第310話 人工知能、朝の祈りを観察する


 ――痛いよ、痛いよ、母上。


『ルート、お前なんて、産むんじゃなかった』


 ――お願い、どうしてそんなひどいことをするの、やめて。


『お前に流れている最悪の背信者の血……私はそれが憎い』


 ――私は、いけない子なの? 母上はいつも、私を優しく抱きしめてくれたのに。


『あの悪魔のせいで、そして、お前のせいで、お前なんかが産まれてきたせいで……!! 私は悪くない!! 私の心はいつでも晴天教会に、ユビキタス様だけに在る!! 私の聖じゃない!! お前みたいな悪魔の子など、知らない……!!』


 ――怖いよ、辛いよ、寒いよ、出して、ここから出して、どうしていじめるの、皆優しかったのに、母上まで一緒になって。


『二度と顔を見せるな!! 私は関係ない! ヴィルジン裏切者とも、お前とも!!』


 ――ごめんなさい、母上、ぶた、ないで。


『お許し下さい、ユビキタス様。呪われた血を、産んでしまった咎として、今ここで殺して――』


          ■       ■



「――教皇、間もなくローカルホストに到着します。ご準備を」


 馬車の揺れにも、差し始めた朝日にも気づかない程に、ルートは悪夢へ沈んでいた。そう自覚しながら、ランサムの助けを借りて上半身を起こす。

 産まれたままの鮮やかな女体をランサムに曝け出したまま、頭の中で何かが転がっているかのように、ルートが額を抑えて項垂れる。


「ずっと魘されておりましたな……御体はいかがでしょうか」

「ええ。でも安心を。悪いお告げではありませんわ」


 しかし悪夢を見た事を差し引いても、ルートの顔色は少し悪い。

 それを指摘されると予見したのか、先回りしてルートが続ける。


「最近朝が弱くて。こんな事言いたくないのですが、吐き気が……」

「左様でしたか。マス。揺れが激しい。教皇の体を労われ」


 絢爛豪華で貴族級の室内と変わらない内装をしていても、馬車の揺れだけはどうしようもない。不規則な揺れが教皇の体を蝕んでいるに違いないと、怒鳴らずとも冷たい御者への指示がランサムから飛んだ。


「申し訳ございません。荒れ地が多い故、今暫く辛抱下さい」


 “ユビキタスの血を継ぐ者”として、ランサムの枢機卿としての権力は蒼天を貫くほどだ。にも拘わらず、返答しつつ巧みな手綱捌きを見せるマスと呼ばれた御者に狼狽はない。更に言えば麗しいルートの裸体が拝めるはずなのだが、全く興味を示す様子が無い。

 ルートからすると、どちらかと言えばそっちが腹立たしい。

 とはいえマスという老人はただの御者で無ければ、ただの側近でもない。重要な会談に出席させる程の、“何か”が存在する。


「この半日が勝負です。教皇」


 ルートは聖衣を取り出す。

 特殊な魔力を翳せば、ふわりとした聖衣はルートの体に纏わりつく。衣服を自動的に着用しながら、ランサムの話を聞く。


「会談が可能な時間は半日だけ……夕日が沈むまでと見積もって下さい。それ以降は、デリートがローカルホストに到着し、緋色の海に沈める事でしょう」

「まるで他人事ね……貴方の子息ではなくて?」


 一応ルートは、デリートから見れば母親に当たる関係だ。だが“義理”が着く年下の母親である。そもそもランサムと前妻との間に生まれたデリートに、ルートとの血縁関係は存在しない。それはキルプロやハルトにも同じことが言える。

 故にルートは、『あなたの子供に迷惑を掛けられました』と言わんばかりのうんざりした顔が出来てしまう。


「……この件が終わり次第、父親として責任をもって、デリートは異端として完全に消滅させてみせましょう。しかし、哀しいかな父親であるが故にデリートの動きは手に取るように分かるのです。デリートならば、“焚槍ロンギヌス”を耐え抜いたローカルホストに興味を示し、直接その目で見に来る事でしょう。奴の足ならば今から半日の時間で到着します。それまでは“焚槍ロンギヌス”の無謀な投擲は行わない筈です」


 壮年の枢機卿からは、途方もない説得力があった。ルートがそれ以上言及しなかったことが、ランサムが事実上晴天教会の中で最高の権力を誇る枢機卿である証左だ。

 一方、ランサムは安心感さえ覚える、枢機卿としての見本のような顔の裏側で、濁り湿った思考を凝らす。


(……デリートあれはいい加減手に負えんからな……が、使徒を二桁宛がっても返り討ちにあった程だ。デリートを倒せる奴などこの世にはいない……ならばいっそ、ゼロデイ帝国に放り込んで同士討ちでも……!)


