第326話 人工知能、教皇を追い詰める
『ルート……子供というのはね、母親の言う事を聞くものなの』
十歳の誕生日だった。その日、大好きな母親はプレゼントを用意してくれた。
近頃は、母親は疲れ切っていたようだ。先程も行き場のない八つ当たりでスイセンという花が入った花瓶を割ってしまった。
『あなたが私の子供ならばね、私の言う事を聞くはずなの』
『は、はい、母上』
『可愛いわ。あなただけが、私に残された善なの』
『母上、私にとっても母上だけが、全て、です』
何年ぶりだろう。母の“笑顔”を、見たのは。
それが一番の誕生日プレゼントだった。
昔はよく見せてくれた笑顔。
笑っていればいい。怒っているよりはいい。
窶れていても、笑顔ならば安心する。
母親の笑顔の為ならば、ルートは何でも出来る。
『だからね、ルート』
母は、笑顔よりも煌めく花瓶の破片を握り締める。
突き刺さる掌の痛みすらも、もう気にせずに笑ってくれていた。
笑ってくれていた。
笑ってくれていた。
笑ってくれていた。
だってルートは、あのお腹から産まれてきたのだから。
『私の為に、死になさい』
…………。
……。
それからの事は、よく覚えていなかった。
ただ結果だけが、血と一緒に広がっていた。
スイセンを沈め、花瓶の水と混じり、床中に赤く広がっていた。
頸動脈から噴き出した血の中で、母親が動かなくなっていた。
瞳孔が開き切った眼は、もう子供の事を見ていなかった。
血の気の失せた蒼ざめた顔に、笑顔はもう無い。
抜け殻を見下ろしていたルートのように凍り付いて、笑顔は永遠にもう無い。
『どうして、こんな事に?』
『お前は何もしていない。ルート』
乾いた問いに、背後から声が返ってきた。
男は、血塗れの花瓶の破片を握っていた。
直感した。
この男が、即ちヴィルジンが、母親を殺した。
『……なら、何故母上はこんな……!』
睨みつけた相手は、一応自分の父親である。だが母親と違い、この男の事を一度たりとも家族と思ったことはない。
十歳のルートでも知っている。
ヴィルジンは晴天教会を裏切り、このアカシア王国を自分のものにしたのだ。
即ち、晴天教会に忠を尽くしていた母親をも裏切った。
ヴィルジンは光を失った眼でルートがいるであろう辺りを暫く見つめ、僅かな間をおいて、力のない表情で答えた。
『ああ、そうだ。お前は殺していない。事故だ』
『……その破片は……!? その破片で、あなたが母を殺したの!?』
返答の代わりに、ヴィルジンはルートを抱きしめた。
『私は、母上に殺されなければならなかったのに』
私は、死ねた。
私は、死ねたはずだ。
母がいなくなって、くだらなくなった抜け殻のような心の中で、ルートは何度も自分に言い聞かせた。
『子供は、母上の言う事を、聞かなきゃいけないのに……!』
『そうか。ルート。すまなかった』
私は、死ねたのに。
私は、死ねたはずなのに。
この男は、死ぬ意味さえ奪った。
その憎しみだけで、ルートは教皇になった。
■ ■
「あなたは誤っている。“母親”とは、即ち家族とは、そのような在り方をしないと判断できる……!」
未だ脳へのダメージが完治しきっておらず、クオリアが翳すフォトンウェポンも銃口が揺らいでいる。だが血涙の痕跡が目立つ眼光に、“母親”による濁りは無い。
視線と銃口の交点で、一瞬だけ過去を思い出していたようなルートが呆けていた。
「……クオリア。貴方、母親に向かって銃を向けるの?」
「あなたは
「母親よ……私の
例外属性“母”の魔力がクオリアの脳を貫通する。
だが、もうクオリアは5Dプリントを発する事さえしない。消耗しきった表情を見せるものの、魔性に魅了された気配は片鱗も見せない。
代わりに、ルートが落胆した表情を象るだけだ。
「な、なんで……」
「あなたの
毒をラーニングし、免疫を創ったのと同じ原理だ。
脳に免疫のようなものを作り、ルートの例外属性“母”を無力化しただけの話だ。
