第327話 人工知能、王女と二回目の握手をする

「私が……母上を、殺した?」


 追い詰められたことによる恐怖が、どこかにいった。

 形勢逆転したことによる驚愕も、どこかにいった。

 教皇の位も、母親の皮も脱ぎ切った女に残っていたのは、体温さえ遮断されたようなルートの静かなる激昂だった。


「どうして? 何故私が母上を殺したなんて、突然嘘を語りだしたの? 何を勝った気になってるのかしら……? 事実を捻じ曲げて、歴史を改竄して、母殺しの冤罪すらも与えるというの貴方達は!!」

「……ルートの発言に虚偽の値は検出できない」


 面様に刻まれた青筋に駆られ、眼を大きく見開くルートの挙動と、クオリア達に根付けられたイメージはあまりに矛盾している。

 本気で、ルートは母を殺していない。本気で、冤罪だと思っている。


「“乖離性健忘”」


 突如ロベリアが口にしたキーワードは、クオリアには聞き覚えの無いものだった。


「あまりにショックな出来事に直面した時、自分を守るためにその出来事を忘却してしまう事があるって話、聞いたことある」

「乖離性健忘を登録……“ショックな出来事”とは、ルートが母親の生命活動を停止した内容を差すのか」

「多分ね。あのイメージを真とするならば、多分最初は母親がルートを殺そうとした。聞いた話じゃ、ルートは虐待を受けてたって聞くし。でも、ルートは咄嗟に抵抗し、結果返り討ちにしてしまった」

「虐待……!? 違うわ、いつも私の傍にいてくれた! 私がいい子にしてると、よくスープを作ってくれた! 私が悪い子だったから、私が、悪い子だったから、私が、私が悪い子だったから……! あの時だって私は、本当は死ねたはずなのに! あの憎きヴィルジンが!!」


 やはり、ルートに虚偽の値は取得できない。主張する母親の寵愛に嘘はない。

 だが、心のどこかで引っかかる。

 母を語るルートと、取り違えた配線の為に奇怪に誤作動し続ける機械が重なる。


「クオリア君。スピリト、こんなのに構ってないでさ、行きな」


 何かを諦めたような溜息が隣からしたかと思うと、ロベリアが一歩前に出ていた。


「こいつの喧嘩相手は私が引き受けるわ」

「しかし、それではロベリアが損傷を受けるリスクがある」

「そうだね。私にできるのはせいぜい、喧嘩まで。戦闘ってなったら兎より弱い自信あるわ」


 両肩を竦めるロベリア。


「でもさ、こんな温室育ちは、私みたいな小娘でも十分でしょ。流石に喧嘩で負けは無いかな」

「お姉ちゃん……」

「コイツとは、きちんと清算しなきゃいけないのよ。私が」


 振り返ったロベリアの清々しい顔を見ると、クオリアとスピリトの中で渦巻いていた不安が不思議と晴れていく。


「クオリア君は、アイナちゃんを助けに行きたいんでしょ」

「……肯定」

「クオリア君。守衛騎士団“ハローワールド”として命令します。あなたの最適解を果たしなさい」

「要求は、受諾された」

「スピリトも、今果たすべきことを果たして」

 

 頷いたクオリアから、未だ心残りがあると言わんばかりに眉を顰めるスピリトに視線を移した。


「きっと、ここで倒れてるなんて事、どうせ出来ない性分なんでしょ。止めたって無駄でしょ。何をすべきか分かってんでしょ」

「……ええ。今、一番怖いのはランサム。ここで立ち止まって、ランサムがこっちに来たらお姉ちゃんが危ない」

「私だけじゃないでしょ」

「うん。全てが危ない。だから私はランサムを斬りに行く」


 掌を握り締めて自分の意志を口にした妹へ、薄らと笑みを浮かべて頷く。

 

「一つだけ約束して。クオリア君も、スピリトも――死ぬな」

「要求は受諾された」


 クオリアが右手を差し出す。

 一瞬、差し出された掌を、不意を突かれたロベリアは見つめるだけだった。


「握手を要求する」


 最初にロベリアと会った時の様に。

 だが、あの時とは真逆で。

 今度は、クオリアが促して。

 ロベリアが右掌を差し出して。

 真正面からクオリアの掌が重なる。


「“よろしく、お願い、します”」

「……うん、よろしくお願いいたします!」


 振り返ることなく、互いに傷ついた体のままクオリアとスピリトは廊下の闇へ消えていく。


「クオリア待ちなさい!」


 純白の後髪へ、少年の後姿へルートが手を伸ばす。


「母親を捨ててどこに行くの!? お母さんの言う事が聞けないの!?」

「勝手にクオリア君を息子呼ばわりしてんじゃねえぞコラ。そんなん許可した覚え無いし」


 教皇の手の先で、ロベリアが腕組して睨みつける。

 導火線に火が着いた、爆発十秒前の静かな憤怒を宿している。


「この娼婦の腸から落とされた、売女があああああああああああ!!」


 一方。鬼を連想する強張った顔で、一歩一歩力強く床へ八つ当たりしながらルートが近づいてくる。

 

