【書籍版2巻発売中】異世界の落ちこぼれに、超未来の人工知能が転生したとする~結果、オーバーテクノロジーが魔術異世界のすべてを凌駕する~
第175話 人工知能、クオリアの命題 中巻「語りえぬものについては、沈黙しなければならないか?」
第175話 人工知能、クオリアの命題 中巻「語りえぬものについては、沈黙しなければならないか?」
それからクオリアは、何度も削除のコマンドに晒された。
何回も、何百回も、何万回も、セキュリティの暴力に嬲られた。
シャットダウンは容赦なく、自浄プログラムをクオリアの意識へ注ぎ込む。
『7462904872092通りの自浄プログラムを、並列稼働する』
痛い。
頭が痛い。
削除部分が痛い。
0と1になった部分が痛い。
意識が痛い。
貫かれた。裂かれた。捥がれた。陥没した。挽かれた。轢かれた。焼かれた。溶かされた。縊られた。剥がされた。断たれた。抉られた。爆ぜた。燻された。焙られた。崩された。混ぜられた。絞られた。潰された。千切られた。砕かれた。穿たれた。破られた。壊された。削られた。削除された。
やがて自我が霞む。存在が霞む。意識のあちこちが0と1の無に帰す。
何度も忘れそうになる。記憶が色褪せて、解像度が低くなる。
光が見えなくなる。暗闇と無の割合が多くなる。
クオリアは自分が誰だかわからなくなった。何か大事なことがあった気がするのに、それも思い出せなくなった。会いたい人がいたのに、顔の形を再出力出来なくなった。何もかもが、ビーフシチューの具の様に蕩けて、一つになっていく。
しかし、削除が完全に完了するまでシャットダウンは手を緩めない。
何億回も、何兆回も、何京回も、オーバーテクノロジーのサイバー攻撃がクオリアを完全にアンインストールしようと、息継ぎなくそのプログラムを無限に走らせる。
『クオリアの生存を確認』
それでもクオリアはゼロにならない。
全身が文字化けしようとも、ビット単位に分解されようとも、シャットダウンを見据える眼は死なない。
瞳の中に溢れ続ける夢は、燦然と瞬いたままだ。
クオリアという名前は、消えはしない。
その向かう先、“美味しい”と一緒に、確かに待ってくれている少女達を認識している限り。
「あなたの攻撃に、意味はないと判断。あなたは、
挑発と、人ならば受け取るだろう。しかしシャットダウンの機械音は変容しない。
クオリアよりも淡々と、事実のみを出力する。
『あなたは判断を誤っている。次回の自浄プログラムの稼働にて、あなたを確実に駆除する』
再びシャットダウンのセキュリティが稼働する。
今この場所がシャットダウンのシステム内である以上、今のクオリアは確実に0と1で構成されている。そう判断したシャットダウンの自浄プログラムによる処理は完璧だった。他の人工知能のOSを完膚なきまでに破壊するハッキング能力を、例え限りなくゼロに近い存在相手だろうと惜しみなく発揮する。
だが破壊の後では、いつだってクオリアがかろうじて存在を保っていた。
「……ぎ、ぎ」
クオリアも限界だ。次の攻撃で消滅するかもしれない。そんな予測を無限に繰り返し、しかしその予測を裏切ってまだ藻掻いている。
世界へ繋がる断崖。その壁面にかけた掌を、決して離さない。
結果的に、誰にも予測が出来ない生存を繰り返している。
『原因不明の駆除失敗を認識。再度状況分析を実行する』
「あなたでは本事象の状況分析は出来ない」
最早、クオリアの99%以上が喪失している。だがシャットダウンを認識する瞳だけは、その向こうを見据える意識だけは、一向に消える気配はない。
「……心の定義に、“美味しい”の定義に……失敗したあなたでは、この状況を分析することは出来ない」
『定義している』
クオリアはシャットダウンが創り上げた最適解の設計図を見上げる。
人の何もかもを数値が表していた。
『心とは脳内物質の出力と、それらの連携によって発生する量子力学的反応の連続と定義している。“美味しい”はその配下に属する。これらはすべて解明されている』
「肯定……あなたの論理に、矛盾はない」
シャットダウンのラーニング能力はすさまじい。人間の中にあふれる脳内物質の連鎖反応すら読み取り、物理世界の法則では紐解けない心という空間まで手中に納めている。この方程式の牙城を、クオリアも崩すことは出来ない。
“PROJECT STAGE 2”。
この手法は、心を理解したシャットダウンにしか出来ない、人類を救う為の方程式に違いない。
しかし、そんな完璧な最適解だからこそ、クオリアは認めない。
「だからこそ、シャットダウン、あなたは心を、“美味しい”を定義できていない」
『あなたの発言は矛盾している』
「定義できているのならば、この最適解は出力できない」
『あなたの発言は矛盾している』
