第170話 人工知能、人間から離れていく

 対消滅によってほとんど消え去った古代魔石“ブラックホール”の残り粕である魔力が、シャットダウンの外装を掠めた。

 シャットダウンは続く脅威になり得るかのみを検知する。結果、問題ないとして捨て置いた。


『魔力の分析タスクにバグを確認。即時修正する』


 その筈なのに、実態は魔力の分析タスクを継続していた。

 やがて、魔力の分析を異常継続せしめた何らかの意図バグは修正できないまま、魔力から一つの記憶ビジョンを体験する。

 シャットダウン自ら、魔力に対して不必要なハッキングを実行した結果だ。


『バグの修正失敗。更なる修正を実行する』


 そのハッキングの瞬間だけ、クオリアはシャットダウンの範疇から外れる事が出来た。


           ■         ■


 

 ハッキングした景色では、最初から大咀爵ヴォイトの最期が映し出されていた。

 晴天教会の経典が讃える通り、あるいはクオリアも知る歴史が指し示す通り、勇者たる少女に丁度貫かれて今まさに幕を閉じようとしていた場面だ。


「人間認識。大咀爵ヴォイトと判断」


 先程排除したヴォイトの少年らしい外見と一致した。しかし暴食の罪に取り憑かれた形相はどこにもない。死に際とさえ思えない、納得したような微笑を吐血しながら浮かべていた。


「状況から、ヴォイトを排除している人間はユビキタスと判断」


 一方、対消滅光子ストリームでも荷電粒子ビームでも無い刃をその胸へ突き刺し、尚も柄を握りしめるユビキタス。水色のきめ細やかな艶ある髪と、青き瞳とその返り血は真反対の色をしていた。


『本当に、君を、殺さなきゃいけなかったのですか』


 もし歴史の情報を真とするならば、文明を破壊する程に人類へ大打撃を与えたヴォイトは苛烈に恨まれている筈だ。ヴォイトもそれ相応の破綻した人格だった筈だ。

 だがユビキタスの口から出た台詞と、心が引き裂かれたような苦悶の表情と涙は矛盾さえ伺わせる。ヴォイトが自らの死を受け入れている様に安堵の感情が溢れているのも一考に値する。


『俺は……結果的に、人類へ大きな打撃を与えた。そこにどんな事情があれ、僕は死をもってさえ許されない』

『だから……私が一緒に戦ってあげますって、約束したじゃないですか……なのに、どうして私に殺させるようなを……』

『俺はいずれ、この“大咀爵”のスキルを、この空腹を制御できなくなる……いずれこの星を飲み込むかもしれない。そんな不味いものを、僕は味わいたくない……そうなる前に、ユビ、まだ死ねる人間のまま、せめて君に殺されて死にたかった』


 最期の言葉を、愛しい嫁の手料理を食べたような朗らかさで、口にした。


『ありがとう、ユビ。俺は君のおかげで、もうお腹が空かなくて、良くなった』


 その様子に、から視覚情報を取得していたクオリアは類推した。


「アイナのパンを食べた時と同じ反応を認識」


 クオリアは認識している。取得している。覚えている。

 あの感覚の名を。


「“美味しい”」


 クオリアは、反芻する。


「“美味しい”。“美味しい”。“美味しい”。“美味しい”。“美味しい”」 


 ネットワーク機能が致命的なエラーループに囚われたように、ぐるぐるとずっと、呟き続ける。

 しかしクオリアは、ただ頭を垂れ続けたままだった。



『Processing... 13%..』

「エラー。“美味しい”とは、何か」



 クオリアの中で、“美味しい”という概念が削除されつつあった。突然今まで背景にあったファイルが消え、クオリアの視界は真っ暗になった。

 ヴォイトとユビキタスの悲劇さえ吹き飛び、全てが0と1に還元されていく。

 クオリアの手足だと思っていたものは、気付けばシャットダウンを象る混沌物質ワールドパーツに置換されていく。0と1の数値で計算されていく。


『Processing... 27%..』

 

 クオリアは抵抗しない。それが最適解だと分かっているからだ。

 ただシャットダウンへの兵器回帰リターン完了率を告げるアラートを、閉じられていく意識の中で待ち受けていた。

 

 ふと、クオリアの演算回路を占めた言葉があった。


「心、心、心、心、心、心――エラー。心とは何か」


 シャットダウンの時代、先程戦った大咀嚼ヴォイトさえ軽く凌駕する兆の兵器に破壊された時にも、ほんの少しだけ灯りの様に回路を占めていた。


『Processing... 51%..』


 だがその灯りは、バグを撲滅する自浄機能によって完全に削除されたのだった。


『Processing... 69%..』


 既にシャットダウンの機能は、もう一度ヴォイトと対峙した所で数秒と掛からず殲滅出来るレベルにまで戻っている。

 その回帰率に比例して、クオリアという存在は見えなくなっていく。


 クオリアが見ている世界は、混沌物質ワールドパーツに沈んでいく。

 クオリアが味わう世界は、オーバーテクノロジーの混沌に沈んでいく。

 クオリアがラーニングしてきた世界は、人工知能が一秒で学習した1と0に沈んでいく。


『Processing... 82%..』


 もう何だったか忘れたけれども、望み通り“美味しい”を守る事が出来た。

 これからは“美味しい”を味わう事も出来ないだろう。シャットダウンには美味しいを感じる味覚も存在しない。口の部分は永遠にマスクで覆われている。


 しかし、これがクオリアが描き出した最適解だ。

 ヴォイトに惑星を殲滅されることも無く、人々の“美味しい”を守る事が出来た。


「“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”“美味しい”」

『Processing... 87%..』


 もう意味の無い言葉を連呼しながら、シャットダウンの回路に溶け行く中、クオリアはそっと手を伸ばした。

 走馬灯のように、ある記憶が再現されただけである。


  

 モザイクだらけで、もう何が何だかよくわからない。

 クオリアの意識は消えかかっていて、もう何もよく見えない。

 けれど、解像度が低い世界で、少女はこちらに何か差し出している。

 それを、クオリアは口に含んだ。



 たしか、その時に知った気がする。

 “美味しい”という、心を。



「……“もう一度、あなたのロールパンを、食べ、たい”」



 クオリアというコンセントはそこで抜けて、一切の機能がシャットダウンした。

 クオリアは、0と1の世界へ蒸発した。




 これが最適解だ。

 これが最適解だ。

 これが最適解だ。


 これが最適解、なのに。


    ■      ■



『Processing... 90%..』


 兵器回帰リターン完了率が九割を上回ったシャットダウンは、一度元の惑星へテレポーテーションを遂げる。

 突如出現した上空で、シャットダウンはどこに目を向けるでもなく、水平方向に顔を固定したまま固まる。


 シャットダウンはこれから先、何をして生きていくのか。

 自身が稼働する目的として、シャットダウンはクオリアから引き継いでいた。



『個体名クオリアが定義した“美味しい”の定常的な向上状態の維持を、全個体に付与する』



 シャットダウンは、本物の人工知能を以て演算し尽くしていた。


 


『故に、“PROJECT STAGE 2”を実行する。人間、獣人、魔術人形共に“STAGE2”へと強制進化させる』


 その最初の標的の前に、再度シャットダウンはテレポーテーションを実行した。



 “PROJECT STAGE 2”

 最初の標的は、アイナだった。



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