第322話 人工知能、母親を得る
光。
光。
母という光が、心を一色に染めていく。
“心とは何か”を、模範解答で沈めていく。
「エラー。“母親”は早急に演算から排除するべきだ……!」
何も胃に入ってないのに、生肉をふんだんに突っ込まれたようで、全て吐き出してしまいそうだった。
強制的にインプットされる温みへ、無理矢理ラーニングしてしまう優しさへ、監獄のような演算してしまう“母親”という結論に、必死に抗っていた。
「エラー、エラー、母親、は、母親、に、
それでも“母親”という概念は、温かった。
心を、ずっと後ろ抱きしめてくれていた。
体はさっきからずっと冷たいのに、体温はずっと下がり続けているのに、“何かとんでもないエラーが起きている”のに、安心感で満たされていた。
人が聖書に縋るのと同じ信仰。
人工知能がアルゴリズムで最適解出すのと同じ仕組。
無条件で誰も彼もが降伏する“母親”という幸福を。
しかしクオリアはまだ否定し続けていた。
否定し続けていた。
否定し続けていた。
否定――。
――母親。
「エラー……エラー……[N/A]、肯定」
クオリアの中の“母親”が、完成した。
誰もいない廊下で、薄暗い壁に挟まれた中、一人パズルを完成した。
理論武装は解除され、心は丸裸にされ。
エラーが、ノイズが、[N/A]が一つずつ丁寧に剥がれていった。
例外属性“母”。
それが、ルートを母親としか認識できない妄執の感染症だと理解していても。
もう、演算なんてできない。
母親のこと以外は。
ただ一つだけ、クオリアがラーニングしたことがある。
泣くことしか出来ない赤子は。
きっとこうして癒されるのだろう。
「クオリア君、しっかりして、クオリア君!」
誰かの声が聞こえる。
振り返ると、直ぐそこにロベリアがいた。
もう何も演算できない程に蕩けた頭で、思考を振り絞る。
息を切らして、青ざめた顔でこっちを見てくる。
理解できなかった。取得できなかった。
陽に暖められたような愛に満ちて、今自分は幸せなのに何故そんな顔をするのか。
「クオリア君……!?」
伸ばしてきた手を払うと、ロベリアは愕然とした。
「……あなたは、母親ではない」
違う。
彼女は、母親ではない。
そんな君は見たくなかったと、絶望するこの少女は、決して母親などではない。
母の、敵だ。
「エラー。“母親”以外の、笑顔は優先するべきではない」
母親を愛する事こそが、この世界のプロトコル。
即ちルートの命を守り、ルートの心に従い、ルートの敵を駆逐する事がクオリアの使命。
母親の為に、クオリアは異世界から転生してきたのだ。
だから、このロベリアという少女も、今すぐ排除するべきだ。
「分からない……お姉さんの事、分からない?」
「あなたは、敵だ。“母親”の脅威だ。だから、あなたの事は」
だが、しがみ付いてくるロベリアを今度は振りほどけなかった。
こんな無防備な個体を殺害する最適解ならば、何億通りと浮かぶのに。
「あなたの事は」
「――クオリア。おいで」
平和の証があそこで待っている。
晴天の下に、クオリアは駆け込んだ。
もう母親以外、何も取得できない。
クオリアの心は、もう母の
「私の子に何をするのかしら? 泥棒猫」
「……クオリア君を解放しなさい」
ロベリアは立ち尽くしながらも、碧の眼光を弱めることなく、ルートを凝視してきていた。
「クオリア君はね。あんたみたいなのに飼われてる暇は無いんだよ」
「飼われてるって。それはあなたの方じゃないかしら? ロベリア。どんな手を使ってこの子を飼いならしていたのかは知らないけれど。十中八九思い浮かぶけれど。身体を使って、淫乱に誘惑して、純粋なクオリアの心を縛り付けていたのでしょう」
「それは誤っている」
特に演算した内容ではなかった。
ただ記憶の片隅で残っていた何かが、クオリアに言葉を発させたのだ。
ロベリアとの最初に出会いは。
そんな邪なものではなく、真正面からの“握手”で――。
バチン、と演算が止まった。
ルートの平手が、クオリアの頬を突き抜けた。
「母親に逆らうの? 私は貴方の為を想って言っているのよ。謝りなさい」
「……ごめん、なさい」
「いや待ってよ。謝るのはあんたの方よ。何クオリア君を汚い手で傷つけてんのよ」
『Type GUN』
フォトンウェポンが、生成された。
ロベリア目掛けて、いつでもトリガーを弾ける状態になっていた。
「……クオリア君はさ。それでいいんだっけ」
「あなたの存在は、“母親を守る”というプロトコルにリスクが大きい。だから
「君には、もっと大事なものがあるよね」
「“母親”以上に、即ちルート以上に、大事な、大事なものは……」
しかし真上からそっと銃身に手が添えられた。
天使の翼の様に、優しくて、柔らかい母親の掌だった。
「嬉しいわ。でもちょっと待ちなさい、クオリア。大丈夫、全部私の言う通りにしていれば、いい子でいられるからね?」
