第337話 猫耳少女、人工知能に傀儡にされる
アンドロイド。
そして――“
晴天経典にも、俗世の辞書にも載っていない単語を平然と発するレガシィへ、不気味さが増幅する。
“幸福維持装置”という響きが、不協和音として耳に残る。
「“
「プロトコル“
「許可と言ったな。即ち主人、クオリアか?」
「“クオリア”と定義される個体に、そのような力はない」
ぴく、と僅かにレガシィの指が振動する。
だがそれを起点に、激流が煩い屋上を沈黙と麻痺が襲う。誰一人として、時間が止まったように動かない。マスは攻めるタイミングを見計らっていて動かない。
「成程。然らば聞こうか。人質として、クオリアの眼前で――乱魔、九速。及び並行発動“丸暗鬼”」
武具が星の様に散らばり、マスが流れ星の様に迫り来る。
残像から放たれる三日月が、レガシィを削る。だが衣服までだ。
「動作を修正する」
マスの胸部に一閃。直後、その得物へ短刀をぶつけて唾競り合う。
短刀だ。
それも、マス現在握っている筈の短刀だ。
いつの間にか、マスの“乱魔”を見切って武具を奪うにまで至っている。
マスがいつ、どこに、どんな体制でいるか。1ミリの誤差もなく予測できなくては、このような大道芸は不可能だ。
(やはり突撃の度、動きが最適化されている。クオリアと同じ特性……! 長い戦闘はこちらに不利か)
音速の極地へと走らせる足捌きを止めることなく、9対1の制圧戦を続ける。斬撃と刺突の豪雨を、しかし短刀一本でレガシィは防ぎ、躱して見せている。短刀が刃毀れを始めれば、再び距離を取るか、あるいはマスからまた無刀取りをしてみせた。
マスの首を、刃が掠める。
一歩間違えれば、不可逆の死が待ち受けている。逆にこちらはレガシィを殺してはいけないという制約がある。
突如訪れた窮地の中で、しかしマスは微かに皺が目立つ顔で笑い始めた。
(まったく……あの人の見る目はやはり異常だ。とんでもない逸材を見つけたものだ)
あの人。
それは、ランサム――ではない。
思い起こすは若き日。血塗れで倒れる自分に手を差し伸べた影。
「ならば試すとしよう。君のイレギュラーを」
距離を取った、マスの指が鳴る。
「“丸暗鬼”――地形方陣“
屋上を構成する地面。
前触れ、予兆等という甘いものは皆無。
何も無かった筈の淋しい石造りから、唐突に無数の棘がレガシィ目掛けて一斉に飛び出した。
棘の流星群が集約する中心に、しかしマスは見た。
不変の眼差しで、迫る先端を凝視するレガシィを。
「全脅威の物理演算完了」
左足を強く踏み込み、右側へ跳ぶ。勿論その程度で串刺しの結界からは逃れられない。
だが最も近づいた二つの棘を、両の手で掴む。
表面が摩擦を起こし、掌が僅かに削れる。
付着する血痕。
誤差と認識した痛みを、レガシィは関知しない。
躱す。
少女特有のしなやかな肉体が、忙しく躍動する。
一秒前まで肉体があった個所を先端が通過する。
当たらない。
鼻先を掠め過ぎ、遅れて翻るスカートを貫通し、猫耳の先端が僅かに削れる。
百を超える飛矢が飛び交う空間。
一歩間違えれば串刺しの綱渡りの領域。
さりとて微塵も臆する事無く、元人工知能は疾駆する。
無機質な軌道で走り回っては突如静止し、両手の棘を振り回して防ぎつつ、大半は奇妙な姿勢を取って回避する。
“舞い”という芸術の印象は一切与えない。
動きの一つ一つがぎこちなさを印象付ける、無骨な仕草だった。
天井から吊り下げられた糸に従う傀儡の如く、意志が感じられない。
そこにあるのは、最善解。
あらかじめ決められたルートに沿って、ハードウェアを動かしているだけの単調な作業。
いつ、どの時点で、どの体勢を取っていれば棘による損傷を防げるのか。
レガシィはそれらを分析し終えている。
安全地帯を把握しきっている。
予測を、完了している。
「……」
再びマスが指を鳴らし、散らばっていた棘が砂へと還る中、侍女としての服装が敗れているのを覗けば、レガシィの体に追加の傷は無かった。
最早唖然として、戦場を見つめるしか出来ない観衆。
再び静寂が、死線の間を潜り抜ける。
今度は、マスは何もしない。“丸暗鬼”による遠隔攻撃の数々も、“縮地”による距離の跳躍も実行しない。一分の隙さえ匂わせない直立を保ちながら、じっとレガシィを睨むだけだ。
鏡写しになって、レガシィもマスの方向を見つめる。だがその瞳にマスが移っているのか、誰も確信を持って答えられなかった。
「そちらからは攻撃しないのか」
マスの問いに、レガシィは無表情を保って答える。
「肯定。マス、貴様には未知の攻撃手段が複数存在すると認識」
「慎重だな。だが臆しているようには見えない。そもそも君からは感情の一切が読み取れない。経穴に刺さった痛みさえ無視出来ている。不思議だ。まるで人形の様だ」
「私は人形ではない」
「失礼。アンドロイド、とやらだったな」
「肯定」
「君は今、何を狙っているのかね」
無言。マスは続けて尋ねる。
