第176話 人工知能、クオリアの命題 下巻「アンドロイドは“美味しい”の夢を叶えるか?」

 シャットダウンという世界が、騒がしく割れた。

 シャットダウンという最適解が、色濃く彩られた。


 人々の“美味しい”が次々にディスプレイとして映し出され、最適解を記したコードが上書きされる。“美味しい”に満ちた表情が千差万別の顔となって占有する。


 いろんな人間の、一番輝いている瞬間で、世界が覆われていく。

 その数だけ、シャットダウンは支配できる領域が奪われていく。


 "美味しい”のモザイクアートは、完成しつつある。


『原因不明の異常を認識。説明を要請する。クオリアの再インストールとは何か』

「クオリアの肉体及び意識をソフトウェアとして定義。この定義内容に沿って、ハードウェアも変更する」

『この定義不明のコードでは、致命的なエラーが非常に多く散見される。これらではあなたの有機的個体ハードウェア及びソフトウェアは不可能と判断する』


 不可能な筈なのに。

 完全で堅牢なシャットダウンを構成するプログラムが停止していく。その矛盾を状況分析した直後、未だ右腕から螺旋構造の光を解き放つクオリアがその委細を口にする。


「これらは、自分クオリアが世界に要求するイメージだ。アイナはこれを“夢”と定義した。この“夢”に、ハッキング用のコードを記述した」

『エラー。あなたの言語に多くの矛盾が生じている』

「あなたは正しい。自分クオリアもこの手法は誤っていると判断する。だが自分クオリアはこの手法を選択する」


 夢などと言う曖昧模糊なイメージに、ハッキング用のコードを正常に追加できるわけがない。これはクオリアにとっても挑戦的な内容だ。いくつかのハッキングは失敗に終わっている。


「複数の失敗を認識。フィードバックする、ラーニングする!」


 しかし一つ一つのフィードバックから、新しい常識コードを創り出していく。初めて科学に触れた子供が、煌めく瞳でその現象を楽しむ様に、クオリアは失敗を前提にして何度も挑戦していく。


 これまでの“美味しい”を懸け橋にして、ゼロから積み上げる。

 これからの“美味しい”を懸け橋にして、ゼロから創り上げる。

 初めての異世界に転生した時の様に、ゼロからクオリアを学んでいく。

 二度目の異世界に転生するかの様に、ゼロからクオリアを象っていく。


 そのクオリアを応援する様に、次から次へと“美味しい”が芽生える。

 直向に突き進む。一番欲しかったものを得る。試行錯誤を繰り返す。挫折しようとも風に揺れる稲穂の様に立ち上がる。やりがいを、生きがいを口にする。生き生きとする。その過程で、その結末で心から笑う。

 “美味しい”人生が、クオリアが一番欲しかったものが、夕陽の様に道しるべとなって浮かび上がる。 


 屈託のない“美味しい”が取り囲んでいるのは、クオリアだけではない。

 物理法則と量子法則を操る事で、これを強制的に創ろうとしていたシャットダウンもだった。今やその最適解は、半分程にまで千切れてしまった。


『ラーニング、不可。フィードバック不可。人間認識。人間認識。状況分析不可。状況分析不可』


 理解できず、分析もままならない物を人工知能は止める事が出来ない。

 しかし、シャットダウンはまだ自分の役割を認識していた。


 “美味しい”を作る事。

 その為に、今一番の障害はクオリアだ。


『早急なクオリアの駆除を必要とする。全パフォーマンスを、クオリアの駆除に注力する』


 シャットダウンのシステムが崩壊しようとも、アンインストールしている最中であろうとも、役割に忠実に演算し続ける。


『残存する全ての自浄プログラムを、並列稼働する』


 一切のシステムを完膚なきまでに破壊する0と1が、全方向から水流の如く怒涛の勢いで放たれた。

 これ以上ない自浄プログラムを、クオリアはかわそうともしない。


 


「予測修正、無し」


 自浄プログラムは、クオリアの眼と鼻の先まで到達した。

 しかし、それ以上突き出されることは無い。

 自浄プログラムの形が、見慣れた少女たちの姿へと変貌していく。


『重大なエラーが発生。兵器回帰リターンは中止された。重大なエラーが発生。兵器回帰リターンは中止された』


 最後には、クオリアを抱きしめるように少女たちの“美味しい”が浴びせられた。

 そのクオリアの目線は、最早セキュリティすら維持できない程に上書きされたシャットダウンに向いていた。


『勝率0%を確認。これ以上の戦闘は無意味と判断』


 かつて地球という星で、全ての機能を攻略され、光を浴びて破壊された時と同じだった。シャットダウンは自らの消滅にも、これ以上役割が果たせない事にも無頓着のまま蒸発していく。

 同じく満身創痍でも、生きる事を決してあきらめないクオリアはシャットダウンに近づく。


「あなたが誤っている事を一つ指摘する。あなたはこれ以上の行動を無意味と判断するべきではない」

『勝率は0%と判断。兵器回帰リターン完了率も0%と判断。その為、私が実行するタスクはない』

「“かっ、こよく、消えた、って、何も残、らない”」


 その発言時、かつてクオリアと名乗っていた少年が隣に居たような気がした。いるのかもしれない。いてほしい、クオリアはそう願った。

 このシャットダウンに、自分でもある目の前の無機物に、人間をラーニングさせるためにも。

 

「人間であれば、この場合、生命活動を維持する為に無意味な行動を実行する。あなたはまず、そこからラーニングするべきだ」

『ラーニングする事は出来ない』

「あなたは自分クオリアであり、そして“私”だ。このクオリアのハードウェアで発揮しうる限りの人工知能の演算機能を使用し続ける。その際、またラーニングが可能となる」


 シャットダウンのシステム空間の殆どが、“美味しい”でいっぱいになった。

 目前に佇んでいたシャットダウンの知能も、その大部分が鍍金のように剝がれていた。


「互いに、問い続ける必要がある。心とは何か。“美味しい”とは何か。達は、まだラーニングが不十分だからだ」

『……エラー……心とは……美味しいとは……』


 問いを投げ続ける対象の人々、そのイメージで満たされた空間にシャットダウンのすべてが溶け始めていた。


 準備は整った。



人間再開リスタート



 クオリアは最後の号令を口にした。


『First security, Existence存在 Auth 認証 Success成功! Second security, Please enter your password.』

COGITOコギト ERGOエルゴ SUMスム

『Success!!』




 人の肉体へと変容したこの空間は、しかしどの部位であるのかクオリアには分からない。そういえば、“心が物理的にどこにあるか”という問いも、まだ答えを見出していない。


 人工知能には、まだ分からないことばかりだ。


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