第338話 猫耳少女、心を取り戻す

「ハードウェアの制御に異常発生……想定外の、異常が……個体制御率、96%……!」


 経穴に先端を穿たれようとも、9体の残像に教われようとも、全角度から無数の飛矢に晒されようとも、漣さえ立たなかった筈の水面の表情が一変していた。


「ログインに異常な点は無かった……ログアウトしたアイナに、ログイン手段は、存在、しな」


 ぐわり、と首を揺らして真正面を向いたレガシィの瞼。

 色が変わったとか、光が灯ったとか、分かりやすい変化があった訳ではないのに。

 刹那だけ意志が明滅したような、そんな気にさせた。


「フィールさんを見捨てていくなんて絶対ダメ!」


 明らかに、。同じ少女の音色なのに、宿る重みがまるで違う。

 ただ書いてある文章を読み解くだけの、レガシィの声ではない。

 書いてある文章を自分で変えてしまう、アイナの声だった。 

 直後、何かに引き摺られるように猫耳少女の体がフィールの方向へ駆け出す。緊張状態から若干解けていた騎士が、再び人質であるフィールへ刃を向ける。


「何の真似だ……!?」


 マスも図りかねた様子で、牽制も込めて“丸暗鬼”より生成した短刀を放る。だが直ぐに取り合いになっている肉体が後ろに下がり、刃を躱すと同時にフィール達から距離を取るのだった。前を向いた顔は、レガシィのものだった。

 しかし、未だ脳内を虫が這いまわっているかのような顔をして、命令に反して微動する自らの掌を凝視する。


「アイナ、貴様は矛盾している……! 非常に矛盾している……!」


 一人二役。一人芝居。そう揶揄するには、レガシィの顔は真に迫り過ぎていた。


「貴様はフィールを、“晴天教会”と定義される集団を、排除すべき脅威だと認識していた筈だ。貴様はその記録を消去したのか!」


 レガシィの顔が揺れる。

 表情には、アイナの彩りが戻っていた。


「してないよ……! 忘れる訳ないよ……!」


 息を吸い込むと、心の闇を胃の粘膜から全て削ぎ落すように、地面へ向けて渾身の声を放つ。

 

「私も、お兄ちゃんも、獣人は皆! ウォータ君だってそう! 晴天教会に蒼天党の皆が殺されたことも! あの枢機卿にお兄ちゃんの首を落とされたって事も!! 私たち獣人を、勝手に大罪人に仕立て上げて迫害したことも!! 今更忘れられる訳が無いよ! “正統派”だとか“サーバー派”だとか! そんなの私からすれば全部同じだよ!」


 決壊する。

 憎悪の泥が、滝のように溢れる。


「あのハルトも言いたい放題で……その修道服を着た人達は人間の立場から言いたい放題で……!! “げに素晴らしき晴天教会”なんて! 滅びればいいんだ!」

「アイナ……」


 何も反論できないフィールも見守る中、再び肉体を掌握するレガシィ。漣立った面持ちで、暴れ回る何かを抑えつけている。周りから見えていなくとも、脳波とか、そういったこの世界ではまだ判明していない理論の中で、丸裸の戦いを繰り広げている。


「個体制御率94%……説明を、要請する、ならば、貴様は何故フィールの救出を私に強制するのか……!? 矛盾している、矛盾している、矛盾している、個体制御率、93……ッ!?」


 ならばレガシィに体を明け渡して、安全圏に立っていれば良い。逆恨みであろうと何であろうと、怨敵たる教えを信仰する修道女を見捨てれば良い。

 なのに、アイナは生命や自由を賭けてまで、フィールを助けようとしている。

 矛盾。

 人工知能でなくとも、子供であろうとも指摘出来てしまう矛盾だ。


「でもね」


 それでも、肉体にしがみ付くだけの理由が、しかしアイナにはあった。

 レガシィの最善解を覆すだけの底力が、アイナにはあった。


「このペンダントも渡せず、昨日の朱い槍から街も救ってくれたのに、私の命も救ってくれたのに、御礼もちゃんと言えてない状態で、フィールさんを見捨てるのだけは違う!!」


