第340話 猫耳少女、2つのヒントを受ける。
金の為か。あるいは生まれながらに由緒正しき、“その道”の一族だったか。
暗殺者となる理由は、その二つに絞られる。
マスは、後者だった。
父も母も、物心ついた時には社会の深淵に消えていた。肉親の死別に感傷を抱いた事も無いまま、5歳から諜報活動と人殺しを十全に成し遂げた。
先祖代々、“トロイ第零部隊”という晴天教会の敵を“処理”する集団に属してきた。故にマスも例に盛れず、その一員として社会に毒を盛ってきた。
晴天教会に仇為す存在は、喩え異端審問に処せないひとかどの傑物であろうとも、事故や自殺に見せかけて殺してきた。殺して、騙して、唆して、殺して、騙して、唆して、殺して、騙して、唆して、そして殺してきた。
血の匂いも、死体の冷たさも、生命の軽さも、マスにとっては空気も同然だった。
常識はいらない。理由はいらない。心さえもいらない。
気付けば“トロイ第零部隊”史上、最も晴天教会の敵を屠った裏社会の伝説と成り果てていた。だがそんな誉れは、ただの情報として置きざりにする。晴天教会の教義さえも、ただの情報として処理する。
マスが人を殺す理由は、単にそれがマスという生き方だったから。
それがマスという、死までの時間の刻み方だったから。
だが20年前、マスは初めて暗殺に失敗する。
命は助かったものの、トロイ第零部隊において失敗は死と同義。追手を差し向けられ、十数人の精鋭に囲まれて嬲られ、今まさに終わりを迎えようとしていた。
「おお、間に合ったか。良かった良かった。今日の酒は旨いぞぉ」
味方も、友人も居なかった筈なのに、救われた。
寄りにもよって、マスが暗殺を失敗した相手から、助けられた。
あろうことか、その後相手から酒の入ったグラスまで渡された。
猛毒が入っているとも考えたが、今更入っていた所で自身の生命に頓着は無かった。結局入っていなかったけれど。
その時、背を凭れた路地の硬さは、嫌に覚えている。
最早一般人も殺せないくらいに、傷だらけだったせいだろうか。
そして相手も“王族”なのに、路地に座り込んでいたという矛盾を抱いたことは、何故か覚えている。
「カーネルにはその酒のブレンドは合わないと言われたのだがな。カカッ、儂はその混ぜ合わせ方が一番美味しいと見る」
「すまないが分からない。生まれつき酔える体質でも無いのでな」
「マス、酒も楽しめんなら、何が楽しくて生きてるのだ? いや、殺してきたのだ?」
「修道女が毎朝祈る事しか知らないのと同じだ。殺す事、騙す事、情報を得る事が、俺にとっての呼吸の仕方だった」
「そんな生き方しか出来んのか」
「説得しようとしているなら無駄だ。俺はここで死ぬ。ここで死んだ方が、平穏の中で眠れる」
「カカッ、晴天教会によって支配されたこの世の化身かお前は。だがそんな男に、儂もカーネルも殺されかけたとは。危うく意味のない殺され方をする所だったのだな」
「意味のある殺しなどあるものか」
「あるね」
「酒の席のご愛嬌なら別でやってくれ」
「いや、意味のある殺戮でなくてはならないのだ。その先に、殺戮も無ければ血も流れない未来を作るために」
「……」
「だから、お前もせめて意味のある生き方をせい。殺戮しか出来ないのなら、せめて殺戮の中に生き方を学べ。マス。その意味は儂が与える。このまま由緒正しき暗殺者として眠るよりも、泥まみれになって未来の土台となる屍を築いてから眠った方が、比較的生きてて良かったと思える筈だ」
マスが唯一殺せなかった男は立ち上がった。
いつしか深淵を真似た空は仄かに青くなり、東の空は山へ薄明を与えていた。きっとその向こう側で微睡みから解放されたであろう太陽を背に、男はマスへ手を差し伸べる。
その男の名は――ヴィルジンといった。
「おもしろきこともなき世なら、おもしろくすればよい。だから儂は、晴天教会に反旗を翻した。さあ、マスよ。散歩しながらもう一杯飲むぞ。その前にカーネルを見つけて連れてくるぞ。あとは“テスラ”は酒を飲めんが、とりあえず奴も呼んどくか」
