第172話 「 」、無題の空間
完全に消滅した。
脳を構成する細胞から、足のつま先までシャットダウンの中へと溶けていった。
かつてクオリアの名前を借りていたその意識は、“揺らぎ”として漂っていた。
ただ行く当てもなく、宇宙よりも広いシャットダウンのデータの海に、沈むしか無かった。
「私の個体名、不明」
0と1に何故か溶ける事も無くデータ上の“揺らぎ”は、0と1で作られた砂嵐を揺蕩う。
少し前まで、彼はクオリアと呼ばれていた。
ただし、もうクオリアと定義された個体は存在しない。
もう、自分を語る名前も剥奪された。ファイル名すら削除された。
バグの残骸と言っても過言ではない名も拡張子も存在しない詠み人知らずのデータ。それが今、シャットダウンの0と1を漂い続ける“揺らぎ”の正体、らしい。
“揺らぎ”は、しかしルーチンワークの様に、理由もなく問いを投げていく。
「心とは、何か」
問いのデータを出力しながら無限回牢の上を流れていく。
揺蕩うデジタルの海の中、その問いを更に進めていく。
理由はない。理由は分からない。そんなプログラムは無い。
バグの残骸故に、想定しない動きをするのだろう。
0バイトのデータに、そんな記録の容量は無い。
「“美味しい”とは何か」
この問いの向こう側に映っている、あの少女は誰だろう。
猫のような耳をして、自分の帰りを待つあの少女は誰だろう。
もっと他にも、三人くらい佇んでいるけれど、誰だろう。
解像度が低い。音が割れている。ずっと遠い。
見えない。聞こえない。触れない。
大事な誰かだった筈なのに、もう思い出せない。
「あなたは、何か」
もう、顔の形も、声の波も、髪の色も、知らない。
なのに、“美味しい”の向こう側にいる少女の温もりを、また感じたい。
どうしてだろう。
(――――――――……)
自分の名前を発音していると、推測できる。
しかしその名前すら聞こえない。
彼女達が誰を待っている自分が誰なのか、分からない。
「私とは、何か」
名無しの“揺らぎ”に応えるように、データの水面へ、一つの記憶が映し出された。
部屋と呼ばれる正方形の空間。その中心には首一つ分が通るような縄の環。
その向こう側に、高みの見物と洒落こむ少年の姿があった。
『アロウズ兄上……僕が……これに耐えたら……アイナに何もしない?』
視点の主は、今まさに首を縄で吊ろうとしていた。
とても聞き覚えのある声だった。
“揺らぎ”は、元々こんな声だったのかもしれない。
この少年の名前を、“揺らぎ”は知っている。
「ク、オリ、ア」
一方で、アロウズの顔は歪んでいた。
きっと愉悦的とか、加虐趣味とか、人間の言葉ではそう表現するのだろう。
『おう。俺はサンドボックス家の人間だ。約束を守るのもお前に示す使命だ。安心しろよ、ちゃんと死にそうになったら俺が助けてやるから』
『……』
クオリアは躊躇していた。
首に縄をかけたまま足場である椅子を蹴飛ばせば、人間である以上窒息死は免れない。
そんなクオリアにアロウズは後押しをする。
『……アイナはどれだけいじめられるだろうな。例えば『私は肉便器です』って看板持たせながら裸で道端に置くなんてのはどうだ?』
「アイ、ナ」
“揺らぎ”の中をくすぐるような、どこかデータの波形を弱める様なこの反応は何だろう。分からない知らない。思い出せない。
『そんなのは嫌だ……』
『じゃあ始める事だな。この俺様が直々にお前に与えるメンタル的試練をな』
事態は進む。
一回深く呼吸すると、クオリアは首に縄をかけ、足場となる椅子を倒した。
クオリアの脚が暫く空を藻掻き、喘ぐ声が室内を暴れ回る。
『ぐ、が……』
アロウズは助けようとしない。
まるで日ごろの欝憤を晴らすように、クオリアの生死が自分の掌にある事を心から楽しんでいるかのようだ。
『さーてと。じゃあそろそろ……ん?』
アロウズが立ち上がってクオリアを助けようとした時には、既にクオリアから見た景色は致命的に掠れていた。血の気の失せたままクオリアを見上げるアロウズが、批難する様にクオリアを指さす。
『い、息してねえ……ま、待て。お、おお、俺は知らねえぞ、お前が弱いのが悪いんだぞ!!』