だが、そんな科学は理解しえないと言った顔のルート。流石にその反応は仕方ないと、ロベリアやスピリトも小さく笑った。
「クオリア、時間はないよ。多分向こう側でランサムがラック侯爵相手に何かやってる。それにアイナも心配でしょ」
「肯定。ルートは5Dプリントによる拘束具で無力化する」
スピリトの提言の通り、クオリアには悠長にルートに付き合っている暇はない。
クオリアには、今すぐにやらなければならないことがある――アイナとフィールの救出だ。
だが、ここで踵を返して屋敷を出ては、置いていったロベリアとスピリトがランサムに何をされるか分からない。
更に言えば、午後にはデリートも来る。この対処もしなければならない。
ここからクオリアがすべき最適解。
まず、ランサムを短時間で倒し。
すぐさまアイナを正体不明の暗殺者の手から救い。
そして、デリートも倒す。
しかも、例外属性“母”によって万全ではない演算回路の状態で。
故に、ルートに構っている時間も体力も惜しい。
クオリアが掌をルートに向けて、5Dプリント機構を起動しようとした時だった。
「うっ」
ほんの僅かに、腹部を抑えて苦悶するルートの声があった。
直後だった。
波紋のように例外属性“母”の魔力が、ラーニング済みだった筈のクオリアに再びハッキングした。
否、ハッキングと言うよりは。
とある
「……今の……!?」
“母親”の干渉を受け、反射的に5Dプリントの光を脳髄に走らせながらも、クオリアは後ろで起きていた事を認識していた。
血縁故に、ルートの例外属性“母”を受けない筈のロベリアとスピリトも、僅かに体の動きを制限されている――例外属性“母”の影響を受けている。
「クオリア君!? 大丈夫!?」
「肯定。5Dプリントによる緊急メンテナンスを展開した」
意識を占有される事は無かった。ルートがこれまで繰り出していた
だが、“ラーニング済みのクオリアにも、血が繋がっている姉妹にも通用した”という無視できない相違点が存在する。
その相違点を、クオリアは再度分析する。
「今の例外属性“母”の魔力パターンは、ルートの物ではない」
「確かに、僅かだけど私の脳も搔き乱された感がある……! ルートの例外属性“母”ならこうはならない筈だよ!」
「どういう事!? 他に例外属性“母”を使えるようなヤバいのがいるって事!?」
剣を抜かんとしつつ、スピリトが傷ついた体を押して見渡す。だがクオリアは警戒心を張り巡らせるまでもなく、スピリトへ諭した。
「否定。辺りに他の個体は検知できない……また、先程の魔力はルートの魔力とは一致しないが、出所はルートの腹部だった」
「腹部? どういう事よ……? ルート、何をしたのよ」
“腹部”。
スピリトが眉を顰める一方で、ロベリアが何かを思い立ったようにルートの腹部を再度見つめる。だが視線の先でルートも疑問符を浮かべつつ、思わしくない状況に顔を歪ませていた。
「……知らないわ」
「いえ、間違いなくルート。あなたが関係してる」
「お姉ちゃんの言う通り。それは間違いないと思う」
「肯定――ルート、あなたの実績に基づくイメージが先程の例外属性“母”によるハッキングにインプットされていた」
どういう事よ、とルートが僅かに呟く。
正体不明の例外属性“母”を受けた途端、クオリアもロベリアもスピリトも、同じイメージが共有されていた。互いの反応から得た情景が同じであることを察すると、再度一様にルートの方を見た。
イメージの内容。
それは、無我のルートが花瓶の破片を握っていて。
破片の先端で、自分を殺そうとした母親の首を貫いていて。
直ぐ後に駆け付けたヴィルジンが、破片を取り上げてルートを抱きしめた姿。
そのイメージの内容を、ロベリアが代表して突き付ける。
「……自殺したのか、
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