その後、伝説の暗殺者の行方はようとして知れなかった――ただ、それから晴天教会の重鎮が次々に暗殺される事件が発生したが。
そして半年前、ランサム公爵の屋敷に現れるまで、その後マスがどのように過ごしてきたか知る者はいない。
■ ■
(耄碌はしたくないものだな……ブランクがあっても、“雑談”の効力がここまで弱まって、コントロールが出来ない程に落ちぶれていたとは)
一瞬、昔の夢に自我が吸い込まれていた。どうやらシルフカッターによって胴体を袈裟斬りにされ、鮮血を巻き散らしながら吹き飛ばされたらしい。
直後、フォトンウェポンからの発射音と、騎士が一人倒れる音が聞こえた。耳から得られた情報でしかないが、恐らく急所に近い場所に黒い風穴を開けた騎士は、狂気の郷愁を目に残したまま血に塗れた事だろう。
耳でしか、状況を伺えなかったのは、今マスはぶらさがっていたからだ。
屋上と、真下を流れる激流の境目。
マスの視界は、建物の壁で覆われている。
「く、は、はやく、上がって……」
しかし、何も無ければマスは吹き飛ばされたまま、激流へ真っ逆さまに落ちている筈だった。
だが、繋ぎとめていた力があった。
断崖で寝そべってまで、アイナが両手でマスの手首を掴んでいた。
「離せ。このままではお前も落ちるぞ」
「……手が離れないです。なんでか分からないですけど」
「君と私は敵だった」
「ですよね。私のやってる事、おかしいですよね。これがあなたの“雑談”の、力ですか」
「……」
敵である筈のマスを助けるという矛盾を超越して、アイナは全力でマスを引き上げようとしている。しかし獣人とはいえ、やはり戦闘からは掛け離れた少女でしかない。彼女の細腕の方が千切れそうなくらいだ。
マスの体重を支え切れず、建物の下へ――氾濫した川に向かって二人揃って引きずり込まれていく。
クオリアとフィールが遅れて駆けてくる。だがそんな僅かな猶予さえ、二人にはなかった。救援が間に合うよりも、アイナとマスが共に落ちる公算の方が高い。
「……私を倒した褒美に、二つヒントを提示しよう」
「ヒント?」
それでも、全力全霊でマスの手首を離さないアイナを、マスは見上げた。血が止め処なく溢れる深い傷を差し置いて、残すべき言葉を置いていくために。
「一つは、自らを傷つける凶器も、逆手に取れば自らを助ける武器になる。レガシィとやらがそれだ」
「……レガシィが?」
「もう一つは、これは何の偶然かは知らないが、アイナ、君が
「どういう……こと? というか、何であなたが
アイナの困惑は当然だろう。“雑談”の力も籠らない予言のようなヒントを、ゆったりと真に受けている状況ですらない。
そもそも寧ろマスが所属する晴天教会からすれば、
「う、わ」
アイナの体が更に崖へと迫り出す。支えきれない。
だがそれ以上、ひ弱な体が眼下で水龍渦巻く空白へと引っ張られることはなかった。
手首を渾身の力を込め、アイナの手を振りほどいて――マスは一人、大地の失せた空虚へと放り出されたからだ。
あっ、と見開くアイナの眼が見える。直ぐにクオリアが引っ張り上げ、安全を確保されて尚、その後悔の目線は遠くなっていくマスを捉えていた。
「――トロイ第零師団のような日陰者という邪道に甘えず、おもしろき正道を選んだ娘よ。これから先の幸運を祈る」
(二人揃って良い目だ。20年前のあの日、私を倒し、私に手を差し伸べた“ヴィルジン国王”と同じ目をしている)
小さくなっていくアイナの目。
そして、小さくなっていくクオリアの目。
老体のせいか、自由落下を随伴させる視界は僅かに霞む。
(国王よ――よい未来に、目を付けたものだ)
水面が破裂した。
だが一つの肉体から産まれた水飛沫や音も、大蛇のような激流に直ぐ飲み込まれた。
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