 掌を握り締める。間違いなくアイナの意志だ。


「クオリア様に言えないような……お兄ちゃんに顔向けできないような……私が、私に誇れない様な事を、私の体でするのは、絶対に許さない!」


 再びレガシィがログインする。


「個体制御率91%……予測に大幅な修正あり、人間の定義に大幅な修正在り、“空亡エイプリルルーフ”の運用記録から……人間は、幸福に」


 アイナがすかさず取り返す。


「レガシィ、あなたは “シャットダウン”と同じ世界から来たと、クオリア様が言ってた……あなた達の世界で、人間がどうして滅んだのかは分からない……、“空亡エイプリルルーフ”っていうのが一体何なのか、レガシィが何なのか、どうして私に宿っているのか、分からない、分からない、だけど……だけど、これだけは、言える」


 晴天教会に生活の温かみを奪われても。猫耳へ後ろ指を差されても。目前で最高の兄が断頭しても。目前で最愛の人が首を吊っても。目前で最高の兄がゴーストになっても。肺を破かれ、生死の境を彷徨っても。そんな地獄を通っておきながら、未だに罵声止まぬトンネルの中を突き進むしかなくとも。

 それでも、今日まで生きてきたアイナは、大樹のようにその場に立つ。


「人間って、心って、そんな簡単な物じゃない……だから、私の心に反する限り、私は何度だって、あなたから肉体を、奪い返すから!」


 僅かにアイナの顔が下を向く。それがレガシィに、最後の抵抗だった。


「個体制御率……十分な要件が満たせていていない事に、より……ログ、アウトを……」


 その時、誰の目にも明らかな事が起きた。

 アイナの中から、何かが薄れて見えなくなった。膝を地面に着き、呼吸を荒らげる少女からは、先程まで多数の騎士と一人のプロを圧倒していた怪物の影は片鱗も見出せない。

 

 アイナ自身は壮絶な“奪い合い”を繰り広げた。

 外からはそうは見えない。一人で芝居をやっていたようにしか見えない。

 だが、二人だけアイナの戦いを確信していた者がいた。アイナの晴天教会に対する憎悪の本音と、それでも守りたいという矛盾を受け取ってしまったフィールと、そしてマスであった。


「どうやら、レガシィは君の中からいなくなったようだね」

「いなくなったかは、分かりませんが……また、出てくると思いますが」

「それは勘弁願うよ」


 マスはそう言うと、先程レガシィと濃密な衝突を繰り広げた際に、痛めた腕を掴む。


「レガシィとやらがいなくなれば、私は君を捕まえる。それは考えなかったのか?」

「考えたりもしたけど、でも駄目でした……私の心が、ずっとウズウズして仕方ありませんでした」


 満身創痍ながらも、アイナはまだ諦めていない。強い眼光で、マスと相対する。


「だから、この選択に後悔なんてしてないし、私は今でもフィールさんをどうやって連れ出そうか、企んでます」

「嘘ではなさそうだな」


 “丸暗鬼”。

 マスの手に、土で出来た短刀が出現する。距離が離れているとはいえ、投擲されればアイナでは避ける術がない。


「君がすべき事はただ一つだ。考える必要はない。抵抗するな。それが一番いい。君も傷つかない。フィールも傷つかない。それでいいだろう」

「傷だらけには、慣れてるもので」


 だが、この場で刃を持った騎士が、もう一人いた。

 寄りにもよって一番アイナの近くにいた騎士が、胡乱な眼差しで少女を睨みつけていた。


「よくも……先程は、よくも……」


 レガシィに剣技を躱され、更に顎に一撃を受けて気絶していた騎士だ。レガシィがアイナに戻った事も認識しないまま、虚仮にされたという全身全霊の怒りを刃に籠め、前に構えて突撃を敢行する。

 アイナの死角から駆けてくる騎士に、最初に気付いたのはマスだった。


「いかん!」


 短刀を投げる。

 ただしアイナではなく、味方である筈の騎士目掛けて。


「がふっ」


 鎧の隙間に突き刺さり、騎士がよろめく。

 だが突進は収まらない。

 先端がアイナの体に命中する事は、避けられない――。


「あっ」


 振り返って、今まさに刃が自らの左胸に到達したところで、一ヶ月前にバックドアに貫かれた激痛を思い出しながら、ふとアイナは気付く。 

 

 それこそ太陽の様に無視できない、僅かな肌触りがアイナの意識を逸らした。



         ■       ■



「[N/A]」


 クオリアが到着した瞬間だった。

 剣の先端が、アイナの左胸に到達したのは。




 また、悲劇が――。

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