第342話 悪枢機卿、暗躍する

 晴天経典を構成する言語と同じ、“古代エニグマ語”による鎖たる封印魔術は、片腕と魔力を失ったランサム単体では外せない。

 だが、事ここに至ってもラックは安堵しきれない。

目前で万事休すといった様子のランサムにその原因があるような気がする。

 ラックとランサムは肩を並べてヴィルジンと死闘を繰り広げた、古くからの付き合いだ。その記憶故に痒みのように不安が這いずり回っている。


(昔からランサムは周到さも晴天教会の中でも群を抜いていた。だからこそ晴天教会の中で絶対の権力を手にしたし、あのデリートも幽閉することが出来ていた……)


 “ランサムは、まだ何か奥の手を隠しているのではないか”。

 だがどんなに周りに目を見張っても、種も仕掛けも無いことが逆に不安に拍車をかける。


「う……」


 ラック振り向くと、スピリトが体を起こしていた。だが病人そのものだ。剣を支えにして上体を起こすのがやっとだ。


「スピリト姫、まだ寝ていなければ駄目だ」


 忠言も聞かずに辺りを見渡すスピリトは、目前に巨悪がいるかの如く酷く警戒心を放出していた。懸解アイオーンの後遺症でもう動けない事は分かっている筈なのに、今にも剣を抜いて斬りかからんとしている。


「……なんか、すごい嫌な気配がして。もしかしてもうデリート来た?」

「何のことだ?」


 デリートに弱点があるとすれば、世界一と言っても過言ではない魔力の貯蔵量故に、その強力さゆえに気配というものが一切隠せない点にあるだろう。だからこそデリートがローカルホストに近づけば、ラックだけではなくほとんどの人間が“怪物が来た”と直感するだろう。精神的にも、戦術的にも備える猶予が生まれるだろう。

 だがまだデリートの襲来は無い。屋敷から一望できるサーバー領の自然は緑色のままだ。デリートが来たら、空間さえ歪める例外属性“焚”の超濃密な魔力によって緋色の原野へと変貌するはずだ。


 だが、ラックはここで目を凝らす。

 緋色にはなっていなかったが、何かが砂煙を立てている。

 

「ラック様!!」


 血相を変えてきた伝令が到着したのと、ラックの顔が青ざめたのは同時だった。



!!」



 ラックは絶句した。何とか立ち上がったスピリトも、生を諦めたと言わんばかりに座り込む。


「……至急街内の騎士団を戦闘配置に敷け。ローカルホストの戦場化も免れない者と考える。市民の避難も始めろ」


 伝令が苦悶の顔で頷き、去っていく様を見る事さえ出来ない。崩れた屋敷の壁から見える地獄のような光景に、釘付けになっていた。

 後できる事と言えば、精々歯軋りをしながらランサムに捨て台詞を吐く事くらいだ。


「やってくれたな……ランサム」

「俺が定期的に例外属性“詠”による特殊な狼煙を上げなければ、このローカルホストに攻め入るように配置しておいたのさ……」

「流石におかしいでしょ……あれ、晴天教会の進行騎士団でしょ……? 確か今、港町パレンティアでカーネルと戦闘中で、しかもカーネル側が人数的に不利って聞いてたのに。スイッチの時と言い、何で畑からポンポン取れるように兵力揃えられるのよ」

「“数”。それが晴天教会の……正統派の強みだ。君の父上が滅ぼしきれなかった一番の要因だよ」

「数だけではないさ。我らは神の軍団だぞ」


 光る言葉に巻き付かれ、蛇のように藻掻きながらも、勝ち誇った笑みを遂に前面に押し出すランサム。

 

「……率いているのは“火劇作歌ラジオスター“ウォーレンシュタインだ!」

「なんだと!?」

「誰よ」

「使徒だ……! しかも、使徒の中でも異端も異端、使徒だ」

「何よその戦争にお誂え向きの能力……」

「ウォーレンシュタインが率いた一団は、過去に50倍近い戦力差を引っ繰り返した事もある……」


 驚愕がラックからスピリトに伝染する。

 立ち尽くすか、座り込むしか出来ない二人の後ろでも、しかし事態は動いていた。

 収縮音。

 波紋する熱波。

 焦がすような灼熱を背中で感じた二人が振り返った時には、天井の一部が緋色に染まりつつあった。


「何だと!?」


 赤色の閃光が、燦然と煌めく天井から降り注ぐ。すぐさまラックがスピリトを引っ張って領域から離れたために、直後の破壊からは難を逃れた。


「時限式の“焚火ドレッド”……!?」


 だが、ラックとスピリトの目前の空間は、先程までは平和に会談が行われていた一室は見る影もなかった。黒焦げになり、残滓たる炎を上げる瓦礫。

 世の地獄を集約したような凄惨な景色。黒煙と蜃気楼に隠された下の階層を見渡して、スピリトが願望も込めて口にする。


「自殺した……!? さっきの“焚火ドレッド”、ラックにも当たってたよね?」

「奴に限って自殺はない。晴天教会の教義では自殺は大罪だ」

「確かに……生きてるわ」


 悔しそうにスピリトが口走る直前、二人は動く影を見た。

 “封印魔術”から自由になり、消失した片腕分のバランスを取ることに悪戦苦闘しながらも、自らの炎で所々爛れながらも、晴天教会の枢機卿としての、緋色の使徒としての役割を全うしようという狂信者がラックとスピリトを見上げていた。


