいよ! と投げやりに叫ぼうとして漏れた空気を、僕は最後まで吐き出さなかった。馬乗りになって振りかざしていた拳を宙で止め、
…………いい訳ない。叶うなら、もう一度会って話したい。
「あのな」
傷だらけの顔を拭い、ギンジは僕を抱きしめる。自分にハグされるなんて、人生死ぬまで何があるか分からないもんだ。
「人より才能がなくたっていい。剣が振れなくても、奇跡が使えなくてもいい。だけど、僕は自分に諦めて欲しくない。もがいてでも、その先にある景色を見て欲しい」
ギンジは腹の底から絞り出して思いを伝えているようだった。
僕は相手が自分だからこそ、その台詞を100%の純度を持った言葉として理解した。茶化さず素直に話せるのは、数少ない僕の美点だ。
その先にある景色、ね。まるで僕が成長する事を疑っていないような口ぶりじゃないか。
なるほど。僕はようやく、ギンジの言葉に心が揺さぶられ続ける理由がはっきりした。
ギンジの声は僕と同じ音程でも、内包されている気配がまったく異なっている。強いて言えば、そうだな――確固たる自信を感じるのだ。
この差が僕とギンジとの間に屹立しているからこそ、壁をぶち破るような訴えを無視できなかったに違いない。
僕に、生きる権利があるのかな?
不意を突いて僕の体から一つの疑問が生まれた。幼い頃から自分を受け入れられなかった者による、最大最悪の自虐。
答えを聞くのが怖くて、言葉にするのは憚られるのに、事あるごとに脳裏をよぎってしまう。
「ははっ。そんな卑屈になんなよ。人間、自由に生きて正直に死ぬくらいの権利はあるもんだ」
悶々としていると、どういう訳か返事があった。しかも、僕らしからぬ呑気な声色で驚かされる。
僕を安心させるためか、ギンジは僕の頭をゆっくりと繰り返し撫でた。頭から爪先まで、とろけるような暖かさが広がっていく。
頭頂部から後ろへゆっくりと梳くような手つきに合わせ、頭を指の腹で叩かれる。この胸が締め付けられる程に優しく、唇を引き結んでも止められない寂寥感せきりょうかんの正体を、僕は知っている。
――これは、アカネの撫で方だ。
「どうだ上手いだろ――ってええ!? 泣いてる!? どうした、まさか僕のテクに感極まっちゃった!?」
違うよ。大切な事を思い出したんだ。
こんな近くに答えがあったなんて、よっぽど視野が狭まっていたらしい。
「分かった。頑張ってみる」
「ちょっと待て。どういう経緯で頑張る気になったのか、ちゃんと教えてくれよ」
分かってる癖に、問いただしてくるギンジが恨めしい。恥ずかしくて言えないのを見透かされているのだ。
好きな人の為にもう一度頑張ってみようなんて歯が浮く台詞、口にしたら永久歯ごと吹っ飛んでしまいそうだ。
「聞こえてる聞こえてる」
ギンジの腕の中で僕は耳の先まで真っ赤になった。そうか、同じ自分同士だから考えが筒抜けなのか。
でも、僕はギンジの心を読めない。一方通行なんて不公平だ。
「僕はお前の内側だからな。外があっての内で、内は外の内容物でしかない」
僕なだけあって、ギンジの説明はちんぷんかんぷんだった。口下手な所までそっくりなのかよ。
この思考も伝わったのだろう。今度はギンジが顔を赤くすると、抱擁をやめて僕の頭をばしばし叩き出す。うわ、誤魔化しやがった。
「と、とにかく! 僕が元気になって万々歳、ハッピーエンドだ」
ハッピーエンドだと人生が終わってしまう。
最初の張りつめた空気はどこへ行ったのやら。正直、こっちの方が緩く構えれるから助かるけども。
そこで、辺りが再び暗闇に包まれた。比喩でもなく文字通り、光源が消えたらしい。
あのロウソクがとうとう燃え尽きたのだ。僕は勝手に、あの灯火を自分の命に見立てていたので、自分が死んでしまったのかと慌てる。
「大丈夫」
ギンジの声がして、一気に世界が紅く染まった。そこは際限のない世界だった。
どこまでも雲一つない青空が広がり、見渡しても地平線すら存在しない。
その中心に、僕達はいた。中心と言い切れるのは、僕が明かりだからだ。
僕の胸が燃えている。ロウソクの比ではない緋色の輝きが、太陽のように世界を照らしている。
「これが最後だ、ギンジ」
おちゃらけた表情ではない。数十秒前と対比すると、変化の落差に笑ってしまいそうな切り替わりだ。
でも、僕は笑わなかった。最後という言葉に反応したのもそうだし、真剣に聞かないと自分に失礼だとも思った。
「長ったらしく話すのは苦手なんだ。だから、簡潔に言わせてもらう」
ギンジは胸に手を当て、大きく息を吸った。繰り返し、何回も。
最後に体を九の字にして吐ききってから、頭を上げる。吸ってから話さないのが僕らしい。
「生きろ」
簡潔すぎる一言だった、と言うより一単語だった。
予想通りでもある。ギンジが伝えたかった思いの全ては、この一言に凝縮されていた。
僕の答えはもう決まっている。ここで日和っているようじゃ、前に進めない。
僕は自信満々にこう答えた。
「任せて」
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