第311話 人工知能、師匠を励ます。
7年前。
スピリトはたった8歳で、最愛の母親が臨終する瞬間に立ち会ってしまう。
人目も憚らず
『ロベリア、スピリト、産まれてきてくれて、ありがとう』
姉妹にいつも優先させて、何も食べていなかったのに。
姉妹をいつも優先して、来る日も来る日も身を粉にして出稼ぎをしていたというのに。
まるで娘達に全てを吸い取られて死んだというのに、母は最期まで、大好きな母親のままだった。
だからこそ、スピリトは直後にヴィルジンに拾われた後でも切り替えることが出来た。後に“聖剣聖”と呼ばれるだけのメンタル的な素質が、ここで発揮されたといっても過言ではない。
『今更、母親の死に目にも間に合わなかったくせに』という父への憎悪も我慢し、並べられた無味乾燥な豪華料理を食べて、スピリトは生きることにした。母の死を無駄にしない為にも、最後に残されたロベリアという家族と一緒に、生きることにした。
ある日、二人には家庭教師がつけられた。
最初に会った時は、王宮内で孤立しがちなロベリアとスピリトに、温かく接してくれる女性だと思った。胡散臭い貴族や、何か腹に一物抱えている王宮の人間とは違うと、スピリトは心を許しかけた。
……少なくとも、二回目の授業までは。
二回目の授業が始まった時。
あんなに優しかった家庭教師は。
本でも鞭でもなく、豹変した面様で“ナイフ”を取り出した。
『あの子』
危うく近くにいた警備兵に止められ、スピリトとロベリアは事無きを得た。
『あの子を、愛している、ああ、ああ、愛しているのよ。だってあの子は、私の、ママ。ママだから。ママ私、やるよ』
決して、スピリトは家庭教師が元から自分たちの命を狙った冷たい人間だったなんて思わない。確かにこの家庭教師は人間として標になるくらいの、人徳に優れた人物だった。
だからこそ、まるで中身が入れ替わってしまったかのようだった。
段々と母親の胸の中に沈んでいくように、理性と人格を溝川に捨て幼児退行した様が。
『ま、ま、ママあああああああああああああああああああああ!!』
そして、あ観念したのだろう。もうロベリアとスピリトを殺害することも、警備兵から逃げることも出来ないと、赤子の様に叫ぶ最中で判断したのだろう。
だから、最後の抵抗として。
スピリトの脳裏に焼き付けた。
“いともあっさりと、ナイフを自らの喉仏に突き刺すという、惨憺たる最期を”。
『ね、ママ、
血は初めてではなかった。しかし、床一面を紅く沈めた程の出血も、土下座のような態勢で痙攣する体も、段々と瞳孔が開いて固定された眼球も、全てが冷たい何かとなってスピリトの中に土足で踏み込んできた。
スピリトには直ぐ理解した。
慌てふためく観衆の群れの一番後ろで、一人だけ笑っている少女がいたことを。
その少女こそが、家庭教師の女性を“壊した”のだと。
ロベリアとスピリトには、もう一人姉がいる。
“げに素晴らしき晴天教会”が
まるで新しい玩具でも手に入れたかのように目を輝かせていたあの少女こそ、自分のもう一人の姉、ルートだった。
■ ■
「それが、例外属性“母”の代表的な魔術、“
“
母親への愛着欲求を再覚醒させた上で、ルートを絶対的な母として認識させ、隷属する
この魔術一つで、ルートは教皇の地位にまで登り詰めたのだ。
認識に作用するという意味では、リーベの“
近似しているようで、しかし真反対だ。
“
一方“
それは魅了では生温い、恋慕でも足りない、母親となったルートへの強制的な崇拝。
全ては、母親の言う通り。
それだけで、世界は丸っきり違う色になる。
最後には価値観も人格も自我も破壊し尽くされ、誰かを殺させることも、自害することさえも厭わぬ
「一応、
まるで不安をごまかす様に、例外属性“母”の弱点を
クオリアが会談に参加することに、ロベリアやスピリト、ラックの耐性は関係ない。それに向き合うように、恐る恐るスピリトは続ける。
「……でも、君はそんな耐性を持ち合わせていない。幾ら君でも、価値観や自我に直接干渉してくる裏技には、対策の仕様も無いでしょう?」
「……肯定」
それこそ、
クオリアが認識する人間である限り、認識そのものへの干渉は避ける術はない。
過去、リーベの
だが、今回は認識出来ないとか、ラーニング出来ないとか、そういう次元ですらない。
認識したら終わりなのだ。ラーニングしてはいけない。
だからこそ、ルートはクオリアにとって天敵である。
スピリトは不安と想像が生み出す影絵に怯える。
クオリアも、ルートの子供になってしまうのではないかと、危惧してしまえる。
「君には、あんな風になって欲しくない。だから……」