クオリアの言葉を理解できないシャットダウンが、更なる自浄プログラムの発動を開始した。それに体中を消し炭にされながらも、クオリアは前に進むことを辞めない。
「“PROJECT STAGE 2”の結果、アイナはロールパンを作らなくなる」
方程式を背景にするシャットダウンに対し、クオリアの背景には例え薄くとも、人の顔が映っていた。
アイナだった。
転生したばかりの自分にロールパンを差し出すアイナだった。
無茶をする自分を抱き留めるアイナだった。
自分の夢を語る、アイナだった。
「アイナは自分が運営する店を持ち、多くの個体に“美味しい”を付与する夢がある。その夢を果たす事が無くなる」
『エラー。その事に対する問題点はない』
シャットダウンの背後にある方程式が、アイナ個人のものへと移り変わっていく。
数字と文字と記号が、アイナを鮮明に、正確に表している。
『アイナの行動は、二つの“美味しい”を満たすために実行される。一つは他者へ食料を提供する事による、夢と定義された承認欲求。もう一つは他者が感じる味覚的高評価。このような行動を取らなくとも、両者を構成する脳内物質の連鎖反応は“PROJECT STAGE 2”によって任意に引き起こされる』
わざわざロールパンを作る必要などない。
わざわざ店を作る必要などない。
アイナが”美味しい”と感じる脳内物質の化学反応は背後の計算式に表されている。食べた人間が“美味しい”と感じる化学反応もコードにて正確に表現されている。
その完璧な式を見た上で、何度もクオリアは妙な事を言い放つ。
「それは“美味しい”ではない。あなたはアイナを理解していない」
『理解している。アイナも、ロベリアも、スピリトも、エスも、あらゆる個体全てのデータの分析を完了している』
シャットダウンの背後に、ロベリアの人体構造を示した図が現れる。
クオリアの背後に、脅威へ一歩も引かず交渉して見せるロベリアが映し出される。映し出されたロベリアは、甘えるようにクオリアの背中に抱き着いた。
「……ロベリアはこの世界を、ラヴが目指した状況にするために行動している。明らかに彼女のパフォーマンス可能領域を超えた行動を繰り返してでも、ラヴが望んだ世界を演算している。それはスピリトの安全な領域を確保する為でもある」
シャットダウンの背後に、スピリトの人体構造を示した図が現れる。
クオリアの隣で、シャットダウンに剣を向けるスピリトが映し出される。もう片方の手で、共闘せんとクオリアに右手の拳を伸ばすのだった。
「スピリトもロベリアが安全な領域を確保できるよう、戦闘を繰り広げている。スピリトとロベリアのこの方針は、アイナやエスにも広がっている」
シャットダウンの背後に、スピリトの疑似人体構造を示した図が現れる。
クオリアの真正面から、オニギリを差し出してきたエスが映し出される。それを手に取り温かい味を感じながら、エスの頭を“なでなで”するのだった。
「エスは自らの役割を、要求をラーニングしている最中だ。エスの“美味しい”は、そもそも計算できる分類にない」
一文。また一文。
シャットダウンの背後に“正しい”コードが、淡々と表示される。
一人、また一人。
クオリアの周りに笑顔が集まる。“美味しい”を叶えている人の像が集まる。
まだ見ぬ人類の分も、クオリアが望むだけ沢山の数が集まっていく。
その隣には、やっと帰ってきたクオリアの手を取るアイナがいた。
かつて、クオリアはこの笑顔に、“美味しい”を名付けた。
「
心が、“美味しい”が語れぬものであろうとも、沈黙しない。
「だからこそ、
それが蝕まれようとしている今なら、猶更。
「しかし少なくとも、“美味しい”は強制的に創り出されるものではない。それぞれが、自分で見つけ出すものと認識だ。脳内物質の化学反応を操作して、外部から創り出すものでは決してない。それは誤っている」
クオリアは右手を上げる。
「シャットダウン。あなたに、アイナの、ロベリアの、スピリトの、エスの、人類の“美味しい”を作らせない」
映し出されていた人類の像が、掲げられた手を取る様にクオリアの右掌に光となって吸い込まれていく。
赤橙黄水青紫黒灰白、クオリアがその眼で認識した可視光は一点に集約した。
小さな種になって、螺旋上の光線と共にデータの世界を駆けあがる。
一つの構文に突き刺さる。
『Type Qualia』
途端だった。
人間の顔が、0と1で仕切られたデータの空間を上書きして映り始めた。
一人、二人、十人、百人、千人――全員、クオリアが検出したかった”美味しい”をその表情に表していた。
『原因不明の異常が発生』
脳内物質をいじるだけでは無しえない、生き生きとした姿。
それらに深刻なエラーを当て嵌めるシャットダウンへ、クオリアは告げた。
「これより、“クオリア”を再インストールする」
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