第282話 『事故』、4時間前

 曖昧で象られ、泡沫で彩られた悪夢。

 されど、鮮明。

 細部に至るまで記憶は、幼きアジャイルの前で、無常に再現される。


 痩せこけた庶民が悍ましそうに柵の外で雑踏を汚く塗り潰す。

 肥えて光物を身に着ける聖職者が興味深そうに柵の内で専用席を汚く座り潰す。

 その中心では、櫓のように受刑者の周りに積み上げられた薪や藁、その山から飛び出した木の杭に、受刑者が力なく括り付けられている。

  

 幼きアジャイルが柵にしがみつき、見た悪夢のタイトルは、“異端審問”だった。

 今日異端認定されたのは、母親だった。


『この者、シルヴィアはかの枢機卿から卑しくも金品を無心し、定日までに神との約束を違えて返さず、懐に収めた。よって我々“げに素晴らしき晴天教会”はこの女の魂を異端認定し、魔女の肉体ごとはユビキタス様の焔でもって完全に消滅せしめる!』


 燃えた。燃えた。

 一度薪に灯された焚火は見る見るうちに大きくなり、母を呑み込む。

 炙られた肌は黒々と焦げ、肉はどろどろと蕩けていく。

 最初は母の悲鳴が木霊していたが、煙に喉を焼かれて何も声を発せなくなる。


 アジャイルは見た。

 聖職者達の全身を装飾していた、金銀に光る宝石を。

 聖職者達が怖くて庶民の口から発せられた、母に怒る暴言の投石を。


『そうだ……母さんは、金が無かったから、あんな目にあってるんだ』


 母は、彼らとは違う。

 少なくとも清貧に生きてきた筈だし、一言も貧困の現状に弱音を吐かず、親を失ったアジャイル達を見捨てずに育ててきた。

 時には、膝元で晴天経典を聞かせながら。

 時には、僅かな食料を美味しく食べながら。

 時には、自分事の様に𠮟りながら。


 いつもこんな事を、アジャイルに言っていた。

 “あなたの心に嘘を付かない、あなたが正しいと思う事をしなさい”、と。

 正しい事をしてから、その行いを御供え物に神に祈りなさい、と。


『……もっと、金が溢れてる世界なら、母さんのやってる事が正しかったはずだ。ただ単純に、あの豚共が正しい様に、歴史が成り立ってしまっただけなんだ』


 宝石。肥大。

 暴言。貧困。

 “正統派”が支配する世界では当たり前な差別的日常の中で、それでも悴まないように暖かさで包んでくれた母親の、真っ黒な最期。


 忘れない。

 忘れるものか。

 ただ金がない故に善行の果てに死んだ、あの母親の最後だけは。


『そうだ。金だ。世界がもっと、金で溢れて、衣服で住居で食物で溢れて、奪い合う必要が無いくらいに豊かさで溢れて。もっと、もっともっと豊かだったら』

 

          ■        ■



「……!」


 アジャイルが悪夢の末、“資源開発機構エヴァンジェリスト”の本部にあるソファから起き上がったのは、丁度ウォーターフォールが通りかかった頃だった。


「あれから何時間経過しました?」


 未だしっとりとする前髪を掻き分けながら、怪訝そうに見つめてくるウォーターフォールに問う。


「あの焚槍ロンギヌスが来てからですか? もう五時間ですよ」

「もう夜ですか……」


 左手首に巻いた魔導器“害虫時計デバッカー”を見る。確かにもう夜だ。


「つーか、あの後何があったんすか。突然いなくなったと思ったら、ここで死んだように倒れてるし」

「フィールさんは、あれからフィールさんはどうなりましたか」

「……まあアンタが死ぬほど疲れる理由は、どうせフィール絡みだろうとは思ってたけど」


 フィールが使徒化し、意識を失った事はウォーターフォールにも届いているらしい。愛された領主の、愛された愛娘の緊急事態だ。人の口に戸は立てられないと言った所だろう。


「非公式情報の噂ですが、少なくとも命に別状は無いって聞きましたよ」

「……そうですか。ああ、あと」


 いつもの後輩をおちょくるような、悪戯好きな先輩の雰囲気になってきたアジャイルが一拍を置いて、その続きを口にする。


。非常に可憐な子ですね。それに献身的だ。ここまで情けなくも、エスコートされちゃいました」

「……用がこれ以上無いんなら帰ります。明日から忙しくなるんだから、しっかり寝てて下さい。体は資本なんでしょう」


 無碍にしてウォーターフォールが立ち去ろうとすると、突然立ち上がったアジャイルが、その背にしがみ付く。


「ちょっと仕事の話を」

「今も顔色が悪い。アンタも休んでなきゃ駄目だ」

「ウォーターフォール君。時は金なりですよ」


 とアジャイルが見せた先輩面には、未だ酷く疲労の色が宿っていた。ウォーターフォールを掴む手は震え、息も絶え絶えだ。

 

「あんたさては、例外属性“恵”を……!」

「御安心を、私事で業務を妨げるつもりはありません」

「そんな事言ったってな……!」

「それより、今動ける資源開発機構エヴァンジェリストを至急集めてください。同じく動かせる魔術人形“2.0”もです」


 ウォーターフォールは思わず、反論をひっこめた。

 営業スマイル。アジャイルが、“事業”の際にいつも頬に張り付けている顔だ。

 この顔をしている時は、どこまでもアジャイルは冷酷な判断を下す。地元住民の反対だって押し切るし、副リーダーを辞職させることだって辞さない。


 その事業の為に自分すらも、営業スマイルで犠牲に出来る。

 

「ランサム公爵も一応“話”は出来るとたかをくくってましたが、デリートが出張ってくるなら、明日なんて悠長な事言ってる場合じゃなさそうです」

「……霊脈の調査っすか」

「はい。急いだ方が良さそうです――今ならフィールさんの体調が優れず、ラック侯爵も霊脈を守るどころではない筈ですからね」



       ■          ■


「何? この後至急で霊脈の調査を実施する、だと?」


 部下からウォーターフォールの言伝を聞いた資源開発機構エヴァンジェリストの副リーダーは、今まさに飲まんとしていたワイングラスを下げた。

 先程まで、副リーダーを含む資源開発機構エヴァンジェリストは、全員空から降ってきた破壊の権化たる朱い槍の恐怖を、一切忘れられずにいた。

 酒を呷っても、降り解けない。

 一方で、あまりに現実離れしすぎていて実感も湧かない。

 只管にふわふわした状態が続いていた。


「……まあ、それについては賛成だ。こんな“いつ消えるかもしれない地方”、いつまでもいたくねえ。だろう?」


 部下たちが揃って首肯すると、副リーダーは一人のメンバーに声を掛けた。

 ただのメンバーではない。魔術人形の内部構造を完全に把握し、人工魔石の中にまで踏み込んだメンテナンスが出来る特殊な技術者だ。


「……おい。魔術人形“2.0”に、


 媚びへつらうのが私のモットーです、とは言わんばかりに技術者は答える。


「へ、へえ。動作確認も十分に問題なしでしたぜ……副リーダー。あの機能を使うという事は……」

「ああ。もしこれ以上、こんな戦地のど真ん中に居続けようなんて事にはならねえと思うが、もしには」


 リーダーであるアジャイルの指示に従って、小宴会は中止にしてアジャイルの下に向かう。だが決して泥酔の正などではない、アジャイルへの日ごろの恨みが彼らの一挙一動に宿っていた。


資源開発機構エヴァンジェリストの先輩として若造に言ってやらにゃあな。霊脈のような洞穴の調査には、

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