第319話 人工知能、母親を知ってしまう
クオリアの視力を回復する事。
即ち、意図的に閉塞している視界を開く事。
換言すれば、目を開く事。
「ただ眼を開くだけでいいのだよ? 目を開くだけで、我々“正統派”は君の大事で大事で大事な獣人を、助けてやると言っているのだよ?」
まるで起き上がるよりも簡単な事の様に、言って見せる。ランサムもクオリアの視力喪失が可逆的なものである事には勘付いている。
確かに目を開く事は簡単だ。視界を塞ぐコンタクトレンズを外せばよい。
「駄目だよクオリア君!」
「取らないでよ、そんなことしたら……散々この魔女の事は言ったでしょう!?」
「……肯定。
それは即ち、全てを教皇の子とする例外属性“母”の魔術、
「目を開いたって……こいつらがアイナちゃんやフィールさんを助ける保証なんて一切ない!」
袖を掴む王女の手。
震えている。
きっとコンタクトレンズの向こう側では、もっと瞳が大きく揺らいでいるのだろう。
隣では、スピリトが何もさせまいと手首を掴んできている。ロベリアよりも恐怖をその握りしめる掌に宿している。
「肯定。あなた達の懸念の通り、ランサムは虚構の発言をしている」
彼女達がここまでクオリアを離すまいとしている理由もわかる。
眼を開いても、アイナに安全が提供される可能性が無いことは、重々承知している。
だが会談のテーブルの隣で佇むクオリアの演算は、タイムアウトさえする事も無く空回りしたままだった。
アイナの血を、禁断の過去から取りだして。
それを真っ暗な視界に投影して、演算を食いつぶす感情を急成長させている。
「ランサムは虚構の発言をしている、しかし」
しかし。
それが嘘だという事は演算するまでも無く分かっているのに。
分かっているのに。分かっているのに。
ここでルートの神聖なる姿とやらを視界に収めた所で、アイナが助かる保証がないのは言われるまでも無く分かり切っているのに。
だがここで目を開かなければ、もしかしたらランサム達は何らかの手段を使ってアイナへ何かするかもしれないから。
ここで目を開けなかったから、アイナが血塗れになるかもしれないから。
選択が、取り返しのつかない事かもしれないから。
「しかし、
不安が、また帰ってくる。
クオリアの心へ、ずかずかと踏み込んでくる。
ノーフェイスゴーストの黒い魔力の様に、情の錠を無理矢理こじ開けてくる。
体が、勝手に動く。
「クオリア君!」
気付いた時には左手から、5Dプリントの光が瞼の裏へと照射されていた。
クオリアの
「エラー、
誰よりも驚嘆していたのはクオリア自身だった。こんな神経信号を肉体へ流したつもりもなければ、解除の電気信号を5Dプリントに伝えたつもりもない。
だが、掌は独立して動いた。
思わず、動いた、
心にもなく、動いた。
意志とは真逆に、動いた。
結果、月さえ霞む魔性の美貌を視認した。
「エラー、早急に視覚情報を破棄。並びに視覚情報の取得を妨害するフィルタを――」」
「“
自由になった眼球に、光が差し込む。
眩くないのに、光と感じてしまった。
温かくて、心地よくて、いつまでも触れていたい、光。
光の狭間で、見た。
ルートによく似た女性が、今からあなたの頬を叩くと言わんばかりに、掌を挙げている姿を。
母親。
人が生まれた瞬間に認識するはずの絶対の概念が、クオリアの中へと捻じ込まれた。
「クオリア……」
「クオリア君!」
悪夢の入り口を見たようなスピリトの小声が会談の場へ沈殿する。
悔恨の思いに駆られたロベリアの大声が会談の場へ木霊する。
その二人が近づく直前。
5Dプリントは、起動した。
『Type GUN』
「さあ。可愛くて可哀想な子よ。孝行の時間よ」
クオリアが見たのは、二人のどちらでもなく、妖しく笑むルートだった。
5Dプリントで生成したのは、コンタクトレンズではなかった。味方さえも殺せてしまう、筒状の凶器である。
「ラック侯爵が、私には耐えられない程邪魔なの」
「……母親を、ラーニングした」
先端の風穴が、ラックへと向いていた。
「……っ!」
クオリアが正気どころか、通常の演算力を発揮できていないことは、発射と同時にスピリトが即座に払いのけた事からも明らかだった。通常時ならば、スピリトを回避してフォトンウェポンのトリガーを弾くことが出来たはずだ。
逸れた
完全にクオリアの意識は、ルートの
しかし裏を返せば、不完全ながらクオリアの意識は、着実に
「え、エラー……しかし、母親の、ルートの命令権が優先……誤っている、誤って、しかし、……ラックへの損傷を認識……
だが、クオリアの中では演算が捻じ曲げられている。
感情さえ、押し曲げられている。
心が。
人間になって、やっと手に入れた心が。
ハッキングの様に、書き換えられていく。
心を食材にして。
母親が作るカレーの様に。
アイナが作るシチューの様に。
ぐつぐつと。ぐるぐると。ごとごとと。
沸騰して、掻き混ぜられて、沸騰して、溶けていく。
「クオリア! 自分を強く持って!」
「“おかあ、さん”」
虚ろに視線を彷徨わせるクオリアへ、スピリトが真正面から必死にしがみ付く。立っている事しか出来ないクオリアの体は、生まれたての赤子の如くあまりに力が無かった。
「……」
ロベリアも立ち上がり、無言でクオリアに抱き着く。
いつもならば、密着した体に
しかし、クオリアはもう少年らしい事をしない。
赤ちゃんの様に、おやつをただ待っているだけの視線をするか。
あるいは恥じる大人の様に、奇怪に首を横に振る。
忙しく、天秤は揺れる。
「エラー……このままでは、不利益な、行動を……あなた達へ、これ以上、攻撃は……!」
よろめきながらも、クオリアは動いた。廊下へ繋がる扉へと、崩れるように消えていった。
「意外ですわね。まだ抵抗する力が残っていたなんて」
面白い玩具でも見つけたような素振りで、ルートは立ち上がる。
そしてクオリアを追いかけようとした所で今にも斬りかかりそうな程に息を吐くスピリトと、凍えるように俯くロベリアに塞がれた。
「お姉ちゃんはクオリアの所に行って……私がこいつ、絶対にクオリアの所に行かさないから」
廊下の影へと消えていくクオリアを目で追う。
横目でルートを一度だけ睥睨する。
「姉上……いや、ルート……、クオリア君を返して」
「諦めなさいな。もうクオリアは、私の子よ」
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