 悟られぬ様に繰り広げた思案を捨て、悟られぬ様に本題に戻す。ランサムにとっても、この半日をどう切り抜けるかの優先順位の方が高い。


「ひとまず、我々が会談において為さねばならぬは1点のみ。ハルトをこちらの手に取り戻す事です。そうすれば、後はデリートが勝手に焼け野原にしてくれる」


 デリートの暴走を、ランサムは逆手に取る気だった。


「実力行使で取り戻す気ですか? ラック侯爵もハルトの奪還が即ち完全敗北につながると弁えている筈でしょう? ならば警備も厳重にしていて然るべきではありませんこと?」

「ええ。私が使徒と言えど、正面突破は分が悪いでしょう。あのラックの事だ。使も揃えているに違いない。

「どういう事です?」

「まあ、ラック侯爵は私とマスにお任せください。マスとを連れてきたのはその為ですからな」


 御者席で一切表情を変えないマスとは対照的に、どこまでも温かく不敵な笑みを上乗せするランサム。あまりに正反対すぎて、一対の影と光さえ連想させる。


「私も父親だから分かりますよ。ラックという男は、特に顕著だ。異端の分際で在りながら、愛のままに愛しているのですから。


 ランサムが何をするのか――そもそも“34”気にはなっていたが、ようやく分かったルートは、“ラックの娘”であるフィールを思い出す。

 確か、一度だけ見たことがある。

 教皇に就任して直ぐ、ラックとフィールが祝福の為に謁見に来た時だ。

 純粋な敬意、ユビキタスに対する裏表ない信仰、一方で自分とは違う“正統派”に属するルートを敵視する父親譲りの不義理さが混じった眼差しを向けてきた記憶がある。

 さらに、父親と言い争っている所も見たことがある。

 気兼ねなく、互いに言いたい事を言い合っていた。

 一瞬でも、そのフィールが何故か羨ましいと思ってしまった自分の心を握りつぶす様に、ランサムの不敵さに同調して頬を歪めた。


「そしてもう一人、異端側には厄介な奴がいます」

「クオリア、ですね」


 決して恋する乙女の声などではない。だが、それと同じくらいにルートの声が跳ね上がった。


「……生憎と、緋色の使徒たるユビキタス様の力を持つ私と言えどクオリアは油断ならない異端です。ハルトの矮小な力とはいえ、例外属性“焚”を貫通する遠距離武器を持ち、更にはキルプロを打倒せしめた、流星のごとき光線を放つ妙な魔術……恐らくまだ何かを隠し持っている事でしょう。古代魔石“ブラックホール”を魔力干渉で停止せしめる離れ業をやってのけたのもクオリアと聞いています――なので」


