第182話 1章「プロローグ」:人工知能、やっと人間になれた

 駆けていた。

 駆け続けていた。


 脚に蓄積される疲労が値化されている。閾値を超えている。

 それは、最適解に沿っていない。

 足場の予測をしていない。

 全くの非効率だ。

 それでも、世界の後ろ側からだろうと遮二無二駆け抜けた。


 未舗装の砂利道も、上層へ繋がる坂道も、貴族と擦れ違う大通りも、人目を憚る事無く走る。

 芝生に敷かれた庭の道も、屋敷の二階へ繋がる階段も、彼女が眠ってからも綺麗なままの廊下も、“緊急事態以外は走ってはいけない”という禁足事項を無視して走る。


「はっ……はっ……」


 思考なんてしていない。

 演算なんて出来ない。

 ただ、体のど真ん中が熱い。


 既に扉が開いている。

 クオリアの視線には、あの部屋以外に映っていなかった。


「アイナ……!」


 扉枠に手をかけて、立ち止まる。

 小刻みに波打つ視界へ、必死に入れる。

 ずっと焦がれていた希望を、その眼に焼き付ける。


「クオリア……様……」


 ロベリアとスピリトの更に向こう側。一番奥のベット。

 エスが一足先に辿り着いて身を乗り出した、一番奥のベット。

 その奥のベットの上に、アイナはいる。


 


「……」


 カーテンを揺らす隙間風に、粟色の髪と猫耳を摩られる。

 “空の衝撃ブルースクリーン”が嘘のような陽光に花のような顔が彩られる。

 いつもと変わらなかったアイナの瞳へ、クオリアは大きく見開いた瞳で見返す。


「アイナ、応答を要請する」

「……はい。あの……その……ご心配を、おかけしました……」


 いきなり、言い当てられた。

 ここにいる誰よりも、今わの際だったアイナの為に心配と定義される精神状態にあった。一時は復讐心に駆られて不必要の暴力を繰り返し、世界を救うと同時に世界を滅ぼす破壊兵器にまでなった。


 その心配は、今のクオリアにも表れている。

 両肩を揺らす不規則な吐息になって。

 額を川の様に流れる汗になって。

 瞼のシャッターが最大限排除された目付きになって。


「さっき医者が来てね……もう大丈夫だって。時間が経てば歩けるようにもなるだろうって」


 ロベリアから聞いた診断結果に想いを馳せる余裕もなく、クオリアはゆっくりとアイナに近づく。

 真正面に近づいた時、クオリアの眼は不規則にアイナのあちこちに動いていた。

 他にバックドアに貫かれた傷がないか、アナフィラキシーショックを起こしていないか、過る不安を全て拭い去る様にまだ弱っていたアイナの体を分析する。


「……“もう、だい、じょうぶ?”」

「……はい……あぅ」


 そして最後には、無言でクオリアがアイナに抱き着く。


「クオリア様……あの、あの」


 明らかに病み上がりの体には毒なくらいに、アイナの顔が紅潮した。

 しかしクオリアは、対称的に極寒を耐えるように震えていた。


「うぅ……」


 ラーニングも、状況分析も、予測も、演算も、最適解も、ノイズも、バグも。

 全てを置き去りにしたクオリアは、一瞬だけ顔を歪めた。


 確かに鳴る鼓動だけを感じて。

 左耳を掠める吸って吐いてだけを感じて。


 そして、解放した。



「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



 そして少女たちが見たのは、赤子の様に嘶くクオリアという少年だった。

 誰もが滂沱の涙を携えた人工知能の慟哭に釘付けになった。


「うっ、あっ、ああああああああああああ」


 色濃く散る桜の様に滴る。

 夕立の豪雨の様に溢れる。

 黄金に輝く稲穂の様に騒めく。

 夜空をそっと飾るオーロラを見たように暮れる


 そうやって、クオリアは体中の涙を流し尽くす。 


 人工知能の兵器なら、決してしない行動だ。

 人間の成人男性でも殆どしないような行動だ。

 ずっと迷子だった子供が、夢中で探していた母親をやっと見つけたような反応だ。


 その涙はみっともなく、だらしくなく、情けない。

 しかし、あらゆる人工知能の演算はこの瞬間だけ停止しており、あるがままのクオリアの心が、そこには確かにあった。


 ただクオリアは、ずっとアイナに会いたかった。


「うっ、うっ、うぅ……うあ、あああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……っ!」

「大丈夫です……私は、アイナは、ここにいます……ここに……います……っ!」


 誰も、クオリアの心からの大泣きを止めることは出来ない。

 クオリアの頬の隣で、彼の後頭部を優しく撫でるアイナさえも、強く抱きしめて生を感じる事くらいしか出来なかった。


 暫くの間、希望の反響は止まらない。





 紆余曲折を経て、クオリアやっと“人間として生まれた”のかもしれない。

 この心からの大音量は、それこそ産声だったのかもしれない。


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