第339話 人工知能、胸で泣く

 冷たい遅延ラグがあった。

 風景から切り取られて、後ろに仰け反るアイナしか見えない。

 肉体を抉り貫くには十分に残酷な直線に穿たれ、崩れていくアイナしか見えない。

 アイナしか見えない。

 唯一見える少女すらも、酷くスローモーションだった。

 なのに、床へ落ちる肩へ、クオリアの手は届かない。

 

「[N/A]」


 慟哭。

 定義不可能の、渦巻く感情のブラックホールに演算回路を破壊されながらも、駆けた。

 たった十数メートルの距離を、駆け抜けた。


 荒廃した演算回路に映し出されるのは。

 硝子のように繊細な心に貼り出されるのは。

 倒れた猫耳に重なるのは。

 一ヶ月前、バックドアが創り出した悲劇。


「[N/A]」

「クオリア、様」


 何も聞こえない。耳が塞がれた。

 何も見えない。眼が覆われた。

 何も実感できない。肌が鉄に置き換わったようだ。

 黒。

 どこまでも黒い、黒い空。

 真っ暗な、宇宙が訪れた。

 笑顔も無い、世界が訪れた。

 親を見失った子供の様に、手足が千切れそうなくらいに、叫んだ。


「クオリア様」

「“大、丈、夫大、丈夫、大丈夫大、丈夫大丈夫大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫”」

 

 地面に仰向けで倒れているアイナの体。

 その胸目掛けて掌を伸ばす。

 一度、アイナの体はスキャンしている。

 5Dプリントでスキャンしている。

 大丈夫。

 大丈夫。大丈夫。

 大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 今度こそ上手くいく。

 今度こそ、上手くいかせて、何事もなきあの笑顔を取り戻して、それから、それから。


「クオリア様」

「最適解、算出、最適解、最適解、シャットダウン、としての機能を、活用すれば、アイナ、兵器回帰リターンを、“すれば、大丈夫、もう、痛くない、から、ね、すぐ、こんな、の、なおる、から、ね、なおる、また、わらえる”」


 直さなきゃ。

 治さなきゃ。

 今度こそ失敗しない。

 今度こそアナフィラキシーショックなんかにさせない。

 兵器回帰リターンしてでも、心なんて失っても、この笑顔だけは――。



!! !!」



 声が、耳朶を叩いた。

 途端、光。

 孤独で、暗くて、寂しい世界を荷電粒子ビームよりも力強い閃光が照らした。

 その光を辿ると、愛らしい瞳に反射した、今にも三歳児のように泣きそうな自分自身クオリアの顔が見えた。


「私、大丈夫です!! クオリア様、私、なんともないです!!」


 揺らされる。

 いつの間にかクオリアの頬は、少女の両手に挟まれていた。

 固定された視線の先で、クオリアの焦点が合う。


 悪夢が覚めた。

 血塗れで死にゆく愛しき人はどこにもいなかった。

 クオリア自身が死に向かっているかのように、心配そうな視線を逆に送ってくる愛しき人が傍にいた。


「あ、あい、イナ、アイナ、あ、アイナ……!?」

「はい、アイナです。それよりもクオリア様の方こそ……顔が、血塗れです……目から、血が出てます」


 言葉が上手く出せない。吸って吐いての簡単なルーチンワークができない。両肩で吸う息が多すぎて、苦しい。肺にナイフで風穴が空いたようだ。

 そっと、温かい掌が頬に触れた。

 共感するように小さな笑みを見せるアイナに、トラウマという病原菌が吸い取られていく。


「……あなたの胸部に、損傷が、認識出来ない」


 左胸ポケットに千切れた跡はあったが、その下の布地は無傷だった。

 アイナの致命傷を証明するものは何もなかった。

 傷だらけではあったが、紛れも無く生命ごと流れてしまったような血の海はどこにも見られなかった。


 次第に呼吸が安らいでいく。

 周りが見えるようになる。

 そこでクオリアはようやく認識した。

 アイナは、無事だと。


 次第に、クオリアの体から力が抜けた。

 