言い逃れの責任転嫁を言葉にし、結局クオリアを縄から降ろすことも無く景色の向こうにアロウズは消えていった。僅かな振動を繰り返しつつ、暫く振り子の様に揺れるクオリアからの視点が続いた。
『ア、イナ……これ……で……』
それは声ではなかった。アイナという最愛の少女への、ただ鮮やかな思考だった。
■ ■
「――これで、僕は、死んだ」
“揺らぎ”の隣では、クオリアが膝を抱えて座っていた。
今までクオリアというハードウェアに同居していた、もう一人のソフトウェアだ。
“揺らぎ”が転生するまで、クオリアの中にいたのは彼一人だった。
クオリアというハードウェアがシャットダウンにアンインストールされ、彼もまた行く当てを失っていたのかもしれない。
しかし、“揺らぎ”と同じく、どこかデータには型が填らない。
“揺らぎ”と同じく、彼もまた、バグの残骸なのかもしれない。
「そして、君が僕の代わりになった。辛うじて僕は、君の中からずっと見てきた」
クオリアの隈だらけの眼は、先程まで自分が首を吊っていた地点に向けられていた。間違った選択をした自分を責める様な目線で、もう何も映らなくなったデータの羅列を眺めていた。
「君はアイナの日誌を見た後、僕に言っていたね。生死の境をさまよっているアイナの隣にいるべきは、クオリアという僕だと」
「……」
“揺らぎ”は、懺悔するように寂しく語るクオリアの隣に座り込んでいた。見上げる彼の目には、首を吊ってぶら下がっていた自分のイメージが映っていた。
「……僕はあの時思っていたんだ。何にも持っていなかった僕が、落ちこぼれだった僕が、好きな人を守れてかっこよく死ねるなんて、って」
二人の世界囲む0と1の砂嵐。そのざらざらした表面に、沢山の猫耳の少女が映る。喜怒哀楽、満遍なく色んなアイナが広がる。
「僕は……アイナの事が好きだった」
懐かしそうにクオリアがそれらを見つめる。
「二人で一緒に、どこかに消えてしまいたかった。二人きりに、なりたかった。でもそうしたらご飯だって食べられる保証は無いし、更にアイナが傷つくかもしれない。そう考えたら、気付いたらこんな事になっていた……」
映像の中には、アロウズや他の家族、メイドにいじめられそうになっていたアイナを庇うシーンもあった。それを見つめて“揺らぎ”は一つの判断を下した。
「結論……クオリア、あなたも、戦っていた」
「だけど、僕は戦い方を間違えた」
ベッドに横たわる自分を必死に揺さぶりながら、泣きじゃくるアイナがいっぱいに映っていた。
“揺らぎ”は思わず手を伸ばそうとしてしまった。
だけど、もう伸ばす手さえ彼には無い。
「……僕はもう、目を覚ますことは出来ない。死んでいる。こうやって、僕の体を受け継いだ君と話す事さえ、まもなく出来なくなる。あの涙をぬぐう事さえ、僕にはもうできない。アイナが死にそうなときに、隣で待ってやることも出来ない」
それが、クオリアが一番後悔し、誤っていた事だ。
「そうさ。死んだら、何も出来ないんだ」
アイナを泣かせたまま、二度と目を覚まさない。あの頬を伝う水滴さえ、払ってやる事さえ出来ない。もう二度と、アイナの笑顔を見る事さえ叶わない。
「君は僕と同じ間違いをしちゃいけない。君も僕と同じ、満足げに消えようとしている。でもかっこよく消えたって、ほら、こうやって何も残らない」
0と1の集合体の“揺らぎ”は、現在進行形の消滅に抗わない。
「しかし、シャットダウンへと兵器回帰する。それは最適解だ」
後の事はシャットダウンに託す。それが人工知能が導き出した最適解だ。
気紛れな人間の脳で編み出した中途半端な考えに未来を託すよりも、緻密に計算されたCPUで演算した最適解の方が一切の間違いが無い。
それが分かっているからこそ、“揺らぎ”はシャットダウンに置換された。
ヴォイトから、もしくは今後現れるであろう脅威から“美味しい”という何かを守れるのは、シャットダウンしかありえないから。
しかし、そんな“揺らぎ”にクオリアはくすっ、と笑う。
「それなら君はずっと消えずに、どうしてまだここにいるの?」
一つの矛盾を、隣でしゃがみ込むクオリアに突かれた。
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