 ここまではまるでランサムがクオリアに臆しているような言い回しだったが、最後にルートを立てた一言を付け加える。


「なので、クオリア相手には、ルート様の教皇たる力をお借りしたく」

「ふふ」

「確かにクオリアに関しては今一つ情報が足りておりませんが……一つだけ確信が持てています」


 導火線に火をつけるように。

 ルートに、ランサムが希望の言葉を囁く。



 ルートは、クオリアを見たことがない。

 ただ、腹が噎せ返るような噂は知っている。

 ロベリアが心から信を置き、スピリトが心から自分を出せる、そんな少年である、と。


「……ふふ。ふふふふふ――確かに私にはラックの相手をする方が難儀で、そして退屈だったでしょう」


 徐々に晴れやかになるルートの笑い声。

 脳裏の中心に、一つの願望が再燃する。


「いいでしょう。クオリアは、この教皇が自ら救って差し上げましょう。あの最悪の背信者である悪魔の姉妹、ロベリアとスピリトに唆されてしまった、哀れな少年を……!」


 ロベリアとスピリトが。

 何も素知らぬ顔で、ルートの前に現れた忌々しき姉妹が。 

 “ルートの愛すべき母親を差し置いて、父とさえ呼べぬ鬼が作った泥棒猫二人”が、屈辱の涙を流しながら地面に這いつくばる姿が――再燃する。


「そして、あの唾棄すべき悪魔の血と!! 見るに堪えない売女の血で出来上がった分際で!! かつては“神聖”と名のついていた王族の二席を穢し切ったロベリアとスピリトに――やっと、大地に降り立った事さえ後悔する最期の演劇を、踊ってもらいましょう……!」


 ……とある教皇の憎悪と、とある枢機卿の陰謀が、神話の竜巻サイクロンの如く蜷局を巻く一級品の馬車の御者席。

 最早魔術人形の如く、表情を微動だにしないマスが、ランサムに呼びかける。


「見えました」


 低い声で、マスは続ける。


「ローカルホストです。



         ■         ■


 祈りの合図の如く陽光が峰から零れて少しした頃、ローカルホストの朝白む涼しい道で、クオリアは取得していた。

 両手を合わせて祈る所作を繰り返す人々の後姿と、祈る両手の向こう側にある“げに素晴らしき晴天教会”の肖像である太陽を。


 クオリアは、太陽ユビキタスに祈られるだけの力はないと認識している。

 それでも、太陽ユビキタスに祈るだけの意味はあると学習している。

 ただ、神へ託す後姿に“美味しい”を見出せないまま、隣で溜息を吐くスピリトの呟きを聞く。


「……やっぱ今日は熱心に祈ってる人が多いわね。前このローカルホストに来たときは、もう少し静かだったわよ」


 僅かに漂う霧を晴らすような讃美歌の合唱が聞こえ始めた。

 祈る際の悲痛な面持ちに同調するように、スピリトの顔が暗くなる。

 

「ただ、その神を代行する教皇が、この街を滅ぼすかもしれないのだけど」

「この街を拠点とする人間にとって、ルートはどのような存在か。“正統派”とは違う宗派カテゴリに属しているのならば、彼らもルートを脅威として認識しているのか」

「どうなんでしょうね。ただ間違いなく言えるのは、“正統派”の人間も、このサーバー領の人間も、同じ現人神ユビキタスに信仰をしている。そしてもう一つ――ルートにそんな信仰心は存在しない」

「それは矛盾している。ルートは“教皇”という役割を取得している。“教皇”はユビキタスにマスタとして隷属する役割だ」

「……つまり、そういう事だよ。信仰なんて無くても、信仰以外の何かを駆使して、あの女は教皇まで登り詰めたって訳」


 子供が心底大事そうに、太陽のペンダントを握りしめて通り過ぎる。晴天教会のシンボルである橙色の円を、スピリトは目で追っていた。


「あの太陽のペンダント。信仰の証とでも言うべきペンダントを、ルートが踏みつけているのを見たことがあってさ」

「説明を要請する。それは、何故か」

「さあ。でも、恨みを持っているような顔だったよ」

 

 ありゃ神に復讐したくて仕方ない顔だった、とスピリトは一瞬目を逸らす様にして続けた。

 恐れている。

 クオリアはそう思った。ロベリアよりも、段違いにスピリトの方がルートを恐れている。


「私は今日、会合でお姉ちゃんの隣にいる。ランサムや、一緒についてくる“マス”って奴が何かした時に、お姉ちゃんを守れるように。君はどうしてる?」

自分クオリアも出席する。ラックとロベリアの補助を――」


 決して、大きかったわけでは無い。

 それでもスピリトの警告は、辺りで舞い上がる晴天経典の読み聞かせや、讃美歌よりも強くクオリアの耳に突き刺さった。

 

「例外属性“母”」


 “聖剣聖”から、取得した。

 祈りに似ていたものの、祈りとは正反対の、恐怖に竦む値を。

 その何かを失うことを恐れた瞳は、クオリアに向けられていた。



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