「“アイナ”だった君は、生きる事そのものが目的だった。生きる事に関しては、彼女は中々良いものを持っていた。しかも、万全ではない少女と一緒に、彼女はここまで逃げおおせた」
「否定。貴様は矛盾している。アイナのスペックは致命的に低い」
「多重人格者は別人格を否定するのだな。これは発見だ。無駄に老いさらばえた身で、新しい発見が出来るとは思わなんだ……確かに君の方が強いよ。そして合理的だ。何せ先程から、フィールの事は一切考えていない動きだからな」
一度視線をフィールに向ける。二人の会話を聞いて、何か嫌な予感がしたように蒼ざめていた。
「ならば、私はレガシィ、君に一つだけ提案が出来る。悪いものではない筈だ」
「説明を要請する。それは何か」
「君には危害を加えないことを約束する。フィールのみ連れていく。だから君も、我々に攻撃をしないでくれ」
顎から下が落ちたように、言葉に詰まったフィール。狼狽えたのはそのフィールに刃を翳す騎士も同様であった。
「いや、待てよじいさん、あの女を捕まえないと、クオリアに対して人質が……」
「じゃあ誰がレガシィを捕まえることが出来るというのかね。この体たらくで」
自分以外の騎士は、意識を取り戻しながらも未だに悶えている。無闇に剣を振り回したところで、一緒に地面へと伏せるのがオチだろう。
「ローカルホストの勇敢なる騎士よ。君達の願いは、あの厄介なラックによって阻まれてきた。ラックさえ屈させれば、君達がローカルホストに願う平和は訪れる」
「……」
「私も反省だ。二兎追う物一兎も得ず、という言葉がどこかの国にあるらしい。欲張っては身を亡ぼすという訳だ」
肩を揉むマスの視線が再びレガシィへと還る。
「貴様は矛盾している。更なる攻撃手法に出た場合、私を破壊する事も可能な筈だ」
「その手には乗らんよ。まあ、殺す気で行けば五割の確率で君を仕留めることが出来る。だが反対の五割の確率で君は私の攻撃を凌ぎ、学習するのだろう。そうなってしまえばいよいよ手が付けられん」
「肯定」
「何も人質として扱いたいから君を殺せないわけでは無い。君を殺せば、クオリアが暴走する」
「説明を要請する。それはどういう意味か。この個体の破壊に、“クオリア”と貴様達が定義する個体の暴走要素は存在しない」
「君は知らないかもしれないが、一ヶ月前、アイナは肺を刺され昏睡状態にあったそうだ。その際のクオリアの行動は、私が得た情報の中でも荒唐無稽そのものだった。ならば、アイナが死んだとしたら、その行動ははっきり言って予測が着かん。このローカルホストを滅ぼしてもおかしくは無いだろう」
その時、僅かにレガシィの眉に皺が寄った。感情の表出と言える何かが、冷酷な深海の中でそっと揺らめいた瞬間だった。
「そういう訳で私は君に手を出せない。無論、それでも我々を攻撃したいのであれば、愚かな行動に出なくてはならないだろう。どうするね」
「提案は受諾された。フィールは私にとっては、必要な存在ではない」
フィールの顔から体温が消えた。アイナだったものを見つめる目から光が失せた。
「分かった。こちらから退こう。下で伸びてる騎士達も遠ざける。こちらに騙す意図はない」
「理解した。しかし貴様らの監視は継続する」
「いいだろう」
マスが合図を出すと、渋々と言った様子で騎士達が後退る。意識を失って動けない騎士も、マスが軽々と持ち上げて運ばれていく。
「アイナ……」
その時、フィールは正真正銘、これ以下はないくらいに絶望していた。
淡々と自分売ってしまったレガシィへ、視線を送ることしか出来ないでいた。
「嘘で、しょ……?」
一時は、巻き込まれたアイナに申し訳なくて、彼女一人で逃げて欲しかった。
何より、時折アイナの横顔に見出していた。サーバー領での教えとか、“正統派”とか一切関係なく、晴天教会そのものに深いしこりを抱く陰鬱で濁った色が、瞳に見え隠れしていた。
故に肩を合わせて隠れていた時も、どこかアイナとは距離があった。
それでも、一緒に逃避行を繰り返す中で、置いていかずに共に走ってくれるアイナへ、一種の希望と心地よさを抱いていた。
だからこそ、フィールはどん底に突き落とされた気分だった。
今更自分がそんな事を言える立場ではない事も、分かっている。
“見捨てられた”なんて恨みを抱くのは、ユビキタスの教えに背くことだと分かっている。
それでも。
それでも。
「……?」
その時だった。
鉄槌で脳を直接叩かれたように。
レガシィの頭が、左へ折れたのは。
「……異常が、発生」
自分の首にナイフを突きつける騎士も、マスという手練れもようやく気付いたようだ。
全身から何かが飛び出す様に、途切れ途切れに痙攣を繰り返すレガシィの奇行に。
「だ、め……」
フィールは聞いた。
アイナの、必死な声を。
すぐさまレガシィの無機質な声に戻るも、確かに聞いた。
「個体名“アイナ”の制御率99%……」
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