「肯定」
「そんな返事じゃなくて、『分かりました、お母さん』でしょ?」
「分かりました、お母さん」
糸に操られた人形の様にクオリアが答えた直後だった。
一つの肉体が、床を滑ってきた。
ロベリアよりも更に小さい、まだ子供のような小さくて細い体。
その衣服は見る影も無く破け、あちこちは酷い火傷に覆われ、意識を保っているのがやっとといった様子だ。
「スピリト、と認識」
「スピリト……」
膝をついたロベリア。だがクオリアはそんな反応を示す様子はない。
にも関わらず、幸せなはずの心に押し寄せたこの黒い感情は何だろう。
演算も、思考も出来ないこの反応は何だろう。
スピリトが滑ってきた方向から、男が歩いてきた。緋色の靄が彼を修飾している。
「――生きているさ。一応は鍛えててくれて助かった」
「ランサム枢機卿。流石は真の聖剣聖にして、現人神に最も近い血を継いだ我が夫」
「さて、後はラックだけですな。私はあの男と“会談”しております。長旅の鬱憤、存分にお晴らしください。教皇」
遠くなっていく背中に、クオリアは何も思わない。ルートの妻だからと言って、ランサムが父親であるとは思わない。だが母親の味方であるならば、彼の邪魔をするわけにはいかない。
「クオリア。母は、スピリトが怖い。だからいつでも殺せるようになさい」
「わかりました。お母さん」
フォトンウェポンの銃口を、倒れ伏したまま起き上がる事も出来ないスピリトへと移す。筒の向こう側に、後ろ髪を引くように唇を噛み締めた少女の苦渋が見える。
「クオリア……君まで」
「ウフフ……そうそう。私はね、スピリト。昔からロベリア以上に生意気だったあなたのそういう顔が、ずーっと見たかったのよ。嬉しいわ、死に際に私が願っていたものを遺してくれるなんて」
「……うるさい……なんでよ。なんでそんなに私らに執着するのよ」
何とか起き上がろうとするも、フォトンウェポンに牽制されて適わない。中途半端に尻を浮かせた表情がルートの興を満たしたのか、更なる母親の笑い声が木霊する。
「クオリアの心を壊してまで……私達に近い人の心を壊してまで……なんであんたはそんなに人の心を壊せるのよ」
「……はぁ? 壊したのは貴方達でしょう?」
ロベリアもスピリトも、言っている意味が飲み込めず停止した。
「私の母上は、ずっと苦しんでた。ヴィルジンが晴天教会に反旗を翻したから。そして更に言えば、外で娼婦と子供を作ってたから。ロベリア。スピリト。貴方達の事よ」
心躍る雰囲気から一転して、忌々しげにルートが続ける。
「晴天教会がヴィルジンに敗れた“
「
「あまつさえ!! あまつさえ!! あの男は、母上を殺したァ!!」
止め処ない鉄砲水の如く、甲高い叫び声が全てを沈黙させた。
「
「ははは……何も知らないのね。ヴィルジンが殺したに決まってんでしょ!! あの男は、晴天教会の出身である母上が邪魔で邪魔で邪魔で……母が狂乱して自殺したと見せかけて、割れていたガラスで殺したのよ……今でも思い出すわ。喉仏にガラスが突き刺さった、母上の血塗れの姿を……私は母上に起きてもらいたくて、血塗れになりながら寄り添ってたかしらねぇ」
「……」
「ヴィルジンはいずれ私が壊して殺す……、けど、貴方達が生まれさえしなければ、母上は心が壊れることまでは無かったわ……だから今度は、私が貴方達姉妹の心を壊す……やっと宿願の時」
クオリアの頭を、そっと何かが撫でる。
ルートの掌だった。クオリアは安心した――一瞬、魔女の掌かと思ったからだ。
「ロベリア。一つ選択肢を上げる」
「……」
「妹を殺されたくなかったら、私と一緒に来なさい」
ふっ、とルートの頬が吊り上がる。
「ただし、全裸になって、外へ行くのよ」
自分が殺されると言われた時よりも、スピリトの肌が泡立った。
「お姉ちゃん駄目!」
「何が駄目なものですか。簡単よ。裸でサーバー領民の前で懺悔するだけよ。台本は私の方で考えてきたから安心なさい」
「ルート……!」
だが今のスピリトには何もできない。人質になることしか出来ない。
「私としてはどっちでもいいのよ。私の息子であるクオリアによってスピリトが殺され、あなたが絶望に沈むもよし。ロベリアが要求を呑んで、その薄汚い裸を観衆に見せつけて恥辱に塗れ、一方のスピリトは姉のみっともない姿を見て絶望に沈む」
「……お姉ちゃんごめん」
クオリアは目撃した。
スピリトが自分の舌を噛み千切ろうとしているのを。
直感的に、クオリアの体が突き動かされた。
「スピリ――」
「分かった」
ロベリアの覚悟を決めた発言が、クオリアもスピリトも止めた。
「私が、脱げばいいんだよね」
と言った時には、身に着けていた上着に手を掛けていた。
「エラー」
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