 しかし、ロベリアの表情に陰りはない。

 そして、二人の距離は零にまで近づく。


「そんな凄んだって、私に抱擁信仰イニシャリズムは効かないぞ。姉上……ま、今のアンタを見て母親なんて思う人はいないだろうけどね」


 今日ほど血が繋がってて憎いと素直に思ったことも無ければ。

 今日ほど血が繋がってて助かったと皮肉めいた事を考えた事も無い。

 父が同じでなければ、こうして出会う事さえ無かっただろうに。


「ああああああああああああ!」


 バチン、と甲高く弾けた。

 ルートの平手が、ロベリアの頬を突き抜けた。

 赤く晴れた頬。切った唇の端から流れる血。

 僅かに留飲が下がったように、ルートの顔に笑みが浮かぶ。


かっる」


 小馬鹿にするような、ロベリアの声が無ければそのまま笑っていただろう。


「妹のパンチの方が一万倍痛かったし」

「へぶし」


 最適解も秘奥義も何の変哲も無い、右ストレート。

 それを教皇気取る姉の鼻っ柱へぶつける。

 仰け反ったルートの鼻からはロベリア以上に血が零れていた。


 視線を戻すルート。

 だがその時には、またロベリアが右手を握りしめて構えていた。


「ひっ」

「何よ。今更暴力反対とか抜かすんじゃないでしょうね。可愛く悲劇のヒロインぶったって、敵は容赦しないぞ。私が女で良かったねー、犯されずに済むねー。その分殴るけど」

「ばぅ」


 少女らしく膝立ちになって震える事しか出来ないルートへ、胸倉を左手で掴む。そして僅かに潰れた鼻へ再度拳を打ち込んだ。


「あんたの前にいるのはお母さんじゃなくて、憎いと思ってる妹だから。最後に抱きしめてハッピーエンドとか期待してんじゃないっての。私の親友を、沢山の人間を死に追い込んでおいて、今更人間扱いされるとか都合のいいこと考えてんなよ。これから気絶するまで止まらず殴るから覚悟しろよ」

「ひぃ」


 三度目の拳を振り上げた時だった。

 また例外属性“母”がロベリアの動きを一瞬封じた。


「うっ」


 思わず掴んでいた胸倉を手放してしまった。何か心そのものが、ルートを殴ることに抵抗感を示している。

 自身にも干渉可能な例外属性“母”の出所を、しかし確かにロベリアは確信した。

 尻もちを着いて折れた鼻をどうにかすることも無く、歯を震わせるルートのを暫く見つめる。


 一方のルートは、たった二発の殴打を受けただけですっかり腰が抜けたようで、最早教皇たる淑女として闊歩していた面影は一切感じられない。


「ぶ、ぶた、ない、で、母上、私今度は、ちゃんとやるから……!」

「……何言ってんの?」

「母上、ほら、私ね、勉強できるように、なったんだよ……だから、ぶたないで、ぶたないで、お願い、ぶたないで」

「……はぁ」


 溜息をしながらロベリアは勘付いた。理解したく無かったが、出来てしまったものは仕方ない。

 今の右往左往するルートの眼に映っているのは、“躾”をしてくる母親なのだ。

 “殴られる”という行為。これがトリガーとなって過去を追体験している。

 凍える夜に一人、取り残されている。

 踏み込んではいけない心の領域に踏み込んだ結果、ルートは一時的にはとはいえ壊れていた。


「あ、あわ、あわ、わ、あ、ぶ、ぶたないで母上……母上、ご、ごめんなさい……ルートは、私は、いい子で、いるから……!」

「それがあんたの正体よ」


 前髪を掻き分け、少し汗を掻いた額を空気に触れさせながら、“虐待”の幻覚に苛まれる姉へ事実を突きつける。


「あんた一人じゃ何も出来なかったから、抱擁信仰イニシャリズムなんてズルで、教皇なんて誰も手が届かない所に行って、周りを固めてたわけだよね」

「私ね、友達、いらない、から。母上に、ずっと、尽くして」

「そこはね、わかるよ」


 ルートの幼子を無理矢理真似たような顔が、ロベリアを見上げる。


「私もクオリア君みたいに頭がいい訳じゃないし、スピリトみたいに剣が強い訳じゃないし、アイナちゃんみたいに料理が旨い訳じゃないし、エスみたいに食べるの早い訳じゃないし……ラヴみたいに、誰かの心をときめかせるような物持ってなかったし。だから守りたいもの守るには、どっかの強くて偉い男に傅くしかないって、一時期本気で思ってた」

「母、上」

「その癖覚悟も決まってなくて、世界の為に誰かを犠牲にするなんて勇気も無くて。だから誰も争わない楽園を願った時もあった。でもそれは私が楽をしたいからってだけの、逃げにしか過ぎない。多分親友にはこう言われるでしょうね。“一人だけ美味しい思いをしようとする奴は、結局不味い思いをするんですよ”って。誰かを利用して楽になろうとした、私達にぴったりの言葉じゃない?」

「……あれ? 母上……!? じゃない! ロベリア、母上をどこ……ひっ!?」


 ルートの焦点が戻ってきた。ロベリアを見つけて一瞬睨みつけるも、右手を翳すと直ぐに委縮する。最早戦意が失われている。


「だから私が、あんたを隠れさせない。もう男達を手駒にして、自分が頂点に立ちたいが為の革命なんて起こさせない。何よりあんたは、ちゃんと自分の手と足で、それこそ“母親”として為さなきゃいけない事がある」

「何の事よ……」

「まだ気づいてないの?」


 ロベリアの視線が再びルートの腹部に向く。視線を追ってルートも自身の腹部を見出したところで、答え合わせをする。





「…………妊娠?」

「父親はランサム公爵か。そりゃまた凄い子になりそうだ。でも産まれてくる子に罪はない」


 ぱくぱく、と金魚の様に口を動かすだけで呆けていて、結局最後まで立ち上がれないルートへ、決まりが悪そうにロベリアが確信レベルの推測を殴打代わりに叩きつける。

 

「多分さっきの例外属性“母”。お腹の中にいる子供から発せられていたんだよ……多分、母親であるあんたを守りたくて」

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