「……小細工はやはり弄するものだな。貴様の封印魔術、俺の体から既に放たれていた“焚火ドレッド”までは縛れなかったようだな」

「こうなることを見越して、スピリトにやられる前に仕込んでいたのか……!」

「勿論保証のない博打ではあったが、見ろ! 神が私に味方した証拠だ! これが信仰心だ! 原典ロストワード原典ロストワードと歴史家気取ってる異端には分からんだろうさ!  これが神の絶対的な加護なのだよ! 俺はこれからもユビキタス様を愛し、ユビキタス様に愛され、この世で最も高尚たる愛を顕現して生きる!」


 万全に清き光芒を迎える両手を広げた姿勢での、高らかな宣言は聞くに堪えなかった。忌々し気な表情で返した直後だった。

 二人の視界から、ランサムが消えた。

 同一の“縮地”の所持者であるスピリトだけが目で追える。


「逃げた……! 少なくともこっちには来ない」

「くそっ!  こっちに来てくれた方がまだ封印できたものを! 何としても捕まえる! 奴を人質にしてウォーレンシュタインの進軍を止めるしかない!」


 “火劇作歌ラジオスター“ウォーレンシュタインが来るまで時間が無い。

 自らの僅かな隙を怨敵の様に憎みながらも、ラックも傷だらけの体に鞭打って部屋を出た。


      ■         ■


「ねえ、今どんな気持ち? 私妊娠どころか、妊娠しそうな行為もしたことないから分かんないんだけど。座り込んでブツブツ言ってたって何も始まらないんだけど」

「……」

「……ったく。あんた一人相手なら、マウントとってフルボッコにしてやったのにさ。妊婦って分かったらどうしようもないじゃん」


 そうロベリアが問いかけても、糸を見失った人形のようなルートの口からは譫言が垂れてくるだけだった。

 ロベリアは溜息を漏らすしかない。振り上げた拳の下げ処を探すかのように、不服そうな表情を隠さずにいた。


「とりあえず、その子供は信頼できる誰かに預ける事ね。あんたじゃ育てられないでしょ」

「私じゃ……育てられない? 何を言ってるの、私は教皇よ……!? 不自由なんかさせる訳ないでしょ。食べたいものだって自由に食べさせる、金なら幾らでも用意できる、平伏する信徒も付けてあげられる!」

「今回の件で教皇としての権威も失墜する事くらい分かるでしょ。ランサムなら帰ったら教皇挿げ替えてるとかやってそうだし」

「彼の事をそんな悪く言わないで!!」

「え?」

「彼は……あの人は、私を救ってくれたのよ!? 母を殺したヴィルジンという悪鬼の監獄から、私を掬い上げてくれた!」

「まだ言ってんの? それに、本気でランサムの事信じてんの……?」


 思いのほかルートがランサムに心の底から信を置いている事や、これだけ言ってもまだ自分が母親を殺したと自覚しない事に辟易してしまう。

 だからこそ、案じてしまう。ルートのお腹に宿ってしまった命を。


「あんたさ。例外属性“母”の持ち主なんでしょ? 全信徒の母的存在でしょ? 母上の事大好きだったんでしょ? なら、真っ先に子供に提示すべきもの、分かるでしょ」

「何の事かしら……? というか、あなたがそれを言えるの? いや、あなただからこそ分かる事じゃないの!? スラム街のような環境で育ったあなたには、金も食料もまともになかったあなたには、娼婦が母親だったあなたには!!」

「環境とか、金や食べ物は大事じゃない……とは口が裂けても言わない。そんな理想論じゃ救えない、笑顔の明日を迎えられない子供がこの世にはいる事も知ってるから。それがあれば、お母さんは死ななかったから」


 ぴくぴくと震えるルートの頬を殴り飛ばしたい衝動を必死に抑えて、代わりに胸の奥から後生大事に抱えていた宝物を取り出す。

 母から抱きしめられた時の、後頭部を撫でる優しい掌。

 自分が笑うと一緒に笑ってくれる、母の笑顔。

 スピリトと母とで食べた、とても美味しかった極上の粥。


「でも、これだけは確実に言える。親に必要なのは、子を想う心だよ」

「――おっとそこまでだ、ロベリア嬢」


 強烈な悪意が、足音として響いた。ぞっとしてロベリアは振り返り、そして思わず距離を取る。

 片腕を失い、指で突けば倒れると言わんばかりに満身創痍ではあったが、その傷塗れの風貌がロベリアの恐怖を誘う。

 何より未だ救いがあると言わんばかりに見開かれたランサムの瞳だけで、心臓を射抜かれそうだった。


「ら、ランサム公爵……!」

「ルート教皇。ああ、よかった、お怪我は少ない様だ」

「あなた、片腕が……!」

「不覚を取りました。しかし、これが私の腕の天命だったのでしょう。そして、私、ランサムそのものはまだ役割を遂げられます」

「……ランサム公爵、ロベリアは途方もない異端でしたわ。あのクオリアも。この異物共は天におわすユビキタス様の光を刈り取る、史上最悪の悪魔でしたの」

「ええ。私も身に染みて理解しました」


 逆転と言わんばかりに歪な笑顔と眼光をロベリアに向けるルート。だがランサムの胡乱な視線は、ルートに向いたままだった。 


「それにしても、初めて会った時から君は、白馬の王子を探す箱入り娘だった。私からすれば君みたいな人間が一番与しやすく、楽でしたよ」

「何を言って、ますの」

「教皇、役割を果たす時が来ましたよ」


 唖然としたルートの表情。

 しかし、そのまま凍り付いた。

 どこからか取り出したランサムの短刀が、ルートの細い首に添えられていたからだ。


「晴天教会の士気高揚の為、ここでころされるという役割がね」

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