第231話 「Halto Nogard Tellsteal」、それが晴天教会に止まない雨が降る理由②

「えっ、えっ?」


 ここで体を捻り、致命傷を躱したのは腐っても最強格の使徒たる所以だ。咄嗟にハルトから距離を取れたのも、確かな戦闘経験を積んでいる証左だった。

 だが精神的な衝撃は、脇腹と違って例外属性“恵”では癒せない。

 戸惑いが、キルプロの脳髄を埋め尽くす。


「……」


 キルプロの血が付いた右手。

 ハルとそれを目前に突き出したまま、硬直していた。


「は、ハルト!?」


 雨の中。

 雨音の中。


 ぐにゃりと。

 フードの下、陰で染まった顔がこちらを向いた。

 雨に浸った弟の顔が、こちらを向いた。


 怯えも。

 喜びも。

 楽しみも、一切、消えていた。


 残っていたのは。

 真っ黒に焦げた、憤怒と。

 頬を流れる雨水。


「……攻撃しろって言ったじゃん」

「ば、馬鹿……お、俺にじゃな……」

「ああ、が来たよ、兄上」


 混乱の最中、キルプロは気付く。

 雨具を身に着けた魔術人形達が集結する。


「こいつら……雨天決行レギオン!?」


 一人。

 また一人。

 駆ける雨具が、キルプロとハルトを囲む。

 何十人もの魔術人形に、二人は逃げ場を奪われる形となった。


「ああそうだ。雨天決行レギオン――の、かけがえの無い最後の援軍だ」


 直立不動で雨ざらしになっていたハルトの横に、魔術人形が並ぶ。

 だが、敵であるはずのハルトを攻撃しない。


雨男アノニマス様」

「マリーゴールドか」

「その服だと風邪をひくぞ? まあお主は、ずぶ濡れも似合うがの」

「ありがとう。助かる」


 特徴的な老女的喋り方の金髪短背矮躯の魔術人形がハルトに雨具と革の黒手袋を渡す。それを纏った後で、更に狐面まで渡されるが、それは掌で不要のシグナルを出す。


 その雨具は、あまりにハルトのサイズに似合い過ぎていた。

 青色の髪を雨から守る、深く被ったフードも着慣れていた。


「待て」


 そもそも。

 今、雨男アノニマスと呼ばれて、ハルトが反応しなかったか?

 今、ハルトがしている格好は、渡されそうになった狐面は、雨男アノニマスのものではないか?


「な、何の茶番だ……ハルト」


 引きつった顔で、キルプロが言った。

 だがハルトがその質問に答えることは無い。

 僅かに雨具の胸元を開く。中の服までボロボロだったために、胸部が露出していた。


 何もなかった泥塗れの胸板の中心に、鼓動と共に浮き出る。

 まるで生物のような気配を感じる、古代魔石が。


「……やるぞ、ラヴ」


 雨風に揺蕩いながら、両手を合わせる。

 全智全能の神に祈るように。全身全霊で誰かに詫びるように。

 

 そうして、両の手を結んで。

 悲しくも、両の手を開いて。

 隙間。

 “白龍”の名を冠する古代魔石から、光で編まれた白龍が解放された。





 光は、歌う。

 龍が、踊る。


「は、“白龍”……!?」


 自由を謳歌する龍の周回、その中心でハルトが脱力する。

 道化の舞台裏のように、だらんと両手を下げていた。


 そっと、背後霊のように白龍は寄り添って。

 優しく、龍の腕と翼で包み込んで。

 その抱擁の瞬間だけ、白龍は少女になって。 


 雨。

 雨音。

 鼓動。

 それだけが、夜闇の沈黙から解放されていた。






魔石回帰リバース






 およそ聞いた事の無い、あまりに低いハルトの声。

 同時、衝撃がハルトを中心に広がった。


「くうっ!?」


 一瞬だけ、キルプロの視界が眩む。

 次に視界が自由になった時には、結果だけが広がっていた。


 純白の龍麟が、顔の輪郭をなぞっている。

 置換された皮膚の模様は、それこそ芸術的なまでの黄金比で並んでいる。

 文字通り、白龍とハルトが融合してしまったかのような顔面をしていた。


 即ち、白龍と人間の丁度中庸の存在。

 獣人よりも、余程獣。

 言うなれば、“龍人”。

 その変身で、魔石回帰リバースで変わらないものがあるとするならば――龍へと近づいた面輪は、ハルトの面影を残していた事くらいだ。


 ただしその青き瞳は、宇宙の様な闇に覆われたままだった。


「……お前、お前が……」


 やっとここに来て。

 すっかりと変わり果ててしまった弟の姿を見て。

 キルプロは、今自分が置かれている世界のありのままを見た。


 真実を、理解した。



「お前が、雨男アノニマスだったのか……ハルト……」



 ハルトは、答えた。


「だから言ったろう。


 悪夢だ。


「ありえない、ありえない、ありえない……ありえて、たまるか……こんな、ふざけた事……!」


 震えながら慟哭し、尻餅を付くキルプロは、目前の状況を悪夢だと切って捨てた。

 信じられるわけがない。


 ハルトが雨男アノニマスに殺されたのならまだいい。

 しかし、ハルトが――テルステル家に生まれ、その恩恵を一身に受けてきたにも関わらず、雨男アノニマスそのものだったという、内通者だったという、この現状を受け止め切れるわけがない。