「ふぐ……う」


 膝が不時着する。顔を伏せる。倒れそうになったクオリアの体を、真正面から支える。

 アイナの胸に、顔が埋まる。

 鼓動が、聞こえる。

 優しい、とくん、とくん。


「“よか、よか、よ、よかった……ああ、あああ……”」

「……」


 後頭部をそっと撫でる温かい手。

 未だ戦場なのに、母の揺篭と錯覚して、微睡みそうになる。

 アイナの香りが、そこにある。


「何急に現れて睦み合ってんだだらあああああああ!!」


 レガシィのダメージが解けた騎士が、剣を掲げながらアイナとクオリア目掛けて突進してくる。抱擁し合う二人を、丸ごと両断する気だった。

 そんな無粋な足音。

 見るどころか、聞くまでもない。


「最適解、算出」

『Type GUN』


 アイナの胸に埋もれたまま、クオリアの左腕が自動的に動作する。

 握られたフォトンウェポンから、背中越しに荷電粒子ビームが射出された。


「ぐあ!?」


 青白い直線が、騎士の脚を貫通する。激痛を無視して辿り着くには、支えを失った騎士が倒れた場所からは、二人の位置はあまりに遠すぎた。

 二発目も、何も見ないで放つ。

 フィールを羽交い絞めにしていた騎士の脚も、“ぐにゃり”と折れ曲がった荷電粒子ビームに両方とも貫かれた。


「お、わっ」


 自由になったフィールが、クオリアとアイナの下に掛ける。その間再び自立したクオリアがフォトンウェポンを翳して牽制する。

 フィールと擦れ違っても尚、クオリアは眼光と銃口を向けていた。

 その交点で、何をするでもなくマスはただ視線を返していた。


「フィールさん!」

「おわわっ!」


 クオリアの後ろで、辿り着いたフィールへアイナが抱き着く。


「ごめんなさい、私、フィールさんを見捨てようとした……」

「ちがう、あれはアイナじゃないよ。アイナは、どんな修道女よりも誰かを救える、そんな人だよ……! ありがとう、本当……」


 フィールが感謝を述べながら離れると、視線はアイナの胸に映った。フィールも先程凶刃に胸を貫かれたのを見ていた。


「でも、なんともないって。だって、あんなにザックリ」

「私にも何が何だか、分からないんです……あれ」


 床で主張するように太陽光で反射する。だが光ったそれもまた、太陽を衒ったものだと気付いたのは直ぐだった。


「これ、フィールさんのペンダント……私の左胸に、入ってた。昨日、フィールさんがローカルホストを守る前に、私の目の前で落としたもので」


 太陽のペンダント。

 丁度真ん中で、二つに割れている。

 清々しいくらいに奇麗な断面を見せる晴天教会の象徴を見て、フィールが一つの仮説に行き当たる。


「もしかして、これで剣が通らなかった……?」

「ごめんなさい! ずっと返せなかったんです! それなのに、こんなに壊してしまって」


 平謝りをするアイナがおかしくて、思わず小さくフィールが笑う。


「信仰は物に宿らず。善行に宿る。拾ってくれたという善行が、アイナを救ったんだよ」

「理由はそれだけではないと認識している」


 一方、二人を庇うようにして佇んだまま、クオリアが視線を移す。

アイナを刺そうとしつつも失敗し、背中に短刀が突き刺さったまま騎士が苦しんでいた。


「アイナへ攻撃した個体へ、マスが損傷させた為に、十分な力が働かなかったと推測」


 マスが“丸暗鬼”で騎士から力を奪っていなければ、いかに太陽のペンダントが盾になっていたとしても、アイナの命は危なかっただろう。

 明らかに、アイナを助ける意図がそこにはあった。

 クオリアも到着の瞬間、この短刀をマスが投げたのを認識していた。


「説明を要請する。あなたがアイナを救出した理由は何か。マス」

「その娘は生きていてこそ、君への人質になれるからだ。クオリア」


 マスの意図は読めない。体の反応から嘘か真か分かるクオリアの観察力をもってしても、岩の様に凛としたまま揺らがない老体からはそう簡単に読み取れない。

 ハルトの“嘘だらけ”のイメージとは違う。

 “嘘”がとてつもなく薄くなっていて、見え辛い。


 いずれにせよ、マスがアイナを助けたことは確かだ。

 このままフォトンウェポンを向け続けるのは、不本意だった。


「あなたに戦闘行為の停止を要請する。従わない場合、あなた達を損傷させる必要がある……!」

「上等だ……! 我らは、ローカルホストの為に、命なぞ惜しくない!」


 残り一人になった動ける騎士が激昂するも、マスは騎士を制する。


「了解した。我らの敗北だ」

「マス老人!」


 裏切られたと言わんばかりに騎士に睨まれるが、素知らぬ顔でその訳を語る。


「クオリアがここにいるという事は、恐らくランサム様は失敗したな。ルート教皇も」

「肯定。ランサムはスピリトに無力化された。また、ルートの抱擁信仰イニシャリズムのラーニングも完了している」

「……例外属性“母”まで、攻略したの」


 後ろでフィールが驚愕していた。マスも「ほう」と感心したように声を漏らす。


「流石はトロイに終止符を打った男だ。想像を超えている」


 クオリアは更なる矛盾を生じていた。確かにこのマスという男からは、気配を感じ取りにくい。だが何も感じ取れないわけでは無い。

 少なくとも、どこか安堵しているようなそんな雰囲気がしている。

 ランサムの野望は断たれ、マスも瀬戸際の状況だ。にも拘らずこのような反応が返ってくる心の原理は、クオリアにとっては初めての発見で――



「なら、俺一人でやってやるよ!!」



 咆哮は、一人残っていた騎士からだった。

 見れば全身全霊の基本属性“風”の魔力が刃の形を象り、鋼鉄をも切り裂く刃へと変貌している。


「無力化する」

「シルフカッター!!」


 フォトンウェポンを翳すクオリア。

 放たれた風の刃シルフカッターへ、照準を合わせた途端、僅かに視界が眩む。


「エラー……」


 例外属性“母”による脳への蓄積ダメージが限界に到達していた。

 不安定な視界に、しかし影が割り込んだ。

 


「……!?」


 クオリアも、アイナも、フィールも絶句した。

 自らの肉体を盾にして、三人の前に躍り出たマスの前面を風の刃シルフカッターが深く刻んだその光景の意味を、直ぐには理解できなかったからだ。

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