「しかし、スピリト。理解を要請する。既にルートの例外属性“母”に対する対策は完了している」
「えっ」
思いもよらない返答にスピリトが動きを止める。ここまで一切の驚嘆どころか、冷汗もかく事が無かったクオリアは、いつもの様子で淡々と続ける。
「ロベリアからもあなたと同じように、最初は会談へ
「お姉ちゃんが……!?」
「その際ロベリアからは、例外属性“母”の影響範囲外にて、
クオリアらしからぬ濁しがあった。
ただ、もう後悔するのは嫌だ、という気持ちは伏した顔から伝わる。
近くにおらず、気付いた時には血塗れで倒れていたなんて、もう真っ平だった。
「例外属性“母”に対する最適解は算出済みだ。ロベリアからの情報では、“
「目隠し?」
「肯定」
クオリアが一切視界を閉じた状態で、普段と同じように過ごせることを、スピリトは“恥ずかしい”くらいに思い知っている。師匠と弟子とはいえ、男女で同じ風呂で腹を割って話した経験のあるスピリトは、嫌という程知っている。
「その為
「……わかったわよ。君はこうなったら、私が“参った”って言うまで、梃子でも動かないんだから。そんなことに体力使うくらいなら、今は折れてあげるわよ」
「“ありが、とう”」
「でもクオリア。信じていい?」
「肯定」
肯定、と聞いたはずなのにスピリトの表情は曇天のようだった。
その霧からはいつの間にかこんなに近くなった弟子に対する心配だけではなく、どこか後ろめたさのようなものが検知できた。
「本当はさっさとローカルホストを去りたかった。街の人たちには悪いし、ラックもいい人だから胸が痛むけど、今でも対岸の火事決め込んで、君達を連れて逃げたい。こんな事改めて言ったら幻滅するかもだけど。私にはお姉ちゃんの様に
告解室の懺悔のような言葉の節々に、虚偽はない。丸裸の、心からのスピリトの本音だった。
「……私は、身内さえ守れればそれでいい。だって自分の力のなさを知っているから。だって、私は私の家族を失いたくないから。もう失いたくないから。誤っている、ってのは分かってるよ。でも、これが私の最適解なんだ」
「あなたから最初に“参った”を検知した時に、ラーニングしている。あなたは、誤っていない。あの時から、その発言に変更はない」
それだけではない。クオリアがスピリトの前で百人斬りをしてからも、色々あった。色々あり過ぎた。
振り返る。たった一人の家族のために、ハローワールドの活動を凍結しようとしていた時のスピリトを。
あの時点では、“参った”を意地でも言わないスピリトの心を理解したつもりでいた。
だけど、その理解は足りなかったと思う。
まだ、家族を失う事の怖さを味わっていなかったから。
だから今では、スピリトの“自分勝手な行動原理”を、もう少し深く理解できる。
一方で、スピリトがいるからこそ、ロベリアと自分が受けている恩恵も推し量れる。
「……あなたがいるから、ロベリアは
何より変わらない、クオリアの気持ち。
弟子の師匠に対する裏表のない敬意を、見上げるスピリトへと渡す。
「あなたの“強さ”は、
「……」
「あなたは、
「……あのさ。そう言われちゃ、師匠として逃げらんないじゃん」
複雑そうな表情で目線を逸らしながらスピリトが呟くと、何か覚悟したように深く息をつく。その際に、ロベリアと“喧嘩”した際に殴られたらしき頬を、そっと撫でる。
「……お姉ちゃんがあそこまで本気になったの、見た事ないんだ」
「それは、ロベリアの夢の事か」
「うん。“人間も、獣人も、魔術人形も、皆笑顔で、明日を迎えたい”。もうそれはラヴの夢じゃなくて、お姉ちゃんの夢なんだ、ってことはよくわかった。じゃなきゃ、あそこまで本気にはなれないもん」
スピリトは腰の剣を鞘ごと抜いて、意志を確かめるようにクオリアへと近づける。
「……もうここまで来たら、守るよ。お姉ちゃんも。君も。その為に私は、剣を齧ったんだから」
「理解した。ならばあなたの事は、
「分かった。でも覚えてて。私は君の師匠だから。いつだって君の剣になるから」
■ ■
『もう直ぐランサムとルートが来るから、そんなに時間はないよ』と別れ際にスピリトから告げられ、会談の広間へと一足先に向かったスピリトを見届けて、その少ない時間で、とある建物へと入った。
広い敷地のその施設は、現在ラックの別荘となっており、そして医院としての面も持つ。
「クオリア、来たんだ」
そこには、左腕を失って未だ昏睡状態から覚めないアジャイルの隣で佇む、自身もまだ満身創痍のフィールの姿があった。
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