「幸運だな。何せてめぇはテルステル家の没落を見ることなく、ここで死ねるんだからな。キルプロ

「……訳が分からない。お前何を言っているんだハルト!?」

「“ハルト”は死んだよ」

「……?」


 雨の中、淋しい声だけが空間を修飾した。


「半年前、大好きだった女の子一人さえ守れなかった弱虫は、あの雨の中で死んだ……


 やはり、何を言っているのか分からない。

 だが、ハルトが雨男アノニマスなら、全てが合点が行ってしまう。


 進攻騎士団の情報が筒抜けで当然だ。

 テルステル家の人間が内通者ならば、戦略なんて最初から駄々洩れだった。


 異端審問をハルトが進んでやったのも当然だ。

 犠牲を出さない為、異端審問を自ら失敗させるつもりだったのだから。


 異端審問が上手くいかなくて当然だ。

 異端審問を取り仕切っていた人間が、最初から失敗する様に仕向けていたからだ。


「あっ」


 隙だらけだった。

 落雷と同時、ハルトの雨具姿が目前に合った。


 そして。

 ただハルトが正拳二発を放っただけで、キルプロの右脚と右腕が、吹き飛んだ。


「が、あああああああああああああああああああああああ!!」

「ちっとは黙れよ、ほら死は救済死は救済」


 最早心にもない“げに素晴らしき晴天教会”の教義を口にしながら、泥に塗れたキルプロの上に馬乗りになるハルト。

 教育係だったキルプロも知らない、人智を超えた素手の攻撃力。

 それが集約された右手の骨を、これ見よがしに鳴らす。


例外属性“恵”かいふくをやろうとしたら壊す。福音詠唱ハレルヤしたら壊す。動いたら壊す。無関係に喋ったら壊す。ここからてめえが絞り出せる逆転の手、何もかも全壊ぜんごわしだ」


 いくらノータイムの福音詠唱ハレルヤからの使徒回帰リライトでも、この密着状態ではハルトの攻撃の方がどうしても速い。

 雨男アノニマスならば、猶更。


「晴天経典……その“原典ロストワード”、その在処を話せ。そしたら生かしてやる」

「“原典ロストワード”……だと!?」


 ガタガタと震え、上下の歯が摩擦する音がキルプロから連続した。

 “原典ロストワード”。

 その言葉が、テルステル家の中でさえ禁忌とされている理由をハルトは語る。


「あれが暴露されれば。だからあの原典ロストワードをテルステル家は先祖代々から子々孫々に至るまでずっと隠し続けてきている……しかしあれの場所までは、俺も知らない。しか知らない、禁忌中の禁忌だろう?」

「……き、貴様」

「てめぇはテルステル家の次期当主だ。なら父上から聞いてんだろ?」

「あんなものを晒して、一体どうする気だっあああああああっ!?」


 左腕が潰れた。

 見えなかった。結果として、左腕の筋肉と骨が消し飛んだ。


「無関係に喋ったら壊すっつったろ」

「……本当に知らない……聖戦が終わって正式に当主になってから教えるって……」

「……ま、そんな所だろうとは思ってた。ランサムに直接聞くしかねえか」


 用済みと分かるや否や、残りの左脚まで潰された。

 最早蓑虫のように藻掻く事しか出来ないキルプロは頭を掴まれ、されるがままに掲げられる。


「何故だ!? 何故、何故!!」

 

 息をするのもつらい。

 悍ましかった。

 恐ろしかった。

 自分の死が、ではない。

 自分の死よりも、フードと雨夜の隙間から龍の眼光を放つ弟の事が、何よりも分からなくて叫んだ。


「俺達は現人神ユビキタス様の力で、世界を救うべき使徒だ!! ユビキタス様の血を継ぐ存在として、ユビキタス様の意志を継ぐ存在として……なのに何故、貴様は裏切った!?」

「てめぇらは間違っている」


 隙間風のように、寂しく声が響く。


「てめぇらがいる限り、雨はずっと鳴りやまない。だから“虹の麓”にはいらないんだ。テルステル家は。


 キルプロを投げる。

 垂直に、放る。

 だが“福音詠唱ハレルヤ”を放つ暇もなく、ハルトを中心に渦巻く竜巻がキルプロを掴んで、固定する。


「スキル深層出力“廻閃環状ブロードキャストストーム”」


 戒候サイクロン。キルプロはそう呼んでいた風の道。

 その始点にハルト。

 終点に、キルプロ。

 

 ハルトの背中に、龍の翼が出現した。


「現人神ユビキタスよ、私を何故、あなたの子孫を何故見捨てたのか!!」


 弾丸のように打ち上げられたハルト。

 上空に差し出した右脚が、キルプロの中心に、直撃する。


「あっ」

「俺もすぐ行くさ。神が見捨てた、地獄とやらへ」


 雨空で一つの悲惨な肉体が、頭を残して飛散した。


 下手人こそは、白龍を継いだ匿名の道化。

 雨男アノニマス、ハルト=ノーガルド・テルステル。



     ■         ■



 それから十分後だった。


「状況認識……キルプロの排除を確認」


 キルプロの頭のみを、クオリアが確認したのは。

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