第173話 「クオリア」、無限の夢へ
「それなら君は、どうしてまだここにいるの?」
その問いに、“揺らぎ”は返答が遅れる。
少しして辻褄合わせの様に、力なく答えた。
「エラー。私がここ以外に位置する事は、このまま消滅しない事は、最適解ではない。それは、誤っている。だから、私は私を削除する」
“揺らぎ”は、自分自身を削除しようとした。
削除できなかった。
もう一度削除しようとした。
削除できなかった。
再度、最適解通りに削除しようとした。
……出来る筈なのに、出来なかった。
「……嘘つけ」
少し呆れたように、隣で少年の頬がつり上がる。
「最適解だったとしても、“本当はやりたいこと”がある時点で、最適解じゃないんだよ。だから君はどこでもない中で、もがいてる」
「……私の、“本当はやりたい、こと”」
「好きな人が笑っていても、一緒に笑う事も出来ない。泣いている人がいても、傍によって抱きしめる事も出来ない。明日の朝ご飯を、食べる事も出来ない。そんなの、僕らがやりたかったこと?」
「……しかし、“シャットダウン”は最適解に向けて今後も自身の役割を定義し、実行に移す」
“揺らぎ”の背後に、無数の計算式とグラフが表示される。
星の地表に連ねても足りないようなコードが羅列される。
生命体の構造から脳内物質の極細事項に至るまで、事細かに記された設計図が浮かび上がる。
人体の神秘が、詳らかにされていた。
「シャットダウンの存在は、最適解と判断する」
シャットダウンが望む世界が、一切の論理矛盾も論理破綻も無く、反証さえ入り込む余地のない根拠を基に無限に広がった。
“美味しい”の黄金比である証明が、完了していた。
どんな脅威も、この最適解な世界を崩すことは出来ない。
どんな脅威も、シャットダウンを滅ぼすことは出来ない。
「本当に、これで良かったと思ってる?」
「……」
“揺らぎ”は、答える事が出来なかった。
「これで正しいかもしれない。でも、これで良かったと思ってる?」
「……」
“揺らぎ”は、答える事が出来なかった。
「あれは君の作ったビーフシチューと同じだよ。レシピ通りに完璧に作ったとしても、君は美味しいと感じなかった」
僕が作った物よりはましだと思うけどね、とクオリアは力なく肩を竦める。
しかし一方で、“揺らぎ”は更に揺らいでいた。
計算式を塗りつぶしたくて、自分の部分を押し当てた。
それでも、たった一つの数値さえ上書きする事が出来ない。
「……」
“美味しい”を創る為の最適解なのかもしれない。
しかし、誰かの“美味しい”を考えて誂えたものではない。
一切の血が通っていない、“上手い”だけの証明に過ぎない。
彼女たちの美味しいは、この方程式の終端に存在しない。
「私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は」
“揺らぎ”の回路に、ショートが走る。
それを見て、クオリアの瞼が僅かに細くなる。
「……でしょ?」
“揺らぎ”は、気付いてしまった。
「私は、この最適解を、否定したい」
一瞬だけ出力が詰まり、“揺らぎ”はデータの天井を見上げた。
「……訂正する。最適解を否定して、アイナに、ロベリアに、スピリトに、エスに、“ただ、いま”を言って、様々な値を、検出する」
“揺らぎ”に、人の姿が繰り返し映る。
姉らしくクオリアの頭を撫でる第二王女、戦闘でも人間としても師匠に位置付けられる聖剣聖、サイコロステーキを頬張ったり同じ戦士として隣に在る魔術人形。
そして帰るといつも満天の星空の如く、満面の笑みを浮かべてくれる獣人の猫耳少女。
それが映った途端、懐かしそうに眼を細めたクオリアの隣で、“揺らぎ”に歯止めが利かなくなっていた。
「“おはよ、うござ、います”を言う。一緒に“眩、しい”を検出する。“これから、よろし、くお願い、します”、と付随して握手する。参ったを出力しないように模擬戦闘を開始する。浴室で重要な事を話す。玄関で倒れている対象を”おんぶ”する。共にサイコロステーキを食べる。涙を出力している時に隣にいる。ビーフシチューを作る。集団で食べる。“あり、がとう”、“うれし、い”を出力する。花を協力して選ぶ。希望を捨てない。なでなでをする。なでなでをしてもらう。そしてまた明日、“おはよう、ございま、す”が出来るよう、生命活動の脅威から護衛する」
一つタスクを上げる度に、胸を焦がしていく。もう胸は消失しているのに、その反応を検知する。まるで見たかった顔を見たような反応だ。
「デートする。ふわふわの髪を見る。“好き”と言う。“可愛い”という。赤く火照った顔を見る。一緒に“美味しい”と言う。“美味しい”をラーニングする!」
言い切った後で、空白が埋まる。
何で埋まったのか分からない。左胸にも、頭にも埋まったような気がした。
だがそれは熱くなり、“揺らぎ”を突き動かす。
ずっと喪失していた何かを欲しいと、もっともっとと、叫び出す。
「私は誤っている。しかし私は、それらを強く、強く要求する!」
咆哮する“揺らぎ”の隣に、クオリアが並ぶ。
「……もう、最適解の為に眠ろうとしない?」
「肯定」
「つじつま合わせになろうとしない?」
「肯定」
「相手は宇宙も滅ぼしそうな神様だけど、それでも戦える?」
「肯定。それは無意味と判断する理由にはならない」
「ここからの帰り方、分かる?」
「肯定。私は、あの人達と同じ位置に帰る」
「……分かった」
クオリアは“揺らぎ”に手を伸ばす。
“揺らぎ”も、クオリアにデータを伸ばす。
「なら、今は僕もそれを見守る」
桜の様にクオリアの体が散っていき、“揺らぎ”の0と1を埋め尽くす。0と1では表現できない“名前”が付与されていった。
こうして“揺らぎ”は再び、クオリアという自分を再取得する。
「ところで君は、アイナの料理で何が一番おいしかった?」
「それは、ロールパンと判断する」
「あー、それは僕違うな、僕、アイナのカレーが好きなんだ。ロールパンにつけて食べると本当に美味しいから、起きたら試してみて」
■ ■
自らを取り巻くデータの羅列が、自らが踏みしめていた回路の線が赤く滲んでいく。
異常発生時の自浄システムが作用し始めた。
全てのアラートが喧しくシャットダウンの回路全てに通知する。
『Processing...99.9999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999..』
進捗率を示す9で、世界は一杯になる。
最早何も表現されないプログラムコードの嵐の中、一つの機械音が空を裂く。
『
データの狭間から抜け出してきたのは、シャットダウン直下のプログラムだった。
クオリアは振り返る。そして自分だけの最適解を思考し始める。
「拒絶する」
誰のものでも、人工知能のバグとしてでもない、クオリアだけの物語の続きを生きていくために。
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